夜窓より ☆私の考えなり流儀なり☆

日刊『中・高校教師用ニュースマガジン』に連載中の教育への雑感をまとめておきます。夜間定時制高校の教師の視点です。

夜窓より(14)

2011年12月31日 | 教育
「夜窓より」 (14)

瀬尾 公彦(愛知県)
seo@ksn.biglobe.ne.jp

年が改まりました。あらたまる、という言葉には当然「新た」というニュ
アンスが含まれているのでしょうが、この新年というのも先に書いたイメ
ージの問題で、別にさほど異なる今日が来るわけではありません。今回は
力を抜いて、文体も少々変えて、新たな気分で書いてみたいと思います。

 ここに連載をさせていただいて一年。顔も知らない、教育に関心のある
方々を勝手に想定しつつ、何とか書いて参りました。そういう状況なので
書き手の私にとっては、読者の方々にどう受け取られるかと言うことより
も、自分の考えを表現していくと言うところにいささかなりとも意味を感
じております。

映画「となりのトトロ」の中に、隣のおばあさんと留守番の就学前のめい
がお姉ちゃんの学校に来てしまうというシーンがあります。小学校の先生
は、「さつきちゃんのおかあさんは今入院していて」とめいを教室のさつ
きの隣に座らせます。めいはトトロの絵なんかを書いています。ほのぼの
としたシーンとして受け取られると思いますが、何かそのようなささいな
教師の裁量がどんどんなくなっているのが現実です。

 他の子の親から苦情が来たら、とか、職員室に預かってもらったほうが、
とか、教師は単一の価値体系の中で、効率化の原則の中で「教育」以上に
優先されるあれこれを判断材料とします。学校は「教育」する場という建
前を少し横に置きながら。

 温故知新という言葉通り、自分の中で変えていく部分と、継続していく
部分があります。現行の「教育」については、不満に思うところが正直少
なくありませんので、この一年変えるべきという論調が続いていたような
気がします。そこで今回は、私の中で意識的に継続していることから書い
て行きたいと思います。

 私がこだわって継続しているものに、クラス通信があります。20年以
上継続して担任をしていますが、とにかく日刊で毎日書いています。B4
で、手書きで書いています。定時制の生徒は授業前のSTに来るのは、6.
7割です。日によっては2.3割。現在は工業高校なので、一時間目が工
業科の実習室の日も少なくなく、そういう日はぎりぎりそこに飛び込む生
徒も少なくありません。そこで教室の机の上にクラス通信を置いておくと、
遅刻した生徒にも伝わる訳です。私の考え方の洗脳(建前的には教育)が
4年間続きます。
 内容は、日程だとか、誰々は欠課が多いからもう休むなとか、授業料、
誰が延滞しているだとか、今日は寒くなったとか、ニュースとか時事問題
とかに触れたり、後は適当に自分の思うところを書き散らしています。手
書きですので、ネタがあまりないときはさりげなく字が大きくなったりし
ているわけです。

 何年も前に仙台の大橋堂という手作りの万年筆を5万円程で購入し、そ
れを使って書くことがルーティーンとなっています。そもそもは、教員に
なってすぐは、全日制で、教科通信のように、教科を受け持っている生徒
対象に書いていました。あまり真面目な内容でなく、気が向いたら書くと
いう不定期で、簡単に言えば私のエッセイであったり考え方であったりと
いう肩肘張らない文章を書いていました。あまり教員であることにこだわ
らず、昨日この映画を見たとか、街に出てこの喫茶店で一人こういう本を
読み、良い時間を過ごしたとか、孔子よりやはり老子だよね、とかそんな
感じで書いていました。定時制に変わって、当初は両方書いていましたが、
クラス通信を毎日書くという宗教に入ってからは、そちらに専念して書く
ことにしました。自分で休む日は前日に用意をして、母が亡くなったとき
も、FAXで喪主を務めた状況などを書いて学校に送りました。

 次に、野球部の指導というものにもこだわって継続しています。とにか
く毎日グランドに出る。冬場も一人でもやる気のある生徒がいれば、つき
あうということをいつも言っていて、結局あまりやる気のない年も、だれ
かは来て、結果毎日授業後は生徒相手に練習出来ています。現在は11人
部員がいて、顔を出すのは5~7人。12月に入ってからは、体育館でや
っています。一時はやった「ビリーザブートキャンプ」を野球用に10分
に編集して、ゴムのバンドを使いながら、飛び跳ねたりさせています。野
球に関しては仕事と言うよりは、生徒達と戯れつつ、ガキの遊びの延長的
な感じです。私が小学生であった昭和40年頃の空き地でやっていた遊び
としての野球が原点で、三角ベースで今日は右方向打ちとか、ラインを引
いてそこにワンバウンドさせての試合とか、そういう時間を過ごしていま
す。

 クラスの生徒達に暑中見舞いや年賀状を出すのもずっと継続しています。
結構ふらふら海外にも遊びに行くので、そこから海外の変わった切手を貼
って出すことが多いので、「また遊びに行って」とすぐばれてしまいます。
そういうところは全く隠さないタイプなので、テスト中なんかは休みやす
いので「明日はゴルフ行ってくるから、君たちはしっかり勉強してろよ。
」って感じです。尤も学校に来て「今日テストなんだっけ」という生徒も
多いので、或る意味釣り合っているのでしょうか。

 本当にこの何か当然のように繰り広げられている、テストって何でしょ
うね。かつては遠山啓なんかのテストに対する、基本的な批判など目に触
れましたが、最近は一切目にしなくなりました。テストだけ批判していて
も、根にある学校化社会から見ていかねば意味はないのかもしれませんね。

 私などもその学校化社会のまさしく内側にいるわけですが、制度に対し
てあまり真面目でないので結構身をかわしたりしているような気もします。
かわせる状況にあるということでしょうか。取りあえず「学校」というも
のは、テストをやるもので、@@のもので、教師はこういうもので、とい
う理解で毎日継続、そして再生産されているのを見ていると、こんなんで
いいかなあと感じます。特に若い人から、もっともっと「教育」とは何だ、
というような問題提起が原則的に、素朴に出てくると嬉しい気がします。

 話がどんどんそれていっていますが、大阪の「教育基本条例」なんかの
文章を見ると、こういう「学校ごっこ」の先に何を見ているんだろうと思
ってしまいます。人が何かを学ぶこと。学ぶと言うことのバリエーション。
自分自身にとっての学び。果たして「教育」は政治的な力や公権力によっ
て、どこまでコントロールされ得るのでしょうか。「学校」の置かれるや
や新しい地平のようです。

 本校のような夜間定時制でも先日1年生に「先生、テストの平均点、何
点ですか?」と聞かれました。ということは出している先生もいるのであ
ろうと思います。「アホか。人のことなんか気にすんな。逆に平均点あっ
ても、悪いやつは全員でも留年。」それが夜定の現実です。クラス半分以
上に1がつくこともあります。そして社会はむしろそういうものと言って
も良いでしょう。

 二学期末のテストに際して、そのテスト前日と当日の始業前に、仕事を
していない成績不振者を集めて、20人弱に漢字の読みを教えました。一
人一人横について、30問近くを言わせていって全員が何とか時間内に覚
えたわけですが、実際のテストではもう忘れている者もいて、うーん、敵
は手強いなと改めて感じたのでした。
 
 漢字の問題一つ解く力が1で、あらすじをまとめる力が5である根拠は
ありません。そんなことは全教員が知っていることです。しかしそこには
常識があって100点満点と言うことで101段階に分かれるようになっ
ています。0点から100点という事です。確かに出来る出来ないを知る
にしても通知表のようなおおまかな5段階くらいのテストがあっても良い
のではと思います。自明のことですが、自分にとってのテストの意味であ
れば、数値化する必要もありません。

 まあわかっていて我々教員はやっているわけで、私などは漢字の問題で
一個一点のところ、「薔薇」だけは5点で配点しています。先日、「横断
歩道」が書けなくてバカにされた生徒が「なら、おまえら薔薇書いてみろ」
と私の授業を受けていない生徒に逆ギレしていましたが、日本社会に於け
る漢字力の法則である、簡単な漢字を間違えるとバカにされ、難しい漢字
をさらさらと書くと尊敬される法則の象徴的シーンであると思いました。
そして、意外に「薔薇」とか「鬱」とか「醤油」とか、難易度が上がるほ
ど、ムキになって覚えたりするものです。

 最後までそれっぱなしで終わってしまいましたが、教育について本年も
駄弁を弄していきますので、本年もよろしくご愛読の程を。

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 「この子が普通の子だったら」
  母の何気ない言葉に僕は拘った。
  確かに僕は不登校で
  中学校もまともに行けなかったし
  今は夜間定時制の高校生だ
  でも
  よく観察してみても
  普通の人間て誰だ
  この世で一番普通の人間て誰だ
  僕にはわからない
  人間ってそういうはずのものか
  一人一人違っているのだ
  母よ
  おまえは普通なのか
  仮に普通であったとして
  それは意味のあることだと
  死ぬ前に胸を張って言えるのか
  普通という幻想を
  僕は生きたくない
  僕は
  普通でない僕の生を引き受けて
  稚拙でも
  生きていこうと思うのだ
  母よ
   
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「夜窓より」(13)

2011年12月05日 | 教育
「夜窓より」(13)



瀬尾 公彦(愛知県)
seo@ksn.biglobe.ne.jp


 やや批判的な意味合いで「学校幻想」という言葉が用いられている。私
もまたここでそのような使いかたをしている。一時期よく読まれたイリイ
チなどの「学校化社会」批判の系統であると理解している。

 幻想であるかどうかは置くとして、それを取りあえず批判的な意味合い
を消してイメージと表現してみることにする。「学校」の営みによってこ
うなるというイメージ。まずはそのイメージを持っているかどうかという
レベルがある。ただルーティーンをこなすことが「教師の仕事」というこ
とで、その事が検証しようとされていないレベル。検証が思いこみや、や
や宗教めいた信じ込みによる甘いレベル。そういうレベルは少し脇に置い
て、一つの授業なり、試みがうまくいったかどうかと言う検証は相対的に
でも可能であると思う。しかしトータルとしての「学校」が一つの「教育」
として成功しているかどうかの検証はなかなか難しいもので、正直懐疑的
にならざるを得ない。反面教師の意味も心情的には認めたくない方々もい
るであろうが、やはり意味はあると私には思える。
 
 システムとしての現状の学校ではなく、あるべき「教育」の在り方とし
ての学校を考えるとき、学校の役割や存在価値というものは複線系で捉え
られるべきもので、それゆえ、わかりやすく言えば「日本で一番良い学校」
も特定しがたいし、「世界で一番だめな学校」も特定しがたい。そのかわ
り「@@くんにとっては、世界で一番の学校」はあっても良い。

 「学校幻想」を内側から考察していけばこのような感じとなるが、外側
から言えば、「学校なんて所詮どれだけのものだ、そんなに人生において
大きく捉えなくて良いでしょう。」というニュアンスであろうと思う。

 さて、そのイメージ。生物学的に偶然生きている人間の一生。人生とは
こうあるものだとか、こう生きたいものだというのも価値観の伴うイメー
ジである。25歳で特攻隊で死んでいった人と95歳で天寿を全うした人
の人生の優劣を誰がつけられようか。自死した生徒の葬儀に際して「かわ
いそうに」という言葉が私には傲慢に響く。彼はそのような人生を生きた
のだというように私には受け取られる。その人の人生に関わる教育。そし
てその為の「学校」。
 
 「めざせ神宮!」これは定時制の野球に於ける一つのイメージである。
退学をしたり、留年したりした生徒たちが野球をやる。うつむいていた生
徒たちが歓喜の声を上げる。それも一つのイメージである。努力をして、
望むものを得ようとする。失敗することもあれば成功するときもある。
ただ生物学的に存在している人生に意味が生じてくる。

 野球というスポーツには多分に精神論がまかり通っているが、それがあ
ながち外れてるとも言い難い部分もある。野球の試合での数限りないイメ
ージ。スポーツに於けるイメージは重要である。バッターボックスに立ち、
バントのサインが出て、自分が三塁手の前にこういう感じの打球で転がっ
ていく様をまずイメージする。投手の球もストレートか変化球かイメージ
する。ゴルフでピンに向かってこういう飛球線でボールが向かっていくイ
メージを持つ。

 人生においても、好きな相手と交際する為のイメージ。大学に合格する
イメージなどなど。イメージを考えるときに、まずこうしたいという思い
がある。その思いこそが大事である。

 そのイメージをもって生きることが人間の特性とも言えるし、人間らし
さとも言える。それはある者にとってはプラスに働き、ある者にとっては
マイナスにも働く。前に書いた「普通」のイメージがプレッシャーにもな
る。人間らしさや自分らしさが称えられることも多いが、よく考えてみる
と、他である社会との融合こそが、「学校」という組織の原点でもあり、
教師の役割の大きな部分を占める。

 先月の話。卒業生に話を聞いて欲しいと突然呼び出された。メンタルな
問題を抱えており、年齢は30歳を超えている。独身の男性である。温和
ではある。「先生、セーラー服の女子高生を見るとかわいらしくて、たま
らんのだわ。」話を聞いてると、あながち冗談でもなく、若い頃から、姉
のセーラー服を抱きしめていたのを見つかったりしているようである。
「おまえさあ、今そうしたいと頭の中で考えている間はセーフだけど、そ
の女子高生を道で抱きしめた瞬間にアウトだからね。」

 彼が何かに執着することは人間らしさといって良いだろう。その対象が
セーラー服であるということは「普通」ではないとしても。その対象が、
アイドルであったりポケモンであったりカメラであったり鉄道であったり
そのフェティッシュの度合いはおくとしても、そういう感覚は人間らしさ
でもある。
 
 そこで他者が絡んでくる。女子高生は他者で、彼の人間らしい欲望を理
性で押さえなければ、彼は社会的に罰せられることになる。罰せられるこ
とがわかっていても犯罪は起きてしまう。ここでの学校なり教師の役割は
社会システムの認識である。その先に他者との哲学的な命題が潜むことに
なる。社会システムの認識というのは、単に赤信号は止まれだよ、という
ことである。その事を伝えるのは、教師にとってはたやすい行為である。
価値観としてのマニュアルは存在しているからである。

 教師の難しさの出てくるのは、「社会のシステムなんてどうでもいい」
とか「社会で楽に生きたり、幸せに生きられるかどうかなんてどうでもい
い」「先のことはいいから今が問題」という地平である。これは教師だけ
ではなく、親にとってもよく遭遇する所である。


 難しい難しいと言って終わるのは簡単であるが、現実は続いていく。私
は基本的にはその地平にいる者にまず近づいて寄り添う形を取ることにし
ている。そして今の彼、彼女と言うよりは、少し先の彼らに対して、言葉
を出す。「今はわからんでも良いから、俺の言うことを覚えておけ。そし
て25歳になって、文句があれば逃げないから言いに来い。」みたいな感
じである。ここにはマニュアルはない。私なら私だけのアプローチがある
だけである。ただ共通する心性のようなものはある。

 教職というものに対するイメージは世代によって微妙に異なり始めてい
ると言って良いであろう。それは、例えば戦争というものに対する世代間
の感じ方の温度差とパラレルな感じがする。ひいては人間観や職業観も微
妙に異なり、教職のとらえ方も多様化しつつある。

 「教え子を再び戦場に送るな」という日教組のスローガンがある。現在
積極的に送ろうという教師はさほどいるまい。しかし、教師が、送る、送
らない、と言ってしまうことに対する違和感は出てきている。戦後この言
葉を強く語ってきた教師達の矜持のようなものが薄れてきていると言って
良い。はっきりいって、「そのようなことを決めるのは教師ではないから」
とか「本人が行きたいのなら別に行けば良いんじゃない?」みたいな声が
聞こえてきそうである。

 なんとなくの「教育」、なんとなくの「学校」、今あまり触れられては
いないが、日本の喫緊の問題はやはり教育問題であると感じている。



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 わかんない
 どうでもいい
 なるようにしかならんでしょ
 めんどうくさい
 うざい
 かったるい
 俺の勝手
 むかつく
 なんでそんなこと俺に言うの
 余計なお世話
 気が向いたらね
 別にいいでしょ
 やめろよ、そんなこと
 いいじゃん
 ほっといて
 好きでやってんの
 関係ないだろ
 キレるぞ
 おい、コラ
 
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