寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
(過去掲載分は「付録」の「話・話」を開いて下さい)

(第2654話) カエデの屋根

2018年08月06日 | 出来事

 “四十余年前のこと。現在も暮らす建売住宅に住み始めて一年ほどの頃、自生するカエデの木を庭で見つけた。苗木のようでかわいらしかった。夫が丁寧に手入れをして車置き場の「屋根」になるように育てた。ひょろひょろで風が吹くと倒れそうだったが、添え木をして少しずつ車置き場の方へ伸ぱすようにした。
 五年、十年と月日が流れるうちにカエデは大きくなり、すっかり天然のガレージとして機能するようになった。春は芽吹いて新緑が美しかった。夏の暑い日には枝葉が日よけになり涼しくて快適だった。枝が伸びるのは早く、一夏の間に十回ほど夫が枝を切ったこともあった。秋は紅葉し、葉が落ちた冬は日なたをつくってくれた。
 わが家の「一員」として季節ごとに違った顔をみせてくれたカエデだが、夫が高齢となって枝切りができなくなったため六月中旬に根元から切った。寂しさは増すばかりだ。”(7月18日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・小沢さん(74)の投稿文です。自生してきたカエデを、40年上手に育てたら車置きの屋根になった。剪定して上手に横に張らせた。季節毎に風情もある。年に10回ほど剪定したという。そうであろう、すぐに余分な枝が出てくるだろうから。これは見応えがあるであろう。ところが切り倒すことになった。手入れするご主人が高齢になられたからである。全く残念である。ところが周りを見渡せば、こんな家ばかりである。
 実はボクはもう35年ほど前に、庭師に庭園を造ってもらい、たくさんの木が植えられた。ところがこの庭師も高齢になり、数年前から剪定に来てくれなくなった。そこでボクが始めた。藤棚があるが、蔓がすぐ伸びるので、しょっちゅう剪定をしている。小沢さんのカエデ以上であろう。藤棚はボクの憩の場所である。この下でお茶を飲んだり、サマーベットに寝転がったりする。さてこのボクがもう何年剪定できるであろうか。ボクができなくなったら更地にするより仕方あるまい。小沢さんの家のようになる運命である。ボクの家の周りにこんな家が増えてきている。若い人がいてもしないのである。家を建て替えられたと思ったら、庭木が1本もなくなっていたという家も珍しくない。ボクには信じ難いが、これが一般である。どんな風景になっていくのだろう。


(第2653話) 時給70円

2018年08月04日 | 活動

 “「みんなひとところで内職やらない? 空いている倉庫を貸してもらえたの」。主人が逝ってもうすぐ四年。まだまだ寂しさを引きずっている私に、声をかけてくれたのは、つい先日のこと。一個仕上げて一円五十銭だとか。新米の私は、一時間に五十個足らずしかできない。
 お昼になり、みんなでお弁当を広げる。私も何十年ぶりかでお弁当を作ることになった。今朝もスマホからズッキーニの食べ方を教わり、豚肉と炒める。コロッケ、トマトごブロッコリーのサラダ、あとはブドウパン。ナプキンに包む。
 毎日行くところがある幸せ。うれしい気持ちで車を走らせる。七十七歳になる先輩も、ご主人を亡くされている。腰にベルトを巻き、やる気満々で頑張る姿に力をもらう。もう一人の先輩から「今日はコンビニでサンドイッチ買ってきた」と聞けば、「あかんやん、時給七十円やで」と笑い合う。手先の器用な先輩に感心したりで、一日があっという間に過ぎてゆく。こんな仲聞かいとおしくって、ありがたくって。
 息子のひと言。「おかん、車の運転だけは気をつけてな。無理せんときや」とラインが届く。「はい、調子に乗りすぎんようにするわな」”(7月17日付け中日新聞)

 滋賀県長浜市の主婦・山田さん(69)の投稿文です。マアこれは働きに行くと言うより、サロンに行くようなものではなかろうか。この労働がどの程度の負担か、読んでいると失礼かも知れないが、遊びの延長の感じである。もうお金が目的ではない。皆と触れあうことが目的である。毎日行くところがある、これが大切な人達である。楽しく過ごして、その先に小遣いが頂ける。何と素晴らしい行動であろうか。最初に行動を起こした人は更に素晴らしい。ここが一番肝腎である。ついて行く人はいくらでもある。ついていく人だけでは何事も成り立たない。引っ張っていく人があるかどうかである。自分の周りにそんな人があると、生活は全く違ってくる。こういう人が周りにいると全くありがたい。山田さんは恵まれている。先日もボクより年長のあるオバサンと話していたら「働きたい」という。そしてお金はどうでもいいという。まさにこの文である。
 さてオジサンはどうか。これは難しい。適当な場所があっても、まずは出てこない。


(第2652話) お姉ちゃんを捜しに

2018年08月02日 | 出来事

 “「いっぺんお姉ちゃんを見に行こうか」。母が私に言った。中学生だった私は、一度も名古屋の栄にある百貨店の丸栄に行ったことがなく、うれしくて小躍りした。六歳上の姉は高校卒業後、手芸材料関係の会社に入社した。商業簿記を学んだから事務職かと思いきや、すぐに丸栄に派遣されたのである。
 人見知りで口下手なお姉ちゃんが、母は心配だったのだろう。娘が粗相なく仕事をしているのかを見たくて、私を誘ったのだと、今になって親心が染みる。広くて華やかな店内をキョロキョロ。いったいどこに行けばよいのか、姉の姿を探してウロウロ。そしてやっと見つけた。「おねえー」と言いかけて、売り場に近づこうとすると、母に腕を引っ張られた。「やめとこう。もう見たからいい」と。そのときお客さんはいなくて、姉は本を見ながらレース編みをしていた。お客さんに教えることもあるのか、勉強がてらの練習だろうか。
 お姉ちゃんを探しに行ったその日のことは、母は黙っていた。ずっとその後も。私も忘れていた、丸栄がなくなると聞くまでは。今度、古希になった姉に会ったら、あの日のことを打ち明けようか。何を今さら、と笑われるかもしれないけど。”(7月16日付け中日新聞)

 愛知県清須市のパート・高山さん(女・65)の投稿文です。創業400年の丸栄が、今年6月30日に閉店した。いろいろな思い出話が紹介された。高山さんも閉店を機会に、昔のことを思い出された。いつまでも子供を思う母の愛である。働く姿を見に行っても、声をかけなかった。静かに見守る姿である。それが高山さんのお母さんであった。声をかける方法もある。どちらがいいかは分からない。一瞬の気持ちである。親子は何だかんだ言いながら、いざという時には思いやりを発揮する。これでいいのである。
 ボクらの子供の頃は百貨店に行くのが大きな楽しみであった。多くの人にはそうだったろう。屋上に上がれば見晴らしは良かったし、遊園地もあった。食事もできた。名古屋で言えば、その他には動物園とテレビ塔くらいであった。と言いながらボクには親と百貨店へ行った思い出はない。当然ながら買い物もない。その流れか、ボクは一人前になっても百貨店で買い物をしたことはほとんどない。百貨店の袋を持っている人を見ると、今でもボクより豊かな人に見える。