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塩哲の色即是空

私の日常の活動状況を飾り気なく、素のままで表現する。

街を巡る まほろばの明日香 入鹿首塚

2009-10-13 06:28:18 | 街巡り_09
 先ほどの社で、ついつい顔がほころんだところで、注目のスポ
ットに来た。田圃の中にポツンと五輪塔があり、これが「入鹿首
塚」だ。
 五輪塔の立つこの場所に、蘇我入鹿の首が埋葬されていると確
証はない。五輪塔は1336年から1392年間の南北朝時代に流
行した墓の一部である。
 この塚があるところから直線で約600mのところに、先ほど
訪れた伝飛鳥板蓋宮があり、ここで起こったクーデター(乙己の
変)によって入鹿の首がはねられ、ここまで転がってきたと伝承
されている。常識では考えられないが、話が雪だるま式に膨れあ
がり伝わってくるのが常である。ここでは入鹿の首塚であると信
じたい。
 地元のご老人から伺った話で、心を打たれたことがひとつある。
入鹿首塚には毎日、榊や生花が絶えたことがないという。地元の
方が供えるであろうことは判る、それだけ蘇我本宗家が今でも地
元民に愛されているということだろう。
 こんなエピソードを踏まえると、蘇我氏は決して悪者ではなく
賢者であったことが伺える。歴史を改ざんした日本書紀をマジに
信じることはない。今後は、誰かが神話の世界を史実として説い
てくれるだろう。その時、蘇我氏の本性も判るはずだ。
(高市郡明日香村岡字飛鳥小字五輪)

街を巡る まほろばの明日香 飛鳥坐神社

2009-10-12 05:35:09 | 街巡り_09
 大伴夫人の墓の脇の道を下っていくと神社の鳥居があった。ここ
が「飛鳥坐神社」(あすかにいますじんじゃ)。
 鳥形山という小山の上に建っており、石段を登るとそこは静寂で
時が止まったような聖域のよう。祭神は事代主神や賀夜奈留美神、
大物主神など。
 元々、「飛鳥神奈備」としての飛鳥坐神社は、829年神託によっ
て現社地に遍座している。では元場所はどこなのか調べてみると3
カ所あり、「甘樫の丘」「雷の丘」「ハミ山」とでた。さて、どこ
だろう。
 また、この神社は岩石祭祀でも有名で、境内には至る所に陽石
(男根石)が設置されている。さらに調べるとこの社は性信仰で
有名で、西日本三奇祭のひとつお田植え神事「おんだ祭」(2月の
第1日曜日)が行われ、五穀豊穣と子孫繁栄を祈るというもの。
一度観てみたい。
 寺院の周辺には立石をよく見るが、これは境域を現すためのも
のであると言われている。こちらの社に散らばる石は、立石ばか
りでなく目的を持った陽石もあったが、元々は境界域を現すもの
だったのであろう。今後、寺社を巡った時はそんな立石を捜すこ
とも面白いものだ。
 訪れた時は厳粛な面もちであったが、境内を巡ると含み笑いを
堪えるものが多く、鳥居をくぐり外に出ると大爆笑してしまった。
(高市郡明日香村大字飛鳥字神奈備708)
鳥居

街を巡る まほろばの明日香 大伴夫人之墓

2009-10-11 04:36:30 | 街巡り_09
 大原神社の西側にこんもりとした小山があり、ここが「大伴夫人
之墓」(智仙娘)と指定されている。大伴咋(大伴金村の子)の娘
で、中臣御食子の妻となり鎌足を生んだ智仙娘の墓である。墓自体
は直径12m、高さ2.4m程の円墳である。
 この大原の里は鎌足の誕生地だけでなく、中臣から藤原に移り変
わり不比等、武智麻呂、そして五摂家へと連綿と続く藤原本宗家の
本管地であったことが伺われる。
 この墓でも判るように、鎌足はこの地で生まれたと断言できるだ
ろう。
(高市郡明日香村小原)

街を巡る まほろばの明日香 鎌足、産湯の井戸

2009-10-10 04:31:52 | 街巡り_09
 飛鳥寺の西側に重要なスポットがあるが、ここは後に訪れるとし
て、東側にある大原の里を訊ねてみた。
 乙己の変や大化改新の中心人物、中臣鎌足は、天智天皇の近江王
朝で最高位の位である大織冠を授けられ、臨終時に“藤原”の姓を
賜わり藤原氏の本管を築いた。その藤原鎌足が推古22年(614)
この大原の里で生まれた。また、この大原の里は“藤井原”と呼
ばれている。
 鎌足の誕生伝承地(旧藤原寺跡)の西側に、大原の里の氏神様で
ある「大原神社」がある。古くはこの社と西側にある「飛鳥坐神社」
の間にもう一つ「鷺栖神社」があって、その境内に鷺栖池があった。
名前のとおり鷺が多く棲んでいたので“飛ぶ鳥の明日香”と呼ばれ
たり、“明日香”を“飛鳥”と表記するようになったのも鷺栖池の
鷺に由来しているという。
 さて、この大原神社の裏手北側に、鎌足が産湯に使用したと伝承
されている井戸がある。藤原の名の由来となった藤の大木は、この
井戸近くにあったとある。
 ところで、「大鏡」(平安時代後期に作成された歴史物語)には、
藤原鎌足は常陸の国・鹿島で生まれたと記されている。大原の里
を訊ねてみれば、この地が藤原氏の基を築いたところと思うが、さ
て、どちらが正しいのか。
(高市郡明日香村小原)
産湯の井戸

街を巡る まほろばの明日香 飛鳥寺

2009-10-09 06:21:33 | 街巡り_09
 続いて、蘇我馬子が6世紀末頃に建立した日本最古の寺院である
「飛鳥寺」へ向かう。呼び名は多く「法興寺」「元興寺」「安居院」。
馬子は物部守屋との戦いで勝利し、真神原のこの地に寺を造営。
 当時の寺は、五重塔を囲み中金堂、東金堂、西金堂が建っていた
壮大な伽藍であったといわれている。本尊は飛鳥大仏と呼ばれる
「釈迦如来坐像」で7世紀初頭のもの。建久7年(1196)の落雷
による火災でほとんど焼失し、現在残っている部分は顔の上半分と
左耳、右手の第2、3、4の指のみだといわれ、補修されて現在の
姿に再現されている。
 今回は先を急いでいたので入山はせず、お寺の廻りを外から眺め
た。
(高市郡明日香村飛鳥682)
飛鳥寺_2

街を巡る まほろばの明日香 酒船石

2009-10-08 06:20:54 | 街巡り_09
 「酒船石遺跡」がある丘陵の頂に明日香を代表するミステリアス
な巨石がある。丘全体が人工的に造成されたもので、斜面に沿って
4段に積み上げられた石垣が見つかり、その丘の頂点に忽然と置か
れたのが「酒船石」(さかふねいし)。
 長方形のその石は、長さが5.5m、幅が2.3m、厚さは1mの花崗
岩で、西側に傾いている。上面は平坦で、そこに円や楕円、くぼみ
が掘られ、それぞれ溝で結ばれている。
 幾何学模様の石面の用途は、酒を絞るのに、または油や薬を調合
したなど諸説あるが、丘陵下の遺構が見つかったことにより、庭園
の流水施設のパーツであったことも伺える。
 ところが2年前の2007年に、酒船石遺跡でベニバナの花粉が大
量に見つかったことが報じられたことにより、祭祀時の占用儀式と
してベニバナ花粉を用い、オレンジ色の水を流したのではないかと
推測される説も登場した。
 いずれにしても、これだ!! という決定打は出てこない謎の石だ。
(高市郡明日香村岡辺り)
酒船石_2  酒船石_3

街を巡る まほろばの明日香 亀形石造物

2009-10-07 06:35:31 | 街巡り_09
 伝飛鳥板蓋宮跡から北東に進んでいくと、小高い丘陵の元が開け
て公園のようになっているところがある。「酒船石遺跡」で、それ
も有料だ。以前、訊ねた時はこの「亀形石造物」遺跡は発掘されて
なかった。
 2000年に行われた発掘調査で丘陵の北裾辺りから「亀形石造物」
と「小判形石造物」が出てきた。この石造物は石槽になっており、
これを組み合わせて水源から排水までの導水構造の施設であったこ
とが判明した。この廻りには石敷きが施され、階段状の石垣等もあ
り、当時の施行の跡が巧妙で精緻な造りであることが判る。
 この遺跡は斉明天皇の治世時に造営されており、その後平安時代
まで約250年の間、使用されていることも判っている。日本書紀
の斉明紀に「狂心の渠」(たぶれごころのみぞ)と言わしめるほど、
斉明天皇の明日香の地における狂気のような数々の造営工事を批判
している言葉である。
 この遺跡は、当時は何らかの祭祀の場であったことが考えられる。
また、斉明天皇の「両槻宮」であったとも推定されており、今後の
調査結果が楽しみだ。
(高市郡明日香村岡辺り)
亀形石_2

街を巡る まほろばの明日香 伝板蓋宮跡

2009-10-06 06:24:21 | 街巡り_09
 岡寺のある丘陵地中腹から坂を転げ落ちるように下り、「乙巳の
変」の舞台となった「伝板蓋宮跡」を巡ってみた。開けた平坦な田
圃の中、かつて「真神原」(まがみがはら)と呼ばれたところに遺
跡がある。これが「飛鳥伝板蓋宮跡」(でんあすかいたぶきのみや
あと)で、現在は石畳が敷かれ当時の礎石が復元されている。
 この場所こそ、政治を変えたエポックメイキングな重要なポイン
トであった。皇極4年(645)6月12日、この宮の大極殿で蘇我
入鹿が誅殺され、その後、蘇我本宗家が滅亡されていく。その後の
「大化改新」は、乙巳の変を皮切りに押し進められた古代の重要な
変革であった。
 また、この地は長い調査の結果、約100年の間に6名の天皇が
繰り返し宮殿を営んでいる。最下層に舒明天皇の飛鳥岡本宮、その
上に飛鳥板蓋宮、最上層には飛鳥浄御原宮と後飛鳥岡本宮(斉明天
皇)であることが判明している。
 宮跡脇に万葉歌碑があった。志貴皇子が詠んでいる。
 「采女の袖吹き返す明日香風 京を遠みいたづらに吹く」
(高市郡明日香村岡辺り)
石歌碑

街を巡る まほろばの明日香 岡寺

2009-10-05 05:01:17 | 街巡り_09
 石舞台で感慨に浸りたい思いを振り払い先を急ぐ。丘陵地帯の山並
みを眺めながら向かった先は「岡寺」。急な登り坂を登っていくと、
そのお寺があった。
 ここは天智2年(663)に草壁皇子が住んでいた岡の宮を仏教道場
に改め、義淵僧正に下賜されたところ。昔、寺の近くに農地を荒らす
龍がおり、義淵が法力により小池に封じ込め大きな石で蓋をした。こ
の伝説が寺の名称である「龍蓋寺」(りゅうがいじ)の原点となって
いる。
 本堂の前には、その龍蓋池があった。こんな伝説が信仰に導かれ、
災いを取り除く厄除け信仰に繋がっていく。日本で最初の厄除け霊場
である。本殿には日本最大で最古の塑像観音の「如意輪観音像」が安
置されている。
 三重宝塔まで登れば、眼下が広がり明日香の地が一望のもとに眺め
られた。
(高市郡明日香村岡806)
仁王門  寺からの眺め

街を巡る まほろばの明日香 石舞台古墳_2

2009-10-04 05:17:51 | 街巡り_09
 歴史を改ざんした日本書紀・推古三十四年・夏五月の条に蘇我馬
子の死亡記事が出ている。
「夏五月の戊子の朔丁未に、大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る。大
臣は稲目宿禰の子なり。~ 飛鳥河の傍に家せり。~ 時の人、嶋
大臣と日ふ」
と記されているとおり、石舞台の辺りは“嶋の庄”と呼ばれ馬子の
邸宅があり、飛鳥川のほとりに小さな島を浮かべた池があったこと
から“嶋大臣”と呼ばれてもいた。この池こそ“まがりの池”と推
定される。
 石舞台は盛り土が失われ石組みがむき出しの横穴式石室で、約30
の大小の石が積まれ総重量は2,300トンに達する。石室内部には
排水設備も施され、周囲には空濠のほかに外堤もあり巨大な方墳であ
ったことが伺われる。
 石棺は持ち出されて発見されていないものの、石室から加工された
凝灰石の破片が見つかっている。それを元に復元された石棺が墳墓空
濠南側に置かれていた。
 昔の文献の中にも石舞台は登場しており、本居宣長が記した「管笠
日記」(1772年)や津川長道の「卯花日記」(1829年)にも出てく
る。
 私は馬子こそ用明天皇と推定し、その子の聖徳太子は蘇我蝦夷であ
ると考える。
(高市郡明日香村村島庄)
石棺  石舞台古墳_3