“「緑、緑の季節ですね」。友人から手紙が届いた。彼女の文字のぬくもりは、若葉の森と若葉の匂いを運んできたようだった。私と手紙との出会いは、今から六十年くらい前。転勤族の父を持つ私が転校するとき、担任の先生が「どこに行っても居場所は知らせてな」と言ってくださり、級友や先生との文通が始まった。
転校のたびにペンフレンドが増えていった。手紙をポストに入れたときの響きも好きだ。手紙には三年前亡くなった母も、転勤で始まる生活を支えられていたようだった。手紙がミカン箱に三つ、物置に残されていた。整理していたらい小学一年になった私に、三年生のいとこから「しっかり勉強してください」などと書かれた手紙が出てきた。私の学校生活を心配してくれた気持ちと言葉が、私を見守ってくれていたようでうれしかった。
セピア色になった手紙を彼女に送った。「ありがとう。おばさんは何回も転勤したのに、ずーっと取っておいてくれたんだね。感激したよ」と返信があり、思いがけない手紙の存在はその後、電話でも話が弾んだ。手紙を出せる人がいて、手紙をくださる人たちがいる幸せに、手書きの手紙の良さをしみじみ感じるこのごろだ。”(5月23日付け中日新聞)
愛知県豊橋市の主婦・長井さん(69)の投稿文です。何十年も前の手紙が保存されていた。それも転勤族である。転勤する度にいろいろなものを処分していったであろう。でも手紙は処分されなかった。何十年も前に送った手紙を見せられた。送った人には本当に驚きだろう。それだけ自分を大切に思っていてもらった証しである。感激もするだろう。思いがけないものが残されているとこうした感激を味わうこともある。ボクも結構古いものを残している。探せばそんなものも出てくるかも知れない。
妻は結構手書きで手紙を書いているが、ボクは手紙を書く機会は全く減った。それも書いてもパソコンである。そして手書きの手紙をもらうことはほとんどなくなった。時代の変わり様を本当に実感する。スマホで、インターネットで文字のやり取りもたやすくなった。手紙のように何日も待つこともなく、瞬時である。こうして考えると、手紙ばかりでなく、待つということも少なくなった。せっかちになった。これが進歩ということであろうか。
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