夜窓より ☆私の考えなり流儀なり☆

日刊『中・高校教師用ニュースマガジン』に連載中の教育への雑感をまとめておきます。夜間定時制高校の教師の視点です。

遠景のモノ語り」(5)

2022年05月05日 | 教育
連載】

■「遠景のモノ語り」(5)

  瀬尾 公彦(愛知県)
  seo@ksn.biglobe.ne.jp


*クロスのボールペン*(1)


 20世紀の終わり頃の話である。

 

 初めての夜間定時制高校(工業)を12年勤め、転勤して

すぐに1年生の担任を希望して持った。より都心に近く、

より「荒れた」学校であった。



 よく言われる「荒れた時代」であった。女子のスカート

は短くなり、ルーズソックスも現われた時期である。入学

前にシンナーを吸っている生徒も結構いて、授業後に公園

で集団でシンナーを吸っていますと学校に苦情の電話が入

ったりしていたのを覚えている。暴走族のトラブルもよく

あった時期である。



 入学後にすぐ教室で暴力事件があったりもしてゴールデ

ンウイークが終わると、学校に定着せずに学校に来れなく

なる生徒も出始めていた。夜、授業後に街に遊びに出て帰

宅しない生徒の保護者の相談にのっていた。



 そういう荒れた生徒達の中に、小学校や中学校から不登

校の全日制以上におとなしい生徒達もいた。当時は、横着

系での全日制退学者、不登校、メンタル的な問題の生徒、

学力の低い生徒などが複合して存在していた。



 当時の私が考えていたことは、生活のリズムが崩れて自

ら学校から足が遠のく生徒達はなかなかいかんともしがた

いとしても真面目に学校を続けようとしている生徒達が、

安心して学校を続けられないような、教室の雰囲気は作っ

てはいけないということであった。そう言う安心できる場

ができてくると、横着な生徒も含めて、学校への定着率は

上がってきたものである。



 一人の真面目でおとなしい女生徒がクラスにいた。不登

校で第一印象はおどおどしていて、いかにも自信なさげで

あった。その学校では、始業前にクラス長が職員室の担任

のところに来て、担任の代わりに連絡事項等を教室に伝え

る、と言うシステムがあった。私は前任校で始業前のST

で日刊のクラス通信を配るルーティーンがあり、私も職員

室にいるのではなく教室に行きたいと思った。



 どういう言葉をかけたかは忘れたが、その生徒にクラス

長に立候補することを勧めて、彼女は勇気を出してクラス

長となった。学校に来ると毎日職員室に来て、私と一緒に

教室に行く。そのうちに次第に心を開いてくれて、笑顔が

増えていった。



 文化祭では宮沢賢治をテーマとして、詩を手話で表現し

たり、映画を撮ったり、紙芝居を作ったりした。彼女が

「どんぐりと山猫」の絵を描いたのを覚えている。


 入学当時は女子の友達関係のトラブルにも関わったが、

めげることなく、仲の良い友人もできて、4年間、学校に

前向きに取り組んだ。学校祭も力を入れて三日開催してい

たが、映画の編集など休みの日にも積極的に参加してくれ

た。バドミントン部にも入り毎日練習に参加した。沖縄の

修学旅行も楽しそうであったのを覚えている。夏はクラス

キャンプと称して、海や山に行った。今ならいろいろと言

われるであろうが、九州への卒業旅行にも生徒達と一緒に

行った。この学年ではないが、修学旅行をグアムにしたこ

ともあり、海外の「卒業旅行」にも二度行ったものである。



彼女は学校生活を満喫して、随分成長して卒業していった。


                    (つづく) 

================ 
===編集日記=== 
================

  皆様に支えられて「日刊・中高MM」第4880号です。

 瀬尾公彦さんの「遠景のモノ語り」、お届けします。

 ・クロスのボールペン

 文字化すればその表現を受け取り咀嚼して具体的な像を結ぶ。
 像は結び得ても感情や気持ちはなかなか汲み取れない。その
 難しさが個々により異なるので事情や努力は水泡に帰すこと
 もある。どう書いても通じそうにない。が、その苦労ほどは
 分かる気がします。人が過去を振り返るのは、郷愁だけでな
 く今が自分の今が危うくなければ、現在地を確認し未来へと
 歩んでいける気がするのです。どこまでもどこまでも。

コメントを投稿