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塩哲の色即是空

私の日常の活動状況を飾り気なく、素のままで表現する。

街を巡る 川崎界隈_1 川崎稲荷社

2009-11-12 06:22:22 | 街巡り_09
 通称、大師道路を横断し本町2丁目に入る。路地裏に入るとひっ
そりと小さな神社があった。ここが「川崎稲荷社」。
 創建年は不明であるが、社の基礎の土留部分に二ケ領用水に架か
っていた石橋の部材を用いていたり、社殿の下には磐余ある欅の大
木の根株が残っているという。
 享保元年(1716)、御三家・紀州藩主の吉宗が八代将軍に迎え
入れられるため江戸へ向かう途中、こちらの社で休息をとったと古
文書に記されている。
(川崎市川崎区本町2-10-9)

街を巡る 川崎界隈_1 真福寺の庚申塔

2009-11-11 06:23:56 | 街巡り_09
 続いて旧東海道から路地に入り真福寺を目指す。道すがら黒いス
ーツをビシッと決めたおじさん達が店頭に立っている姿が飛び込ん
できた。電柱の住所表示を見ると「堀之内」と出ていた。ああ、そ
うか、ここが有名な“カワサキ○□☆街”なんだ。
 “重役室”“奥の院”などと意味深な店名と派手な色彩の看板に
囲まれた、どえらい所の一角にある真福寺は、朝が早いのか固く門
が閉じられていた。それでも門の外からお目当ての塔を拝むことが
出来た。
 それは、川崎市内最古級(寛文5年・1665)という「庚申塔」
がある。高さ221cmと大型の庚申塔は、阿弥陀如来立像が半浮彫
りされている。塔の前にある石造の香炉も貞享5年(1688)の年
号が彫り込んであり、こちらも古く価値のあるものだ。
 現在の堀之内、そして阿弥陀如来が鎮座している光景、遠い江戸
の頃には考えられない組み合わせが時代を反映している。
(川崎市川崎区堀之内町11-17)
真福寺

街を巡る 川崎界隈_1 田中本陣跡

2009-11-10 06:22:47 | 街巡り_09
 旧東海道をさらに東へ進むと「助郷会所跡」という説明版があっ
た。これは宿駅に常備する伝馬人足の不足を補う助郷制によって、
近在の農家から徴用された人馬を助郷会所に集めたことを表してい
る。この助郷制は、周辺の農民への労働負担が重くなり貧窮を招き、
不評な制度だったという。
 そして、再び本陣跡が続く。本陣とは大名や旗本、公家といった
位の高い人が宿泊する今でいう五つ星ホテルで施設内の設備も立派
であった。
 この「田中本陣跡」の当時の主人・田中休愚は、本陣のほかに名
主と問屋の三役を兼ね、また六郷川の渡し船権利を江戸側から川崎
側に譲り受け、宿場の財政を立て直した御仁でもある。さらに、二
ケ領用水や酒匂川の治水に務め、幕府の大名級に当たる勘定支配格
に登用されている。
(川崎市川崎区本町1)
助郷会所跡

街を巡る 川崎界隈_1 烏八臼の謎

2009-11-09 06:26:21 | 街巡り_09
 旧東海道に面した(といっても駐車場が広いエントランス)寺、
宗三寺の墓所の墓石に謎めいた文字が刻まれているという。
 早速、寺の墓所に駆けつけると、墓の先は京急大師線の川崎駅
ホームが見えている。なんとも明るい墓所だ。
 その謎の文字は「烏・八・臼」の三文字が組み合わされており、
「うはっきゅう」と読む。青木家と波多野家の墓石頭部と、また
川崎宿で働いていた飯炊き女の供養塔に刻まれているという。青
木家と波多野家は探し当てたが、供養塔が判らなかった。
 そこでこの文字を調べてみると、“カラスを追う鳥”だとか
“供物に近づくカラスを追っ払うため”“在家の仏教信者の印”
などが挙げられている。
 また、立正大学の故久保常晴教授が「烏八臼の研究」(1941年)
論文で、「死者の成仏を祈る『滅罪成仏』の功徳を表す梵字を漢
字に変形した」と解されている。これは、梵字の呪い文字を漢字
にした「二(かん)」をさらに変形したのが「烏八臼」であろう
と言われている。今後も墓巡りは、注意して巡ることにしよう。
(川崎市川崎区砂子1-4-3)
波多野家の謎文字  青木家墓  宗三寺

街を巡る 川崎界隈_1 中の本陣・問屋場跡

2009-11-08 06:05:47 | 街巡り_09
 砂子1丁目の角に当たる辺りが「中の本陣跡」で、問屋場と向か
い合う形で建っていたという。佐藤・田中本陣の間にあったので
「中の本陣」と呼ばれているが、正しくは「惣兵衛本陣」だ。問屋
場には人足と伝馬が常備されて、今でいう役所に当たるところ。当
時の川崎宿は本陣も多く、大名の参勤交代が続け様にあっても対応
できたのだろう。
 ここから少し東に進むと「砂子の里資料館」(砂子1-4-10)があ
る。こちらは10時からのオープンであるが、日曜祝日は休館日と
のこと。川崎宿をテーマとした資料が展示されているという。資料
館前の道路脇に「郵便差し出し箱1号(丸型ポスト)」がある。こ
れは丸型ポストの復活第1号だそうだ。
(川崎市川崎区砂子1丁目辺り)
砂子の里資料館  郵便ポスト

街を巡る 河崎界隈_1 旧東海道・川崎宿

2009-11-07 03:27:11 | 街巡り_09
 再び旧東海道に戻り、六郷橋を目指す。途中、旧東海道を現す案
内板や石標を確認しながら進むのも楽しい。
 慶長6年(1601)に徳川家康が東海道を新たに整備し39の宿
を定め、川崎は品川宿と神奈川宿の合いの宿で、元和9年(1623)
3代将軍・家光の時に宿駅として追加されている。この時に東海道
五十三次が定められた。
 川崎宿は砂子、久根町、新宿、小土呂の四町よりなり、徳川将軍
四代にわたる川崎大師への厄除け詣でが江戸庶民の往来を盛んにし、
またその繁栄振りを見つめてきている。
 川崎宿を偲ぶ絵としては、安藤広重が天保4年(1830)に描い
た「東海道五拾三次」の「川崎」が有名だ。
(川崎市川崎区砂子1辺り)
石標  旧東海道案内

街を巡る 川崎界隈_1 稲毛神社

2009-11-06 06:21:30 | 街巡り_09
 公園の東隣りに「稲毛神社」がある。この社は平安時代に創建さ
れた河崎庄の鎮守で、当時は河崎山王社または堀之内山王権現と呼
ばれていた。幕末に入り現在の社名となる。
 境内には興味を引くものがあり、中でも設置されたのは新しいが
「天地睨みの狛犬」がある。右側が天をお祓い、左側が地をお祓う
と伝えられており、身体の上半身の願いを叶えるのが右側、下半身
の願いは左側で、それぞれの狛犬を撫でると霊験があるという。
 そして、根本から枝が幾本も伸びた樹齢1,000年という「ご神
木 大銀杏」が目に止まる。この大銀杏の周囲を回りながら願いを
すると、縁結び、子受け、子育て、学問・習い事の向上に霊験あり
という。この大銀杏、1945年の戦火を浴びて損傷したものの、再
び樹霊を蘇らせ現在に至っている。
(川崎市川崎区宮本町7-7)
狛犬_右  狛犬_左  大銀杏

街を巡る 川崎界隈_1 旧六郷橋親柱

2009-11-05 06:20:45 | 街巡り_09
 早朝だというのに昨晩の喧噪が続いている一角を離れ、宮本町へ
と進む。稲毛公園の一角に「旧六郷橋親柱」が近代化遺産として、
2002年に整備保存されている。
 六郷橋といえば、1月2日の箱根駅伝で実況アナウンサーがうん
ちくを語り、全国的に有名な橋だ。1925年(大正14年)、本格的
な橋建設のため鉄骨コンクリート製の旧六郷橋が竣工。それから時
が経ち老朽化し、現在架かる橋に交代した。
 この公園は見た目荒れ放題で、歴史を垣間見てきた遺産が手入れ
もされずそのままなのは痛々しい。目と鼻の先に川崎区役所と市役
所が在るのだから、行政がしっかり再整備してほしいものだ。
(川崎市川崎区宮本町7)

街を巡る 川崎界隈_1 佐藤惣之助の碑

2009-11-04 06:27:11 | 街巡り_09
 小川町や砂子、宮本町界隈は川崎一の歓楽街で、早朝であるにも
かかわらず賑わいが続いている店もいくつかあり、酩酊した御仁の
姿が目についた。
 その歓楽街の中に「佐藤惣之助の碑」があった。佐藤は「人生の
並木道」や「赤城の子守歌」、「湖畔の宿」など懐メロ歌謡曲の作詞
家であり詩人である。また、阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」
の作詞も手がけている。碑は川崎信用金庫本店前のほかに稲毛神社
や川崎市体育館の花壇にもあるという。
 佐藤の碑のすぐ近くに「旧橘樹郡役所記念碑」があった。ここは
1878年(明治11年)郡区町村編制法で神奈川町成仏寺に橘樹郡
役所が設置され行政が行われている。1926年に郡役所は廃止され、
橘樹郡の名も消えてしまう。川崎市制80周年を記念して記念碑を
設置し万葉集にも詠われた“橘樹”の名を留めた。
 さらに歓楽街の路地裏には、川崎宿の茶店「万年」主人・半七の
墓がある「大徳寺」(砂子2-8-4)があるが、固く門戸が閉められ
ていた。
(川崎市川崎区砂子2-11)
旧橘樹郡役所跡碑  大徳寺

街を巡る 川崎界隈_1 小土呂橋欄干

2009-11-03 04:22:50 | 街巡り_09
 10月18日、神奈川県川崎市の旧東海道筋を巡ってみた。
 JR川崎駅で下車し、まず最初に巡ったところは、昔は新川堀と呼
ばれた幅5mほどの流れがあった用水跡。この堀が旧東海道と交わ
る地点に「小土呂橋」(こどろばし)が架けられていた。
 1931年頃、用水路は埋め立てられ、現在は橋の欄干の親柱だけ
が残り、交差点脇に保存されている。小土呂、砂子、新宿、久根崎
など、東海道川崎宿と呼ばれた4町は古くからある地名だ。
 また、約280年前、ベトナムから連れてこられたゾウがこの橋を
渡ったと伝えられている。
(川崎市川崎区小川町)
当時の小土呂橋