夜窓より ☆私の考えなり流儀なり☆

日刊『中・高校教師用ニュースマガジン』に連載中の教育への雑感をまとめておきます。夜間定時制高校の教師の視点です。

夜窓より(12)

2011年11月06日 | 教育
【連載】


■「夜窓より」(12)


瀬尾 公彦(愛知県)
seo@ksn.biglobe.ne.jp


 「全国高等学校定時制通信制生徒生活体験発表大会」というものがあ
る。毎年各県の代表が集い、自分の生活体験を語る。どういう経緯かは
詳しくわからないが、愛知県は何年か前からそこに参加していない。何
か「不当なこと」があって、もめてそういうことになったらしい。それ
は大概管理職なり県教委での判断で、経緯がわからないので、悪いのが
全国の事務局なのか愛知の方かはわからないが、簡単に言えば、大人の
都合で、自己の生活体験を発表するというきわめて素朴なこの大会が汚
されている気がしている。

 愛知にも県大会はあり、それも50回を超えているが、要はそこから
代表が全国大会に行かないと言うことで、賞を取る以外にこの会の存在
意義があると恐らく考えられていることもあり、このような状況が続い
ているのであろう。ただシンプルに見れば、ある県の野球の代表が甲子
園に行かないというのは、全国大会にとって見てもあまり良いことでは
なかろう。

 自己について書くことの意味。自己を表現することの意味は殊に定時
制の生徒にとって少なくないと感じている。第一声が「作文嫌い!」か
ら始まる。日常ほとんど話さなくて文字にも出来ない生徒。どれだけ口
で話せていても、それを活字にするのに抵抗のある生徒。まずこちらで
聞いていって、「それをそうやって書けばいいじゃん」ということでや
っと安心して?1行目を書き始める生徒。まずは書くことへの心理的抵
抗感との戦いがある。

 そして書かせっ放しではなく、その文章に共感したり、褒めてあげた
りすることが結構重要ではないかと思える。例えば、かつてのある生徒
は、私に説明する為に、黒板に、自分の兄弟の図を書き始めた。これが
父の連れ子、こっちが母の連れ子、その妹が父と母の子、みたいな感じ
で。「そういうこと、みんなの前で堂々と話せちゃうおまえはある意味
すごいね。」「普通」でないことを恥じる者も少なくない。他の者の生
活体験やこのような価値観に触れることもなかなかの学びなのである。

 定時制に勤務して以来、個人的にはこの発表会を重要視している。厳
密に言えば、この発表会の為の生活体験作文を書くという行為を。この
発表会への取り組みはその時代によって各学校によって様々であるが、
概してその取り組みの意味づけが希薄になりつつあるという印象を持っ
ている。一つの行事を取りあえずやり過ごすことが仕事という教師の教
育観や、実際書くことに抵抗を示す生徒に、ある意味強制力を持った書
かせるという行為に対する逡巡や、代表を選ぶことの困難さや生活体験
を書くことの意味への軽視など一概には言えないが、実際「発表会」の
部分は別として私は現在まで継続して書く時間を与えている。

 現在の学校では校内の生活体験発表会は行われておらず、代表は一本
釣り的に決めていく。私は2年半前に赴任した際に、発表会を行事化す
るように提案もしてみたが、教師の負担が増えると言う意見が多くであ
っさり会議で却下されてしまい、国語の授業の中で書かせる機会を設け
ている。どうしても書ききれない生徒も若干はいるが、ほとんどの生徒
がこちらの指定する原稿用紙1枚半以上を書く。なかなか心を打たれる
文章も少なくなく、担任には読んでもらっている。

 前任校、その前の高校では(まあ現任校であるがその当時は)各クラ
スの代表を選び、校内での生活体験発表会を学校行事として行っていた。
つまり全員が書き代表の文章を聞くということである。担任と国語で協
力して二時間くらい時間を設定していた。クラスで全員の発表会をHRで
行いクラス代表を決めていた時期もある。やはり自分が書くと、発表会
での聞く態度も自づと違ってくる。そして聞くこともまた重要な教育機
会であると私は思っている。

 さてここからは、また微妙な話である。書くという行為の強制につい
て。しかも生活体験というきわめて個人的なことに対しての強制力につ
いて。そもそも書くという行為は個から発する他への個人的な営為であ
る。当たり前であるが当人が書くことは当人にしかできない。そこを他
者が強制することは非人間的な行為とも受け取ろうと思えば受け取れる。
まずそこは押さえておきたい。

 そして私が考えるのは強制する場の問題である。ここは教育という営
為を為す学校という場である。きれい事を言えば、本人の成長を念頭に
様々なプログラムが為されている。そして学校とは教育という名の或る
種の価値観の強制によって成り立つ強権を持つ機関である。わかりやす
く授業一つ取ってみても、そこには教師一対生徒多数という構図の中で
最大効率化を念頭に置いた強制力を持った構図が浮かび上がる。

 学校はそのような強制機関であるから、私のように授業中に生活体験
作文を書かせるという事が正当化される論理もある。しかし実際長年や
っていてもその価値観に乗ってしまう事に正直揺らぎもある。書くとい
う行為に面せられることに傷ついたり、かなりのパワーを要する者もい
る。更に授業で自伝を書かせたりもしているが、これも同様である。或
る生徒にとっては有益であっても、少数の生徒にとっては微妙だと思わ
れる節もある。

 これは書くという行為だけの問題でもないかもしれない。学校で教え
るあらゆる事がその揺らぎの中にある。教科書ありきではなくて何を教
えるかについてもっともっと考察される必要がある。なぜ幼少期にかつ
て行われていた論語の素読が行われなくなったのか。被教育者の立場に
なって逆に考えれば、何を強制されることによって、何が学ばれていく
のか。そこを見据えるのは学校の責務である。


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 僕の部屋は離れにある
 僕が本を読んでいると、先生が立っていた
 僕が学校に行かなくなったからだ
 僕に先生はいろいろと話をする
 僕は読みかけの本を両手で広げて
 顔の前で持ったまま
 取りあえず先生の視線は防いでおく
 先生はいろいろと話をしたが
 僕はほとんど聞いていなかった
 でも僕は、明日は学校に行こうと思っていた
 自分でも退学するのはいやだし
 そろそろやばいと思っていたからだ
 先生の話はよくわからないが
 先生が来てくれたり
 一生懸命に話してくれることが
 僕には少し嬉しく
 僕だって義理と人情は持ち合わせているので
 先生の話に首肯いてはいた
 でもそろそろ本を持つ手が疲れてきたな
 
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