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塩哲の色即是空

私の日常の活動状況を飾り気なく、素のままで表現する。

街を巡る 川崎2_鶴見 路面電車

2009-11-22 06:23:40 | 街巡り_09
 桜堀運河からコリアタウンに向かおうとしたが、そのまま北上す
る。桜川公園に到着すると、周辺の御年輩たちが広場に集まってラ
ジオ体操の真っ最中。それが終了するのを待って広場を横切り、公
園角の囲いの所まで来た。
 ここに、一昔前、川崎市街を走っていた路面電車が置いてあった。
1944年、川崎駅東口から東渡田5丁目まで開通。その後、運行距
離が延ばされ、1953年には塩浜駅まで総延長6.95kmまでになる。
1969年に路面電車は廃止。
 この公園に展示されている電車は、1922年製造で、1573号型
として東京で運行されていたもの。1947年に川崎市が当時31万
円で払い下げてもらう。この車両は当初、木造車で木部が腐食した
ため鋼板に改造し、702号車として展示されている。当時の改造費
は413万5千円だという。
(川崎市川崎区桜本1-14)
路面電車_2

街を巡る 川崎2_鶴見 桜堀運河

2009-11-21 04:45:16 | 街巡り_09
 JFEより首都高速高架下の道路を東側に進む。京浜工業地帯を南
北に「桜堀運河」(別名:桜川運河)があった。この運河は、水江、
池上、浅野の3運河の合流点で、長さ550m、幅50m、水深2~
4mあり、水面を見ると澄んでいてきれいだった。
 どん詰まりには船宿「つり幸本家」があり、釣り船が何艘も停泊
中で多くの釣り客を乗せて、まさにこれから東京湾に出ていくよう
だ。店頭の看板を見ると、イシモチ、アジ、イイダコ、マダイ、イ
ナダ、スミイカが釣果の予定とあった。釣り客の皆さんがここに帰
ってこられた時は、クーラーボックスのバンドがギッシリと肩に食
い込んでいることだろう。
(川崎市川崎区池上町9-12)
桜堀運河_2

街を巡る 川崎2_鶴見巡り アウマンの家

2009-11-20 06:26:24 | 街巡り_09
 先月、川崎の旧東海道の一部を巡ってきたが、伺えなかったとこ
ろを11月1日に訪れてみた。時間に余裕があったので、鶴見にも
足を延ばしてみた。
 JR鶴見駅から鶴見線に乗り換え、浜鶴見駅で下車。この辺りは川
崎市の重工業地帯で、訪れた日が日曜日だったこともあり、駅周辺
は商店街もなく閑散としていた。
 旧日本鋼管で現在のJFE工場敷地内に「アウマンの家」がある。
これは、明治45年(1912)の創業当時、ドイツから製造設備を
輸入する時にアウグスト・アウマンを職工長として他3名を招き、
その時に建てられた宿舎である。
 ドイツ人4名は、第一次世界大戦の勃発により1年で帰国するが、
アウマンだけは再び日本に戻り日本人女性と結婚し、1940年まで
この家で生活したという。現在は、レストランとして営業している。
家の正面には1918年に建てられた正門門柱が残っていた。
(川崎市川崎区南渡田町1-1)
アウマンの家_2

街を巡る 川崎界隈_1 川崎大師

2009-11-19 06:22:35 | 街巡り_09
 本日の最後はやはり「川崎大師」へお参りに行こう。
 正式名称は「金剛山 金乗院 平間寺」(へいげんじ)。真言宗
智山派の大本山である。創建は大治3年(1128)、本尊は弘法
大師、文化10年(1813)に第11代将軍・家斉が厄除けに訪れ
たことにより“厄除け大師”の名称が広まったという。
 朝がまだ早いためか、山門を入り境内を見ても人はまばらで、
今まで訪れた中で一番ゆったりとお参りが出来た。仲見世の通り
も沿道のそれぞれの店は開店準備に忙しそう。
 川崎大師に居ることを家人にメールすると、早速、のど飴を買
ってこいと返事が来た。仲見世のどん詰まり・左側の飴屋さんで
購入するようにと、指定もついていた。
(川崎市川崎区大師町4-48)
仲見世

街を巡る 川崎界隈_1 京急発祥地

2009-11-18 06:22:27 | 街巡り_09
 若宮八幡宮のすぐそばに京浜急行・大師線の川崎大師駅がある。
ここに「京急発祥地・記念碑」があった。
 この動輪をかたどった石碑は、京浜急行電鉄の創立70周年を記
念して、発祥の地である川崎大師駅に設置されたもの。京急は明治
31年2月25日に大師電気鉄道として創設され、翌年1月21日に
六郷橋と大師区間での営業が始まる。当時は単線2km、保有車両
は5両だという。
 同年4月に京浜電気鉄道に改称され、1948年に現在の京浜急行
電鉄となった。
(川崎市川崎区大師駅前1-18)

街を巡る 川崎界隈_1 水鳥祭

2009-11-17 06:34:06 | 街巡り_09
 池言坊から東側へ進むと、この界隈で朝から人々の出入りが激
しいと思っていたら、「若宮八幡宮」の境内に入って判った。こ
れから地元の祭である「水鳥祭」(すいちょうのまつり)が始ま
ろうとしていた。
 この祭は、“川崎方”の池上幸広の一族と、“江戸方”茨木春
朔(医者で儒学者)の仲間が「大師河原の慶安酒合戦」と題した
酒飲み大会として、「水鳥記」に描かれた史実に基付き350年後
に再現されたもので、この地を巡った当日の10月18日に開催さ
れたのである。池上一族を偲ぶため、池言坊への墓参りは欠かせ
ない日だったのである。よって、墓参した方には蜜柑が配られた
ということ。
 この水鳥祭、地元の氏子が当時の登場人物に扮し派手な衣装と
化粧を施し、酒御輿(リヤカー)で商店街を練り歩く酒合戦練り
行列や、境内で銘酒の利き酒大会などが行われていた。この祭は
1995年から始められ、水鳥の名称由来は、酒という字がサンズ
イ(水)と、酉の字が(鳥)から成っているからだと地元の老人
に伺った。これも奇祭のひとつだろう。
 境内の倉庫に大笑いするものを発見、この社は水鳥祭とは別の
奇祭の開催が組まれているようだ。
(川崎市川崎区大師駅前2-13-16)
大蛇丸底深の山車  倉庫で発見

街を巡る 川崎界隈_1 池言坊

2009-11-16 06:25:04 | 街巡り_09
 多摩川の河川敷を散歩する光景を眺めながら大師町へ歩を進める。
「池言坊」(せんごんぼう)という手入れの行き届いた墓所を発見。
こちらは江戸時代、大師河原の開発を行った池上家の墓所で、この
地の産業と文化の発展に貢献されている。
 特に池上家二十一代の幸広は、新田開発のため大田区池上の土地
約7万坪を池上本門寺に寄進、一族郎党を引き連れて大師河原に移
住し、開拓に成功して名主となる。別名を「大蛇丸底深」。
 また、池上家の代々の開拓精神を受け継いだ二十四代の幸豊は、
池上新田(143ヘクタール)もの広大な土地を宝暦9年(1759)
に開発した。その時に梨や桃、葡萄など果樹栽培と製塩、サトウキ
ビ栽培と砂糖の製造にも成功している。
 この墓所で手を会わせていたところ、帰りに「水鳥祭」と文字の
入った法被を着た女性から蜜柑を頂いた。これには戸惑ったが、こ
の後伺った「若宮八幡宮」で理解できた。
(川崎市川崎区大師駅前2-1-2)
墓のエントランス

街を巡る 川崎界隈_1 川崎河港水門

2009-11-15 05:26:03 | 街巡り_09
 医王寺を後に再び大師道まで出て多摩川まで進む。すると大きな
水門「川崎河港水門」が見えてくる。
 川崎市は、第一次世界大戦の好景気により工場用地の拡大を図る
ため運河や港湾計画を推進した。その一環として金森誠之設計によ
る2本のタワーと梁、ゲートによって構成されたこの水門が1926
年に着工、1928年に完成している。
 タワーの頭頂部には、当時の川崎の名産品、梨、桃、葡萄をモチ
ーフにした遊び心一杯のオブジェが装飾されている。
 現在でもこの水門は現役で、1998年には国の登録有形文化財・
建造物として登録されている。
(川崎市川崎区港町66)
水門プレート

街を巡る 川崎界隈_1 塩どけ地蔵

2009-11-14 06:27:58 | 街巡り_09
 六郷の渡しから南側に進む。川崎競馬場の脇を通り「医王寺」へ。
この寺の境内に塩で溶けた「塩どけ地蔵」があった。
 むかしむかし、地元でできものが流行し子供達に広まり難儀した。
現在のような病院も薬もない時代、村人が子供の身代わりになって
くださる地蔵に願掛けとして、お清めの塩を擦ってみた。すると、
子供のできものは治まったので、多くの村人が塩を持って願掛けを
繰り返したという。そのおかげでみんなできものが消え、その代わ
り地蔵さまは塩で溶けてしまいやせ細ってしまったという。
 その地蔵さま、小さな祠の中に安置されていたので、撮るのに難
儀した。また、こちらの境内には背中の赤い「蟹塚」なる珍しい塚
があった。蟹は水神さまのお使いで幸せを授けてくれると言い伝え
られている。
(川崎市川崎区旭町2-4-4)
蟹塚  梵鐘

街を巡る 川崎界隈_1 六郷の渡し

2009-11-13 06:25:54 | 街巡り_09
 さて、多摩川まで来て「六郷橋」を眺める。長さは443.7m、
幅は34.4mあるという。初代の橋は、慶長5年(1600)に家康
が六郷大橋を架けさせた。当時は両国、千住の大橋と共に“江戸
三大大橋“と呼ばれた。
 時代と共に新しい橋が架け直され、貞享5年(1688)の大洪
水により橋は崩壊し、その後橋は再建されず渡船渡しとなって、
「六郷の渡し」が設けられている。明治7年(1874)に鈴木左
内が資財を投じて“左内橋”を架けるまでの186年間、橋のない
状態が続いた。
 当時の渡し賃は、渡る人の70%が無料だったという。それでも
30%の人たちから徴収した渡し賃だけで年間500両あったといわ
れるから、東海道は相当多くの往来で賑わっていたことが判明す
る。また、このおいしい渡船権は当初、六郷側の八幡塚村にあっ
たが、幕府は川崎宿を助けるために宝永6年(1709)川崎側に
与えている。
 現在架かっている新六郷橋は1997年に完成・完了し、欄干に
は渡船のモニュメントが置かれ、川崎側詰めには明治天皇六郷渡
御碑がある。この橋は、正月恒例の箱根駅伝で有名だ。
(川崎市川崎区本町2)
モニュメント_2  明治天皇御幸記念碑