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塩哲の色即是空

私の日常の活動状況を飾り気なく、素のままで表現する。

ミュージアム巡り 東京・外国人居留地 1874年の図

2010-12-02 06:24:38 | ミュージアム巡り
 日本初の本格的な外国人居留地は、「明石町遺跡」として2000
年に明石町1-6や旧区立大二中学校の地点の発掘調査が行われた。
ここは、かつては武家屋敷や外国人居留地であったところなので、
当時の建物の基礎土台や井戸、ゴミの穴、西洋の食器、またキリ
スト教会があったもので、児童が使用した石筆や石盤なども出て
きている。
 この場所は江戸時代に海が埋め立てられたところで、所有者が
変わったり災害時毎にかさ上げが行われ、約200年間で2mの
かさ上げが発見されている。江戸の頃の生活面は近代面から数え
て5層の面まで確認されている。
 江戸時代の頃の埋め立ては、承応2年(1653)から明暦3年
(1657)にかけて行われた。家康が江戸に入府したのが天正
18年(1590)から江戸城や城下町の普請が続き、終了する寛
永13年(1636)までだから、江戸入府からこの遺跡地が埋め
立てられるまで60年以上、海のままだった。
 一番深い第5面は埋め立て直後で、約100年前後の生活面だ。
当時は小笠原、加ヶ瓜、堀田といった大名がこの地の拝領者。そ
の土地の池の底には、お尻に漆器碗が被せられた犬が埋葬されて
いたという。
(中央区明石町12-1)
明石町の遺跡図  埋葬犬の骨

ミュージアム巡り 東京・外国人居留地 築地ホテル館

2010-12-01 05:18:43 | ミュージアム巡り
 江戸の末期、幕府は横浜などの開港に伴い江戸を訪れた外国人の
宿泊や商談施設として、築地にあった軍艦操連所(現在の勝どき橋
脇の築地市場)跡に、清水組二代目の清水喜助に声をかけ、何と自
費でホテルの建設に当たらせている。
 築地ホテル館は慶応4年(1868)に完成、和洋折衷の建物は当
時、威容を誇ったという。当ホテルには開市前でも江戸の様子を見
学しに来た外国人が宿泊している。
 開設当時は多くの客で賑わったものの、それ以降は経営不振が続
き、明治4年に閉鎖する。翌年の銀座の大火で焼失。
(中央区明石町12-1)
築地ホテル館図

ミュージアム巡り 東京・外国人居留地 築地居留地略図

2010-11-30 06:25:38 | ミュージアム巡り
 「築地居留地略図」は隅田川から向かって描かれたもので、概要が
はっきりと判る。居留地を挟み左右(赤色)に相対貸し地域、左端に
築地ホテル館や右上には新島原遊郭跡地が示されている。
 居留地は堀割で囲まれ、居留地内に入れるそれぞれの橋のたもとに
は関門が設置され、別手組が警護に当たっていたという。
 築地ホテル館の楼望から撮影された写真は明治4年のもので、南小
田原町(現在の築地6~7丁目)の民家が広がっている。その先には
運上所(右寄り)や居留地の洋館が眺められ、まだまだ空き地がある
ことも判る。その先が隅田川で船や帆船が浮かんでいる。
(中央区明石町12-1)
南小田原町

ミュージアム巡り 東京・外国人居留地 鉄砲洲居留地

2010-11-29 06:30:45 | ミュージアム巡り
 10月9日から11月21日まで中央区立郷土天文館(タイムドーム明
石)特別展示室で「東京にあった外国人居留地」展が開かれていたの
で初日に伺った。当日は初日、朝イチとあってボランティアの解説員
の方が最後まで付き添って説明していただいた。
 築地外国人居留地は、明治元年11月19日(1869年1月1日)の
東京開市宣言によって、現在の中央区明石町一帯に開かれている。と
ころが指定したはいいが、整地工事に時間がかかり住むことが出来る
ようになったのは、その3年後。それから明治32年に廃止されるま
で居留地が存続した。
 居留地は雑居地域を鉄砲洲の武家地と町地(現在の入船、湊、明石
町、築地6~7丁目)に設定し、居留地差配人には清水組(現在の清
水建設)二代目の清水喜助の他2名が任命されている。
 築地鉄砲洲居留地中絵図には、築地ホテル館(右上)や運上所(後
の東京税関。日の丸が掲げられている)が判る。また、居留地設定直
前の図「上地御用留」もあった。
 東京開市にあたり、市民が外国人に接する時の心得を示した「申渡」
の中には、外での裸体の禁止や軒先に物を置くことの禁止など多くの
項目があったという。
(中央区明石町12-1)
上地御用留  申し渡し

ミュージアム巡り かちどき橋資料館 高圧配電盤

2010-11-28 06:40:46 | ミュージアム巡り
 この資料館の2階には「高圧配電盤」と「低圧配電盤」が置かれ
ていた。これは発電設備を動かし、勝どき橋に電気を送るためのも
のが当時のまま保存・展示されている。
 橋脚部運転室と機械室の見学ツアーは、毎週木曜日に4回分開催
されており、往復ハガキで申し込まなければならない。参加人数は
各回5名で、見学時間は50分程。平日の見学は難しいなあ。
(中央区築地6丁目20-1)
低圧配電盤

ミュージアム巡り かちどき橋資料館 直流発電機

2010-11-27 03:53:33 | ミュージアム巡り
 橋脚内に設置されていた「直流発電機」と「交流電動機」2機が
あった。これは可動部を動かすための発電機と電動機で、70度ま
で広げる電気が供給されており、開くまでに70秒を要した。
 可動部は軸上げに載せられた橋本体(片側だけで重量900t)と、
軸を挟んでカウンターウェイト(重量1,100t)が乗せられていた
という。
(中央区築地6丁目20-1)
交流発電機

ミュージアム巡り かちどき橋資料館 橋の模型

2010-11-26 06:21:47 | ミュージアム巡り
 資料館は元管理部があったところが利用されており、中はそれほ
ど広くはない。その奥に勝どき橋の100分の1の模型が置かれてい
た。ボタンを押すと開橋して、その後に模型の船が通るようになっ
ていた。なかなかおつな計らいである。
 また、現在は動かないものの、前は都電の走行もしていたと係の
方に教えていただいた。
 模型の横には、1970年11月29日の最後に開かれた橋の写真パ
ネルが展示されていた。貴重なワンカットである。
(中央区築地6丁目20-1)
最後の跳開

ミュージアム巡り かちどき橋資料館 勝どき橋_2

2010-11-25 06:28:34 | ミュージアム巡り
 勝どき橋のスペックは、橋長246m、幅員22m、支間長・可動
部25.8m×2、固定部86m×2。構造形式は可動部がシカゴ型
固定軸・双葉跳開橋、固定部がソリッドリブタイドアーチ橋。昭
和15年6月14日に完成し、当時の費用で418万円だった。
 隅田川の河口部は、江戸から昭和の初期まで港域で船舶の航行
が盛んなところだった。河岸には工場や倉庫が林立し背の高い貨
物船や大型船も多かった。そのために1日に数回開橋する可動式
となった。
 その開閉の回数では、戦前が1日5回で戦後が1日3回、また
1961年以降は1日1回となった。船が通る間、晴海通りは約20
分間の交通止めとなった。
 昭和30年代にはいると生活物資の運搬は自動車に転換されてい
き、隅田川を航行する船が減少していく。そのため、1970年11
月29日を最後に開閉が中止されており、それ以降は開かずの橋と
なった。
(中央区築地6丁目20-1)
繋ぎ目_1  繋ぎ目_2

ミュージアム巡り かちどき橋資料館 勝どき橋

2010-11-24 06:23:49 | ミュージアム巡り
 以前、隅田川に架かる主要な橋を巡った時、上流から下ってきて
最後に眺めたのが「勝どき橋」だった。その時は、遠目から眺めた
のみだったが、この橋のたもとにプチミュージアムがあるというの
で、10月9日に訪れた。
 勝どき橋は、1940年に隅田川の河口部に築造された国内最大規
模の可動橋だった。橋の中央部を“ハ”の字型に開き、1,000トン
級の大型船舶を通すことが出来た。
 築地と月島の連絡は、佃の渡し、月島の渡し、勝どきの渡しの3
つのみであった。時代と共に交通事情の発展に伴い、そんな交通の
不便さの解消に、また晴海や豊洲地域の開発もあり勝どき橋が建設
された。名前の由来は、明治38年の日露戦争の勝利を記念して、
その渡し場であった「勝どきの渡し」からとられている。
(中央区築地6丁目20-1)
築地市場

ミュージアム巡り 発明のチカラ 蚊取り線香

2010-11-23 05:08:29 | ミュージアム巡り
 「蚊取り線香」も明治の頃の発明だ。
 和歌山で蜜柑の輸出をしていた上山英一郎は、アメリカの植物会
社から除虫菊の種を入手する。これを栽培し、全国の農家の副業と
して普及させていく。
 上山は普及の旅先で、線香の販売を手がける商人から除虫菊の粉
を線香に混ぜることを考案する。明治23年、除虫菊粉に蜜柑の皮
の乾燥粉と糊粉を混ぜ棒状にした「蚊取り線香」を発明する。
 明治28年には長時間使用できるように“渦巻き型線香”を発明
した。これが現在の独特の渦巻き線香となる。製品名は「金鳥」
で、会社は大日本除虫菊。
(千代田区北の丸公園3-2)
カット_3