青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

掘るだけが ヤマの会社の 能じゃなし

2020年03月21日 17時00分00秒 | 片上鉄道(保存鉄道)

(子供だって楽しめる@吉ヶ原駅ホーム)

運転会に参加していた親子の、吉ヶ原でのワンシーン。キハのタイフォン響くホームで、親から離れて初めての旅立ち・・・でしょうか。特に湿っぽくもない笑顔の別れ、およそ30分くらい?の一人旅。運転士氏の流しノッチからの後方安全確認が終わると、ガルルンガルンと唸りを上げるDMH17エンジン。立ち昇る紫煙に包まれて、赤い気動車がホームを離れていきます。

吉ヶ原~黄福柵原の中間地点にある田んぼ脇の撮影地にて。スコーンと抜けたような冬の美作の青空の下を、半流線型のレトロ気動車は行く。線路の横に立つ電信柱と通信ケーブルが邪魔くさいので、ガツンと寄って広角で空を仰いでみるアングル。今度のヘッドマークは「しらさぎ」。JRのしらさぎは名古屋から金沢を結ぶ特急ですが、こちらの「しらさぎ」は400mの緩やかな旅。吉井川沿いの氾濫原に細長く伸びる吉ヶ原の集落はところどころに田園地帯が広がります。枯れた田んぼに落穂拾いの白鷺でも飛んでくれば、風流なのですが。

炭住・・・ならぬ鉱山職員の宿舎と思しき集合住宅をバックに、吉ヶ原へ向かうキハ702。集合住宅は全くの無人かと思いきや、まだそこそこの住民は住んでいる様子です。柵原の鉱山は、黄鉄鉱と硫化鉄鉱の採掘こそ止めてしまったものの、現在でもDOWAホールディングスの関連会社が多数残っていて、地域の基幹産業の一翼を担っています。

柵原鉱山の竪坑櫓を移設したモニュメントの脇を行き交うキハ。明治初期にその鉱床が発見された柵原鉱山は、大正時代に藤田組(現:DOWAホールディングス)の手によって大きく発展。平成3年に閉山を迎えるまで、その総採掘量は2650万トンにも及びました。世界有数の質と量を誇った黄鉄鉱と硫化鉄鉱から精錬された硫酸は工業製品の原料として、そして硫化アンモニウム(硫安)は化学肥料として、戦後の日本や世界の農地開発と安定した食糧増産を支えました。

黄福柵原駅の片隅に残る看板に、在りし日の柵原鉱山を偲ぶ。片上鉄道の廃線は、鉱山の閉山とほぼ同時の平成3年の夏の事。昭和末期に鉱山関連の貨物輸送は既にトラックに切り替えられており、また旅客輸送は収益性を確保するには到底至らないこともあって、鉄道を存続する意味はほぼなくなっていました。同和鉱業グループに属する秋田の小坂鉄道から車両の譲渡を受けてはいましたが、車両を始めとする設備の老朽化も著しく、親会社である同和鉱業は鉄道の営業を打ち切ったものと思われます。

運転会に使われていたキハ702の他に、吉ヶ原の駅構内に留置されていた機関車や貨車たち。ディーゼル機関車では、国鉄DD13と同形式のDD13-551が保存されています。この機関車が小さなトラ車を連ね、柵原の鉱山から片上港まで鉱石を輸送するのが片上鉄道の主力業務でしたが、他にもDDが沿線の物資や柵原鉱山で使用する消耗品をコンテナで運び込んだりもしていたそうです。

現在の柵原では、「鉱石から不純物を取り除き、有益な鉱物を取り出す」という精錬技術のメソッドを活かし、パソコンやスマートフォンなどの精密機器やプリント基板などから、レアメタルや希少金属を回収するリサイクル事業を行っています。地中深く鉱脈を求めて坑道を掘り進んだのはとうの昔、同和鉱業改めDOWAホールディングスは、全世界で使われている電子機器や通信ネットワークを形成するハイテク製品に活路を求めました。スマホに使われている希少金属というものはなかなかバカにならないものがあって、金・銀・銅・スズを初め、ネオジム、チタン、リチウム、インジウム、コバルトと数限りない。ヤマから都市へ、トレジャーハントの場所を移した同和鉱業。ただ掘るだけじゃ能がない、時代によって姿を変える鉱山会社の現実だったりします。

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