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塩哲の色即是空

私の日常の活動状況を飾り気なく、素のままで表現する。

街を巡る 東京の名水_1 柳の井

2009-10-23 06:28:26 | 街巡り_09
 8月22日、午前中の数時間を利用して東京都内の名水を巡って
きた。名水といっても先日巡った京都の名水とは歴史も浅く、名水
と呼べるかどうか疑問であるが、地元の方々に昔から愛され飲まれ
てきた井戸を訊ね歩いた。
 まずは「湯島天神」を目指す。この社の男坂坂下に「心城院」と
いうお寺があり、その境内に「柳の井」がある。
 本殿前の手水鉢としても利用されており、まず本日一番に手を洗
い口を注ぎ、その清らかな江戸の名水を口に含んでみる。サラサラ
といった感じで喉に流れ込む。
 この湧き水は、今まで一度も枯れたことがなく、関東大震災時で
もコンコンと湧き出て、被災された方の命の水として利用された。
昔から伝わるいわれは、この水で髪を洗えば絡まっていた髪の毛も
自然にほぐれ、汚れた垢も落ちてしまう。気分も高揚して、風新柳
の髪を削るということで“柳の井”と名が付けられた。
(文京区湯島3-32-4)
心城院

街を巡る ドッコイセ~福知山 里柿

2009-10-22 06:24:20 | 街巡り_09
 御霊神社から再び町屋の残る街並へ歩を進める。昔通った耳鼻科
の病院を訊ねるが、既にマンションに変わっていた。
 福知山に帰ってくると土産に買っていくのが名門堂 千原の「里柿」。
柿のような形をしており、ぎゅうひ餡の中に干し柿も入った和菓子
で、上にはザラメがまぶしてある。程良い甘さの優しい味で、家人
や親戚など受けの良いお土産になっている。創業は古く慶長16年
(1611)、当時は宮津藩の御用菓子司を務められており、大正の
頃に福知山に移転して現在に至る。
 さて、そろそろ会の始まる時間が近づいてきたので、駅前に戻っ
て会場先まで急ぎ足で向かい、旧友の再会を楽しむことにしよう。
名門堂 千原(京都府福知山市駅前町36)
和菓子_里柿  HP

街を巡る ドッコイセ~福知山 御霊神社

2009-10-21 04:35:05 | 街巡り_09
 城を後に再び町屋が数多く残る城下町を散策。時候はお盆、本日
から街は「ドッコイセ~祭」とあって、ほとんどの店はシャッター
が下ろされている。この、ドッコイセ~とは「福知山音頭」のかけ
声である。そのドッコイセ~祭のメイン会場がある広小路通り。
 広小路通りは、その祭の準備で大わらわ。御霊神社に歩を進めた。
幼少の頃、御霊神社の前の広場には街頭TVが設置されていて、力
道山vsデストロイヤーの壮絶な戦いを、父親の肩車で眺めたことを
思い出した。当時は広い広場に数多くの見物人が埋め尽くしていた
が、今省みるとそれほど広い広場ではなかったなあ。この神社の境
内外に大きな柵檻の猿小屋があったが、既に取り払われていた。
 この社は、宝永2年(1705)に福知山城下に創祀され、1918
年にここに移る。明智光秀が祀られており、歴史的には信長を倒し
た逆臣として悪者扱うであるが、丹波の国を統治した名将として地
元では今でも慕われている。
(京都府福知山市中ノ238)
JR福知山駅

街を巡る ドッコイセ~福知山 福知山城_2

2009-10-20 06:26:17 | 街巡り_09
 福知山城の築城は、天正8年(1580)頃にこの丹波の地を平定
した明智光秀が拠点としたのが始まり。それ以来、城主が交代する
ごとに整備が繰り返され、慶長5年(1600)頃に完成。明智から
始まった歴代の城主は、杉原家次、小野木重勝、有馬豊氏、岡部長
盛、稲葉紀通、松平忠房、朽木稙昌(朽木はこれより13代まで続
く)。初代、明智光秀の絵画像が展示されていた。
 明治に入ると廃藩置県や廃城令により取り壊され、石垣と銅門番
所のみ残され、春は桜の名所となっていた。
 天守閣の最上階まで登り、四方の山並みを眺めてみた。この風景
は昔も今も変わりはなかった。特に姫髪山の大文字が目に入ると熱
いものが込み上げてきた。
 城郭には日本一の深さを誇る井戸「豊磐井」(とよいわのい)が
ある。深さは水面まで50mに達し、海抜43mのこの地で、井戸
底は海面下7mになる。岩盤を掘り開いたことの驚きと、今度はそ
の水を汲み上げる作業を思うと、当時の苦労が偲ばれる。
 城内周辺は公園となっており太鼓橋まで架けられていた。以前の
荒れ放題の城壁からしっかりと整備された城に生まれ変わり、明智
や朽木の殿様はさぞや草葉の陰で喜ばれていることだろう。
(京都府福知山市内記)
豊磐井  太鼓橋

街を巡る ドッコイセ~福知山 福知山城_1

2009-10-19 06:28:27 | 街巡り_09
 今年の夏、お盆休みを利用して関西を巡り、3日目の最後の日に
田舎に帰った。目的は高校の時の同窓会である。JR山陰線の福知山
駅に着いてビックリ。線路は高架になり見違えるような立派な駅舎
になっていた。以前は北側しか改札がなく、駅前も賑やかであった
が今は寂れ、逆に南口にも広場が出来ており、今後はここを拠点に
駅前の再開発が進むのだろう。
 会が始まるまで2時間ばかりあったので、市内を巡ってみた。表
通りから裏通りに入ると、その街の景色は昔のままで遠い過去の郷
愁が思いのほか込み上げてきた。明治から昭和初期にかけて建てら
れたビルや街の病院、倉庫などがぽつりぽつりと現れ、通学の行き
帰りに見てきた光景が蘇ったかのように流れていく。なぜかこの時、
イタリア映画「ニューシネマパラダイス」(J・トルナトーレ監督、
1989年)のシーンが思い浮かんできた。エンリコ・モリコーネの
音楽とともに、フィリップ・ノワレが演じた老映写技師が今にも出
てきそうな古びた映画館も残っていた。
 駅に着く時、電車の窓から見えていた「福知山城」を巡ってみた。
当時は本丸城跡の石垣が残るだけの高台であったものが、1986年
に大天守閣に続き櫓小天守閣が再建竣工されたという。大きな城で
はないが、眺めるところを考えれば、なかなか立派で美しい。
(京都府福知山市内記)
福知山城_2  明智光秀_画像

街を巡る まほろばの明日香 高松塚古墳

2009-10-18 04:39:51 | 街巡り_09
 甘樫丘周辺から飛鳥駅にほど近い「高松塚古墳」へ自転車を走ら
せた。ここには何度も足を運んでいるので、ササッと見て回る予定
だった。来てみると、高松塚周辺は整備が行き届き、まるでテーマ
パークのようである。これでは遊園地に来たような錯覚を起こして
しまった。壁画館はスルーして、高松塚古墳まで来ると廻りは塀で
囲まれ、現在修理中だった。
 1970年、この近くに住む村人が秋に収穫した生姜を貯蔵するた
め土を掘り返し穴を掘ったところ、古い切削された石が出てきた。
そこから1972年より本格的な発掘調査が始められ、石室の中にあ
る壁画の大発見となり国宝に指定される。
 藤原京時代(674~710)の古墳で、被葬者は天武天皇の皇子
(忍壁、高市、弓削)や臣下の石川麻呂、または百済と高句麗の王
族と考える説があるが、判明まではいたっていない。
 高松塚古墳から南に少し進むと「文武天皇陵」がある。
 文武は草壁皇子(天武天皇の第2皇子)の長子で、祖母の持統天
皇の後見を受け15歳で即位、天皇在位10年、24歳の若さで夭折
する。その間、藤原不比等の娘・宮子を夫人として後の聖武天皇を
生み、ここから藤原氏のパワーが高まっていく。
(高市郡明日香村平田)
文武天皇陵

街を巡る まほろばの明日香 甘樫坐神社

2009-10-17 04:57:15 | 街巡り_09
 豊浦寺の西側奥に「甘樫坐神社」(あまかしにますじんじゃ)が
ある。古くは武内宿禰による創建と伝承されている。主祭神は推古
天皇。
 こちらの社では、一風変わった神事「盟神深湯」(くがたち)が
毎年4月の第1日曜日に境内で執り行われている。それは、神に誓
い湯を探る所作のことで、古代の裁判制度の一種である。日本書紀
には允恭4年(415)の条に、氏姓制度の混乱を正すため、甘樫の
神の前に諸氏を集めて「盟神深湯」を行ったと記されている。
 煮え湯の入った釜に手を入れ“正しき者には火傷なし、偽りし者
は火傷あり“という極めて荒っぽい裁判方法。神事の当日には古代
衣装をまとった氏子たちが、境内にある立石の前に釜を備え、裁判
の様子を再現する神事が行われる。
 こちらの社の「立石」は高さ3m、幅1.5m、厚さ1m程ある片
麻岩でとても立派。明日香の地にはこの立石がよく見られ、祭祀の
遺跡であるのか、あるいは境界を現す結界石なのか、よくは判らな
いが、眺めているだけで心が和らぐ。
(高市郡明日香村豊浦626)
立石

街を巡る まほろばの明日香 豊浦寺跡

2009-10-16 06:24:22 | 街巡り_09
 飛鳥川を渡り「甘樫の丘」の麓でしばし休憩。以前この地を訪れ
た時、この丘の上まで登っているので今回はスルー。この丘の北西
側に位置する向原寺の「豊浦寺跡」を巡ってみた。
 欽明13年(552)に百済の聖明王が当時の朝廷に献上した金銅
釈迦沸(これが日本に初めて入ってきた仏像)を蘇我稲目が賜り、
当時邸宅のあったこの地を浄めて寺としたのが始まりで、日本初の
寺(向原寺)とされている。
 その後、疫病が流行し、その矢面に立たされたのが仏教崇拝とい
う理由で、廃仏派の頭領・物部尾輿により仏像を寺の隣にあった堀
江に捨てられ、寺も壊されてしまう。
 さらに時は移り、推古天皇の豊浦宮が建てられ、603年に宮を小
墾田宮に移転した後に、蘇我馬子がこの地を譲り受け「豊浦寺」と
して正式に建立する。当時の寺は金堂、講堂、塔、回廊から尼房ま
であり、僧寺である飛鳥寺と双璧の規模を誇る伽藍が築かれていた
ようだ。
 この当時を振り返ると、飛鳥寺をはじめ若草伽藍、四天王寺、そ
して豊浦寺を含めいくつもの寺院建立を同時に進行できる財力と組
織力を併せ持った蘇我本宗家の実力の高いことが伺える。
(高市郡明日香村豊浦)
豊浦寺跡_石標

街を巡る まほろばの明日香 雷丘

2009-10-15 06:22:48 | 街巡り_09
 田圃の中の道を北上し左の方角を眺めると、こんもりとした小山
があり古墳なのだろうかと近づいてみると「雷丘」(いかづちのお
か)だった。約10m程の高さの雷丘は、山田道と飛鳥川の交差する
ところにある。発掘調査の結果、5世紀頃の埴輪が、7世紀頃の古
墳の石室が、また中世期頃の城郭跡が出てきたとある。
 柿本人麻呂が雷丘を詠っている一首がある。
 「大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 庵りせるかも」
 これは持統天皇が雷丘に出遊された時の歌で、大君は神でおあり
なので、天雲の中にいる雷の上に仮の宮殿を造られていることだ、
と訳せるか。天雲の雷と歌い上げることにより、仮宿される天皇を
賛美しているのだろう。さすが、よいしょの宮廷歌人・人麻呂だけ
のことはある。
 丘の上まで登れる階段があったので登ってみると、樹木がところ
どころにあり、決してクリアな景色ではないものの、太古から眺め
続けられる明日香の風景が楽しめた。
(高市郡明日香村雷辺り)

街を巡る まほろばの明日香 飛鳥水落遺跡

2009-10-14 06:24:31 | 街巡り_09
 入鹿の首塚を後に北の方角に自転車で進むと、その先に「水落遺
跡」にたどり着いた。ここは斉明天皇6年(660)に中大兄皇子が
日本で初めて「漏刻水時計」を造って、その後に天智天皇に即位し、
671年この地に設置したという。
 これは、堅固で精密に建造された建物と、その内部に漆黒塗りの
木製水槽が1981年に発見され、それが漏刻装置だったことが判明
されている。この遺跡を眺めているだけで礎石と台座などの構造が
しっかりしており、当時の建物としてはとても立派であったことが
伺える。
 当時この地で時の管理と天文や暦、呪いも行う部署があったのだ
ろう。この場所で決められた時間になると、都へ時刻を知らせる鐘
や太鼓が打ち鳴らされたことを思えば、ここはまさしく、遠いむか
しのまほろばの雰囲気を与えてくれるスポットである。
(高市郡明日香村飛鳥辺り)