日本初の本格的な外国人居留地は、「明石町遺跡」として2000
年に明石町1-6や旧区立大二中学校の地点の発掘調査が行われた。
ここは、かつては武家屋敷や外国人居留地であったところなので、
当時の建物の基礎土台や井戸、ゴミの穴、西洋の食器、またキリ
スト教会があったもので、児童が使用した石筆や石盤なども出て
きている。
この場所は江戸時代に海が埋め立てられたところで、所有者が
変わったり災害時毎にかさ上げが行われ、約200年間で2mの
かさ上げが発見されている。江戸の頃の生活面は近代面から数え
て5層の面まで確認されている。
江戸時代の頃の埋め立ては、承応2年(1653)から明暦3年
(1657)にかけて行われた。家康が江戸に入府したのが天正
18年(1590)から江戸城や城下町の普請が続き、終了する寛
永13年(1636)までだから、江戸入府からこの遺跡地が埋め
立てられるまで60年以上、海のままだった。
一番深い第5面は埋め立て直後で、約100年前後の生活面だ。
当時は小笠原、加ヶ瓜、堀田といった大名がこの地の拝領者。そ
の土地の池の底には、お尻に漆器碗が被せられた犬が埋葬されて
いたという。
(中央区明石町12-1)
明石町の遺跡図 埋葬犬の骨
年に明石町1-6や旧区立大二中学校の地点の発掘調査が行われた。
ここは、かつては武家屋敷や外国人居留地であったところなので、
当時の建物の基礎土台や井戸、ゴミの穴、西洋の食器、またキリ
スト教会があったもので、児童が使用した石筆や石盤なども出て
きている。
この場所は江戸時代に海が埋め立てられたところで、所有者が
変わったり災害時毎にかさ上げが行われ、約200年間で2mの
かさ上げが発見されている。江戸の頃の生活面は近代面から数え
て5層の面まで確認されている。
江戸時代の頃の埋め立ては、承応2年(1653)から明暦3年
(1657)にかけて行われた。家康が江戸に入府したのが天正
18年(1590)から江戸城や城下町の普請が続き、終了する寛
永13年(1636)までだから、江戸入府からこの遺跡地が埋め
立てられるまで60年以上、海のままだった。
一番深い第5面は埋め立て直後で、約100年前後の生活面だ。
当時は小笠原、加ヶ瓜、堀田といった大名がこの地の拝領者。そ
の土地の池の底には、お尻に漆器碗が被せられた犬が埋葬されて
いたという。
(中央区明石町12-1)
明石町の遺跡図 埋葬犬の骨