夜窓より ☆私の考えなり流儀なり☆

日刊『中・高校教師用ニュースマガジン』に連載中の教育への雑感をまとめておきます。夜間定時制高校の教師の視点です。

「夜窓より」(19)

2012年06月01日 | 教育
「夜窓より」 (19)

瀬尾 公彦(愛知県)
seo@ksn.biglobe.ne.jp


今年の新入生は、と言うような物言いが結構なされる。年度によって
生徒の面持ちが微妙にが違うことはある。一方夜間定時制は教員が少人
数なので、時には教員の半数近くが転退職する場合もある。分掌も年度
で変わるのでその学年の教員の体制も変わる。担任もまた変わる。生徒
が変わったのか教員が変わったのか。

 例えば、或るクラスで横着な者が出て、教師に対する暴言などがある
とする。そこで学校がうまく対応できればよいが、うまく指導できない
と、そのAと言う生徒が退学したとしても、またBという生徒が同じ事を
するということはある。で、今年の生徒は昨年と違って横着だ、と言う
話になる。

 夜間定時制では、様々な生徒が入学してくるが、例えば、見てすぐわ
かるので外見で判断すれば金髪の生徒とか横着な生徒の多い年もある。
少ない年もある。愛知の定時制の場合、誤解を恐れずに言えば、地域性
があり、名古屋市内の横着率は高い。周辺部では夜間定時制でも全日制
のように「真面目」な学校もあり、年齢関係なく、制服を義務化してい
る地域もあると聞く。まあそれはパーセンテージの問題であるわけだが。

 ただ、構造的に言えば、夜間定時制は「最後の受け皿」であり、横着
な生徒、と言う一点を取っても、入学してくるのが当たり前であり、そ
こに教育を施すのが我々教員の仕事である。前任校で、確かこの時期に
進学校である全日制の教員から「校舎の裏で立ち小便をしている生徒が
いるのであれは何とかして下さい。」と言われたことがある。全日制の
先生にすれば当然の要求である。しかしこちらは、入学当時、「校内で
立ち小便をする生徒」を4年かけて良識を持たせるという戦いである。
 喫煙習慣も高校に来て覚えると言うよりは、既に入学前についている
生徒が少なくない。最近では親が黙認している家庭も多いのが現実であ
る。指導する際に親が子供の喫煙の事実を知っていることが殆どである。

 そのような非行の抜けない生徒を抱えつつ、「学校」としての規律を
守っていくところの微妙な案配こそが定時制の妙でもあるのだが、最近
は、やはりなかなか抱えられない教員や学校が増えている。非行に「厳
しく」やめさせていけば、「学校」の秩序は守られていくが、当然退学
率は高まる。ただし、教員の「仕事」としては楽であり、アイデンティ
ティも保たれる。私たちの仕事とはなんであろう。
 
私の中では、「退学勧告」の判断は、その生徒を残すことで、他の生
徒に害を及ぼすか否かというのが一つの基準となっている。直接的な影
響がなくともその行為を許容することが秩序として如何かという判断も
ある。具体的には「暴力」「薬物」「いじめ」は許容できない。

 例えば、喫煙指導一つとっても、学校によって様々である。「教育は
人」なので、教員側の考え方によって、その学校の在り方によって変わ
るのはやむを得ないが、その学校なりの判断理由や取り組み方の意味を
理解しておかねばなるまいとは思う。指導の累犯加重に対する価値観も
また学校によって温度差がある。

 さて、今年職員トイレに行くと、そこに座って喫煙している新入生が
いて指導した。上級生でさえ「自爆的な行為」と呼び、理解できないと
話していた。これは愚かさの問題なのであろうか。教員に突っかかって
いく生徒もいた。そう言う様々なことが一学期の風景である。
 反面見事に学校に適応していく者もいる。中学校では長欠であったの
が、本校に来て一日も休まず、友人も出来て笑顔が増えていく。人数分
のドラマがある。こちらの印象は少しずつ、一人ずつ表情が浮かび上が
って来るイメージである。多くの高校生にとって通過場所としての高校
が、夜間定時制の場合、一つの回復の場所となったりする。夜間定時制
高校卒業という肩書きよりも、4年間少なくない生徒が脱落していく高
校で、自分がやり通したという自信獲得の場所であり、時間となる。

 ついでに喫煙について。学校で喫煙というと、指導対象としてはわか
りやすい。このように書くと何か奇異な感じかもしれないが、指導する
際に、わかりやすい指導対象とわかりにくい指導対象がある。そして、
このわかりやすい指導対象と、「教育」上指導すべき別のベクトルの価
値観がある。どこかで折り合いをつけねばならないわけであるが、喫煙
と言う物事と、例えば恐らく謹慎指導対象にはならない、友人に対する
暴言や、「おい、鉛筆貸して」と日常的に行われる行為の意味を客観的
に比較することは難しい。漢字の問題が一つ2点で、あらすじをまとめ
る問題が一つ5点であるような、根拠のなさが付随する。そこには学校
と言う組織の人間観を含む価値体系が問題として内在されてある。
 わかりやすさに乗って、機械的に対処する安易さが現在、日本を取り
巻く教育環境にあると言わざるを得ない。学校という組織的運営の中で
「教育」が埋没していく構図を感じてしまう。
 
 さて、私たちは彼ら、ではなくて、一人の彼に、どのようなことを教
えようとしているのであろうか。そしてその事を意図することがどのよ
うに伝わっていくのか。教育は意図的な営為であるが、意図が直線的に
反映するものでもなかろう。今一度自問自戒してみたいと思う。


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 あやちゃんはいい子だ
 でもクラスでは全然目立たないし
 私たちの中でも
 おとなしいから
 あやちゃんの気持ちがよくわからない
 私が声をかけるとき
 「うん」と言って微笑む笑顔は
 女の私が見てもかわいいと思うけど
 どうもあやちゃんには
 みんな声をかけにくいみたいだ
 あやちゃんにはあやちゃんの心がある
 私の心なんかはみんなに丸見えだけど
 あやちゃんの心はつかみにくい
 こうかなぁと思っても
 違っていたりしているようだ
 同じ風景でも私とあやちゃんでは
 別々の風景に見えるのかな 
 でも私はそんなあやちゃんと
 いつまでも友達でいたい
 
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