「夜窓より」 (20)
瀬尾 公彦(愛知県)
seo@ksn.biglobe.ne.jp
少し異なる視点から「教育」について眺めてみたい。「仕事」として
の教職。所謂「問題教師」という時、何が「問題」となるのか。中高それ
ぞれ微妙にイメージが違うので、ここは高校で考えてみたい。県によって
も微妙なずれはあるのかもしれない。
高校の場合、全員が担任をするわけではないので、長い間、担任につか
ない教員もいる。内部的には眉をひそめられても、これは「問題」とはな
らない。実際問題、仕事量からいえば、主任手当などは全廃して、担任手
当でも出す方がより合理的である。生徒指導や授業についても、保護者か
ら苦情が来ない程度の指導力のなさも「問題」とはならない。
と言うところを押さえておいて、まず言いたいことは「問題」とならな
い教師は問題ないのか、という事である。仕事として見ると、最低これだ
けやっていれば、自分の職業としてのアイデンティティは確保できると言
うラインがある。それを個人の問題と言うところではなく、構造的な教職
の問題として捉えておくべきである。
ここは単なる批判ではなく、そもそも「教育」という営為がシステムと
しての学校制度に見合うかという問題も内包している。多くの人々のイメ
ージする「教育」というものと、職業としての「学校制度」そしてその中
での教員としての「仕事」との乖離。その現実と無力さに対して、もう少
し謙虚に受け止めても良いのではないか。
現実的な話にして行けば、大体このような形で毎年流れていくという学
校のルーティーンというものがあるとして、その事に対する、謂わば「教
育」へのベクトル的な試みがなされていくプラスアルファの試みというも
のがある。それはその学校なり教員の問題意識や熱意や良識などなどによ
るものであろう。生徒に向き合う形のそのような実践は数々この通信でも
報告されているが、実はそのようなことが次第に出来にくくなっているの
ではないかという気がしている。阻害する要因が増えていると言って良い。
一言で「管理」と言ってしまうだけの単純なベクトルの問題ではなくなっ
てきている気がする。「学校」の息苦しさにつながる問題でもある。
「学校」の責任問題、安全面などの現代的な要素がそのことと無関係で
はあるまい。その事を強く意識するのは各「学校」の教育ををリードする
はずの校長初めとする管理職であり、これも県によって温度差はあるので
あろうが、この日本中の管理職の意識の在り方というのが結構重要な事と
なっている。ややシニカルな物言いをさせてもらえば、「教育者」という
名の校長の仕事がどれほど存在しているのか。東京や大阪などの対行政に
対する問題なども、やはり「教育」にとっては違うところに向かわせてい
るのは間違いあるまい。
先月号の終わりに少し触れたが、教育というものが意図的な営為である
として、人の成長などの人間を扱うことに対して、それが意図的になされ
ていくと思うことは或る意味不遜な事である気がしている。確かに漢字ド
リルをやれば、漢字の力はついて行くであろう。ただそれは人としての部
分の能力であり、「人」そのものを、という所とは分けて考えておくべき
である。
夜間定時制高校で、たとえばカタカナの書けない子が書けるようになる。
そこには二つの意味がある。一つは文字通り、書けないカタカナが書ける
ようになった意味。そしてもう一つは出来ないことが出来るようになった
体験としての意味。そういうところに支えられている学校教育であるが、
実は後者の普遍性を教員はもっと意識すべきなのであろう。斜めに傾いて
いる竹林の一枚の絵があるとする。私たちは描かれてある竹に見入ること
に夢中になりそこに描かれていない風の存在を感じることを忘れがちであ
る。それは余裕のなさとすませてしまう問題でもない。
様々な管理の進む中、一つの方向性として、私には教育はもっと無責任
に投げ出されてあって良いと感じられる。意図的ではない教育。場として
の偶然性による教育というもの。実際の人の生の在り方の投げ出され方を
見ると、制度として見ても、その偶然性を排除してすべて意図的にプログ
ラム化してしまうという思想の浅さを省みる時である。意図的なものをす
べて排除することではなく、無意図的な、自治的な、場としての要素をそ
れこそ意図的に組み入れていく発想が必要である。
教育とはたとえ集団教育であるとしても、それは極めて人間個人に関わ
る営為である。「学校」なり「教員」がどのように教育するという発想で
はなくて、それを生徒という名の個の受益する「教育」を見つめ続ける発
想が必要であろう。
やや逆説的な物言いをすれば、給料の払われている仕事以外のところに
教師としてのやりがいや職業としての面白さは潜んでいる。それはそもそ
もこの人間がどのような存在であり、教育がどのようなものかを思うとき
浮かび上がってくる、知る人のみぞ知る真実のように私には感じられる。
実際的にはそれはちょっとした遊び心に通じる気持ちであったり、こだ
わりであったりする。
私の場合はまだ遊び心の通用する夜間定時制高校だからそんなことも言
えるのだ、と言う声が聞こえてきそうであるが、それはそれとして否定で
きない現実があるのであろうと思う。
次回は、私の遊び心から出た、「修学旅行を海外にしてみよう」という
経験について書いてみたいと思う。
***************************
タバコを最初からうまいと
感じる人はいないだろう
でもそれが大人になるということなのだ
友人の手前、
そいつに殴りかかっていった
でもそれが大人になるということなのだ
バイトの大人達に
無理して敬語を使っている
でもそれが大人になるということなのだ
困っている友人に
バイト代の袋をそのまま渡した
でもそれが大人になるということなのだ
おんなが欲しいので
少しへつらってみた
でもそれが大人になるということなのだ
俺は大人になっていくほど
俺自身を振り返らなくなった
でもそれが大人になるということなのだ
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瀬尾 公彦(愛知県)
seo@ksn.biglobe.ne.jp
少し異なる視点から「教育」について眺めてみたい。「仕事」として
の教職。所謂「問題教師」という時、何が「問題」となるのか。中高それ
ぞれ微妙にイメージが違うので、ここは高校で考えてみたい。県によって
も微妙なずれはあるのかもしれない。
高校の場合、全員が担任をするわけではないので、長い間、担任につか
ない教員もいる。内部的には眉をひそめられても、これは「問題」とはな
らない。実際問題、仕事量からいえば、主任手当などは全廃して、担任手
当でも出す方がより合理的である。生徒指導や授業についても、保護者か
ら苦情が来ない程度の指導力のなさも「問題」とはならない。
と言うところを押さえておいて、まず言いたいことは「問題」とならな
い教師は問題ないのか、という事である。仕事として見ると、最低これだ
けやっていれば、自分の職業としてのアイデンティティは確保できると言
うラインがある。それを個人の問題と言うところではなく、構造的な教職
の問題として捉えておくべきである。
ここは単なる批判ではなく、そもそも「教育」という営為がシステムと
しての学校制度に見合うかという問題も内包している。多くの人々のイメ
ージする「教育」というものと、職業としての「学校制度」そしてその中
での教員としての「仕事」との乖離。その現実と無力さに対して、もう少
し謙虚に受け止めても良いのではないか。
現実的な話にして行けば、大体このような形で毎年流れていくという学
校のルーティーンというものがあるとして、その事に対する、謂わば「教
育」へのベクトル的な試みがなされていくプラスアルファの試みというも
のがある。それはその学校なり教員の問題意識や熱意や良識などなどによ
るものであろう。生徒に向き合う形のそのような実践は数々この通信でも
報告されているが、実はそのようなことが次第に出来にくくなっているの
ではないかという気がしている。阻害する要因が増えていると言って良い。
一言で「管理」と言ってしまうだけの単純なベクトルの問題ではなくなっ
てきている気がする。「学校」の息苦しさにつながる問題でもある。
「学校」の責任問題、安全面などの現代的な要素がそのことと無関係で
はあるまい。その事を強く意識するのは各「学校」の教育ををリードする
はずの校長初めとする管理職であり、これも県によって温度差はあるので
あろうが、この日本中の管理職の意識の在り方というのが結構重要な事と
なっている。ややシニカルな物言いをさせてもらえば、「教育者」という
名の校長の仕事がどれほど存在しているのか。東京や大阪などの対行政に
対する問題なども、やはり「教育」にとっては違うところに向かわせてい
るのは間違いあるまい。
先月号の終わりに少し触れたが、教育というものが意図的な営為である
として、人の成長などの人間を扱うことに対して、それが意図的になされ
ていくと思うことは或る意味不遜な事である気がしている。確かに漢字ド
リルをやれば、漢字の力はついて行くであろう。ただそれは人としての部
分の能力であり、「人」そのものを、という所とは分けて考えておくべき
である。
夜間定時制高校で、たとえばカタカナの書けない子が書けるようになる。
そこには二つの意味がある。一つは文字通り、書けないカタカナが書ける
ようになった意味。そしてもう一つは出来ないことが出来るようになった
体験としての意味。そういうところに支えられている学校教育であるが、
実は後者の普遍性を教員はもっと意識すべきなのであろう。斜めに傾いて
いる竹林の一枚の絵があるとする。私たちは描かれてある竹に見入ること
に夢中になりそこに描かれていない風の存在を感じることを忘れがちであ
る。それは余裕のなさとすませてしまう問題でもない。
様々な管理の進む中、一つの方向性として、私には教育はもっと無責任
に投げ出されてあって良いと感じられる。意図的ではない教育。場として
の偶然性による教育というもの。実際の人の生の在り方の投げ出され方を
見ると、制度として見ても、その偶然性を排除してすべて意図的にプログ
ラム化してしまうという思想の浅さを省みる時である。意図的なものをす
べて排除することではなく、無意図的な、自治的な、場としての要素をそ
れこそ意図的に組み入れていく発想が必要である。
教育とはたとえ集団教育であるとしても、それは極めて人間個人に関わ
る営為である。「学校」なり「教員」がどのように教育するという発想で
はなくて、それを生徒という名の個の受益する「教育」を見つめ続ける発
想が必要であろう。
やや逆説的な物言いをすれば、給料の払われている仕事以外のところに
教師としてのやりがいや職業としての面白さは潜んでいる。それはそもそ
もこの人間がどのような存在であり、教育がどのようなものかを思うとき
浮かび上がってくる、知る人のみぞ知る真実のように私には感じられる。
実際的にはそれはちょっとした遊び心に通じる気持ちであったり、こだ
わりであったりする。
私の場合はまだ遊び心の通用する夜間定時制高校だからそんなことも言
えるのだ、と言う声が聞こえてきそうであるが、それはそれとして否定で
きない現実があるのであろうと思う。
次回は、私の遊び心から出た、「修学旅行を海外にしてみよう」という
経験について書いてみたいと思う。
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タバコを最初からうまいと
感じる人はいないだろう
でもそれが大人になるということなのだ
友人の手前、
そいつに殴りかかっていった
でもそれが大人になるということなのだ
バイトの大人達に
無理して敬語を使っている
でもそれが大人になるということなのだ
困っている友人に
バイト代の袋をそのまま渡した
でもそれが大人になるということなのだ
おんなが欲しいので
少しへつらってみた
でもそれが大人になるということなのだ
俺は大人になっていくほど
俺自身を振り返らなくなった
でもそれが大人になるということなのだ
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