「夜窓より」 (23)
瀬尾 公彦(愛知県)
seo@ksn.biglobe.ne.jp
(海外修学旅行の話 3 これでラスト)
まずは修学旅行の生徒のエピソードを思いつくままに書いていきたい。
最初に思い出されるのは、入学時より殆ど言葉を発しなかったA子のこ
と。自宅では話をするが家を出ると殆ど話さず、私とは3年たって、一
対一ではじっくり待って少しは言葉が出るという具合であった。パスポ
ート申請の書類は学校で書かせるわけだが、受け取りは本人が行かねば
ならない。名古屋市内在住であるが、一人で名古屋の繁華街である名古
屋駅まで行けないとのことで一緒に同行して、帰りにスーツケースなど
も一緒に買ったりした。最低限の言葉しか出ない。
さて、グアムのホテルに到着して部屋に荷物を置き、少しくつろいで
いると、A子と同室の生徒が飛び込んできて「先生、A子ちゃんが普通に
しゃべっているよ。」と言う。外国に来た高揚感なのであろうか、私の
前でも、ただ話すと言うことではなくて、「先生、この席あいています
よ。」となかなか積極的な発言を聞いて私も少し驚いた。
他の生徒で一年間一言も発しない生徒が二年生でクラス替えをしたタ
イミングで信頼できる何人かをけしかけて友人のグループに入って、少
しずつ言葉を発して、一年後には普通に会話できるようになった生徒も
経験したが、この初めの言葉を聞くのはなかなか感動的な出来事である。
A子は帰国後も少しずつ話すようになり、帰国直後に母親から電話で
「あの子がレンタルビデオやさんのカウンターで店員と自分でやりとり
し始めてびっくりした。」と聞いたのも印象的であった。言葉だけでは
なく行動の殻も又破ったのである。
Bは英語に興味があり、自分でよく勉強していた。部活動も黙々と熱
心にやり、真面目であるが、アクティブな性格で、交友関係も広かった。
学校交流では英語で挨拶したり、向こうの生徒ともよく交わった。旅行
前、良いチャンスなのでどんどん英語を話せと言うと、本当に積極的に
工事現場のおじさんにも自分から話しかけるなど随分自信になったよう
である。
この生徒は進路の相談の時に、心理学を勉強して、カウンセラーにな
りたいという希望を持っていた。メンタルな問題を抱える定時制の生徒
にはありがちな希望ではあるが、彼ならひょっとしてと思い、それでも
例えば日本の一流大学を出て大学院を経て資格を取ると言う道は学力等
考えるとなかなか困難に思われた。そこでアメリカの大学に入ると言う
道を勧めてみた。結局彼は一年間英語を勉強して、TOEICでそれなりの
点数をとってロスの州立大学に入学し、そこを卒業後にむこうで大学院
に進み、卒論を書き上げ卒業。就活の末に現地でカウンセラーとして歩
み始めている。
CはDの暴走族の先輩である。中学の時に少年院に入っていたので、内
申書はなかった。入学試験の時にややもめたが、私が丁度1年生の担任
をすることになっていたので、まあ面倒見るからとりあえず入学させて
みようという事になった。定時制は希望者が定員内である場合は大概合
格なのであるが、不合格にする場合もままある。
Cは武闘派ではあるが、スポーツはそれほど得意というわけではない。
それに対してDは運動が万能で友人も多い。ホテルのアクティビティの時
間もDは友人達と泳いだりビーチバレーしていくのに対して、Cは少し離
れて、先生達とパターゴルフやったりのんびりしていた。ちょっとCにフ
ラストレーションがたまっているかのようにも見えた。
その夜、「先生、CさんとDくんがもめています。」と生徒が飛び込ん
できた。行くとCが「てめえ、俺をこけにしてるだろう」とか言って詰め
寄っているところである。手を出させないようにして、二人を一室に連
れ込んだ。私も怒鳴り、そこで何を話したかはもうよく覚えていない。
とにかくいろいろと話をした。深夜の高揚感もあってか、そのうちCが泣
き、Dが泣き、私も涙が出た。「とにかくがんばって卒業しろ」という話
をした。その後も問題を起こしつつ、何とか二人とも卒業していったの
ではあるが。
その他にも、在日韓国人の年配の方がホテルの昼のバイキングを食べ
て「先生こんなおいしいカルビはわたしでも食べたことないですよ」と
言われたり、水着ギャルに囲まれて写真を撮ったり、グアムで買った写
真立てにグアムで撮った写真を入れて卒業式の時にプレゼントされたり、
深夜まで一緒にトランプで遊んだり、書ききれないほどの宝物の思い出
がある。
さて、最後にそれを実現した際の苦労の部分。まずは海外に引率する
のが嫌だという職員の存在。それまでは各学年で企画していたのだが、
その部分は修学旅行係と言うことで私が毎年受け持つことにした。パス
ポート関係もやっかいな仕事ではある。戸籍諸本一つ取らせるのも、書
類一つ書かせるのも定時制ではスムーズには行かない。ただそれも冷静
に見れば又一つの社会性の学習ではあるが、教員にとって面倒くさい仕
事ではある。修学旅行を実施する3年生の担任はやらないという先生の
存在もあったのも事実である。一方熱心に支えて下さった先生方もいて、
それ故に実現できたと認識している。
生徒や保護者には好評であったが、先生は半々と言ったところであっ
たであろうか。グアムに行きたいから絶対に学校やめないという生徒も
毎年いた。教員というものは、こうあるべきだと言うことと、自分がこ
うするとかしたくない、と言うところに分離がある。それが現実である。
よくここで書いているが何をもって、「仕事」とするか。
ルソーの「エミール」の中に次のような言葉がある。
「よい教師の資格についてはいろいろと議論がある。わたしがもとめる
第一の資格、(中略)それは金で買えない資格であると言うことだ。金
のためにということではできない職業、金のためにやるのではそれにふ
さわしい人間でなくなるような高尚な職業がある。軍人がそうだ。教師
がそうだ。」収入の為に、と言うことを超えての職業意識は問われてあ
る。
さて、この修学旅行中、校長は2度変わり、3人の校長を経験した。
最初のお二方は理解があり、いろいろと後押しもしていただいたが、最
後の一人は、赴任するなり「海外の修学旅行は中止」と言い出した。教
頭が間に入って困っているので、毎年4月になると私が校長と話し、何
とか2年間継続し、3年目に私が転勤となり、その後、中止が決まった
ようである。私が校長を押し戻せた要因は、定時制の生徒にとってどれ
だけ励みになっているかと言うことと保護者の支持であった。一方校長
の方には気分的にやめさせたいというだけで、論理として中止という説
得力を持たなかったのが一因であると思っている。私から言わせれば、
問題が起こらないことを第一義にする愛知県(だけでもないだろうが)
に於ける校長という職自体が既に教育を歪めている。教育が個を問題と
する営みという事を離れて学校自体の在り方のみに拘泥する現在の在り
方はいかがなものであろうか。教師がその歯車であるとすれば、若い人
が教職に就くという意味さえ変動しているといって良い。教育云々の以
前に官僚制の中の管理職の問題がある。
今になって思えば、職員間でのいやな思い出さえあるが、それを補っ
てあまりある生徒達の笑顔や「先生、あの修学旅行は本当に楽しかった
。」と言う声で報われている。
せっかくパスポートとったので、卒業旅行と称して、格安の北京や上
海やグアムに行ったりもしたのも良い思い出である。人生を楽しむ道筋
としても意義はあったのではないかと思う。
***************************
中学を出てから僕には住む家がない
父が引き取ると言う事で
それまでの児相の施設を出る事となった
僕は父が大嫌いだ
今はああいう作り笑いをしているが
小さいころの怖かった父が忘れられない
だから僕は家を出た
夜はなるべく起きていて
昼は図書館で眠る
夜、寒いからマンションの階段なんかで
座っていると
つい眠ってしまう事もある
夜の学校でも爆睡してしまう
この頃は時々友達の家に泊まる
楽しいしご飯を食べさせてくれたりする
ただ毎日というわけにはいかない
先生が住み込みの新聞配達の仕事を
探してくれたけど続かなかった
でも、まあ、何とかなるとは思う
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瀬尾 公彦(愛知県)
seo@ksn.biglobe.ne.jp
(海外修学旅行の話 3 これでラスト)
まずは修学旅行の生徒のエピソードを思いつくままに書いていきたい。
最初に思い出されるのは、入学時より殆ど言葉を発しなかったA子のこ
と。自宅では話をするが家を出ると殆ど話さず、私とは3年たって、一
対一ではじっくり待って少しは言葉が出るという具合であった。パスポ
ート申請の書類は学校で書かせるわけだが、受け取りは本人が行かねば
ならない。名古屋市内在住であるが、一人で名古屋の繁華街である名古
屋駅まで行けないとのことで一緒に同行して、帰りにスーツケースなど
も一緒に買ったりした。最低限の言葉しか出ない。
さて、グアムのホテルに到着して部屋に荷物を置き、少しくつろいで
いると、A子と同室の生徒が飛び込んできて「先生、A子ちゃんが普通に
しゃべっているよ。」と言う。外国に来た高揚感なのであろうか、私の
前でも、ただ話すと言うことではなくて、「先生、この席あいています
よ。」となかなか積極的な発言を聞いて私も少し驚いた。
他の生徒で一年間一言も発しない生徒が二年生でクラス替えをしたタ
イミングで信頼できる何人かをけしかけて友人のグループに入って、少
しずつ言葉を発して、一年後には普通に会話できるようになった生徒も
経験したが、この初めの言葉を聞くのはなかなか感動的な出来事である。
A子は帰国後も少しずつ話すようになり、帰国直後に母親から電話で
「あの子がレンタルビデオやさんのカウンターで店員と自分でやりとり
し始めてびっくりした。」と聞いたのも印象的であった。言葉だけでは
なく行動の殻も又破ったのである。
Bは英語に興味があり、自分でよく勉強していた。部活動も黙々と熱
心にやり、真面目であるが、アクティブな性格で、交友関係も広かった。
学校交流では英語で挨拶したり、向こうの生徒ともよく交わった。旅行
前、良いチャンスなのでどんどん英語を話せと言うと、本当に積極的に
工事現場のおじさんにも自分から話しかけるなど随分自信になったよう
である。
この生徒は進路の相談の時に、心理学を勉強して、カウンセラーにな
りたいという希望を持っていた。メンタルな問題を抱える定時制の生徒
にはありがちな希望ではあるが、彼ならひょっとしてと思い、それでも
例えば日本の一流大学を出て大学院を経て資格を取ると言う道は学力等
考えるとなかなか困難に思われた。そこでアメリカの大学に入ると言う
道を勧めてみた。結局彼は一年間英語を勉強して、TOEICでそれなりの
点数をとってロスの州立大学に入学し、そこを卒業後にむこうで大学院
に進み、卒論を書き上げ卒業。就活の末に現地でカウンセラーとして歩
み始めている。
CはDの暴走族の先輩である。中学の時に少年院に入っていたので、内
申書はなかった。入学試験の時にややもめたが、私が丁度1年生の担任
をすることになっていたので、まあ面倒見るからとりあえず入学させて
みようという事になった。定時制は希望者が定員内である場合は大概合
格なのであるが、不合格にする場合もままある。
Cは武闘派ではあるが、スポーツはそれほど得意というわけではない。
それに対してDは運動が万能で友人も多い。ホテルのアクティビティの時
間もDは友人達と泳いだりビーチバレーしていくのに対して、Cは少し離
れて、先生達とパターゴルフやったりのんびりしていた。ちょっとCにフ
ラストレーションがたまっているかのようにも見えた。
その夜、「先生、CさんとDくんがもめています。」と生徒が飛び込ん
できた。行くとCが「てめえ、俺をこけにしてるだろう」とか言って詰め
寄っているところである。手を出させないようにして、二人を一室に連
れ込んだ。私も怒鳴り、そこで何を話したかはもうよく覚えていない。
とにかくいろいろと話をした。深夜の高揚感もあってか、そのうちCが泣
き、Dが泣き、私も涙が出た。「とにかくがんばって卒業しろ」という話
をした。その後も問題を起こしつつ、何とか二人とも卒業していったの
ではあるが。
その他にも、在日韓国人の年配の方がホテルの昼のバイキングを食べ
て「先生こんなおいしいカルビはわたしでも食べたことないですよ」と
言われたり、水着ギャルに囲まれて写真を撮ったり、グアムで買った写
真立てにグアムで撮った写真を入れて卒業式の時にプレゼントされたり、
深夜まで一緒にトランプで遊んだり、書ききれないほどの宝物の思い出
がある。
さて、最後にそれを実現した際の苦労の部分。まずは海外に引率する
のが嫌だという職員の存在。それまでは各学年で企画していたのだが、
その部分は修学旅行係と言うことで私が毎年受け持つことにした。パス
ポート関係もやっかいな仕事ではある。戸籍諸本一つ取らせるのも、書
類一つ書かせるのも定時制ではスムーズには行かない。ただそれも冷静
に見れば又一つの社会性の学習ではあるが、教員にとって面倒くさい仕
事ではある。修学旅行を実施する3年生の担任はやらないという先生の
存在もあったのも事実である。一方熱心に支えて下さった先生方もいて、
それ故に実現できたと認識している。
生徒や保護者には好評であったが、先生は半々と言ったところであっ
たであろうか。グアムに行きたいから絶対に学校やめないという生徒も
毎年いた。教員というものは、こうあるべきだと言うことと、自分がこ
うするとかしたくない、と言うところに分離がある。それが現実である。
よくここで書いているが何をもって、「仕事」とするか。
ルソーの「エミール」の中に次のような言葉がある。
「よい教師の資格についてはいろいろと議論がある。わたしがもとめる
第一の資格、(中略)それは金で買えない資格であると言うことだ。金
のためにということではできない職業、金のためにやるのではそれにふ
さわしい人間でなくなるような高尚な職業がある。軍人がそうだ。教師
がそうだ。」収入の為に、と言うことを超えての職業意識は問われてあ
る。
さて、この修学旅行中、校長は2度変わり、3人の校長を経験した。
最初のお二方は理解があり、いろいろと後押しもしていただいたが、最
後の一人は、赴任するなり「海外の修学旅行は中止」と言い出した。教
頭が間に入って困っているので、毎年4月になると私が校長と話し、何
とか2年間継続し、3年目に私が転勤となり、その後、中止が決まった
ようである。私が校長を押し戻せた要因は、定時制の生徒にとってどれ
だけ励みになっているかと言うことと保護者の支持であった。一方校長
の方には気分的にやめさせたいというだけで、論理として中止という説
得力を持たなかったのが一因であると思っている。私から言わせれば、
問題が起こらないことを第一義にする愛知県(だけでもないだろうが)
に於ける校長という職自体が既に教育を歪めている。教育が個を問題と
する営みという事を離れて学校自体の在り方のみに拘泥する現在の在り
方はいかがなものであろうか。教師がその歯車であるとすれば、若い人
が教職に就くという意味さえ変動しているといって良い。教育云々の以
前に官僚制の中の管理職の問題がある。
今になって思えば、職員間でのいやな思い出さえあるが、それを補っ
てあまりある生徒達の笑顔や「先生、あの修学旅行は本当に楽しかった
。」と言う声で報われている。
せっかくパスポートとったので、卒業旅行と称して、格安の北京や上
海やグアムに行ったりもしたのも良い思い出である。人生を楽しむ道筋
としても意義はあったのではないかと思う。
***************************
中学を出てから僕には住む家がない
父が引き取ると言う事で
それまでの児相の施設を出る事となった
僕は父が大嫌いだ
今はああいう作り笑いをしているが
小さいころの怖かった父が忘れられない
だから僕は家を出た
夜はなるべく起きていて
昼は図書館で眠る
夜、寒いからマンションの階段なんかで
座っていると
つい眠ってしまう事もある
夜の学校でも爆睡してしまう
この頃は時々友達の家に泊まる
楽しいしご飯を食べさせてくれたりする
ただ毎日というわけにはいかない
先生が住み込みの新聞配達の仕事を
探してくれたけど続かなかった
でも、まあ、何とかなるとは思う
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