病院に行って、薬をもらう。その後、大学へ。1時から4時まで会議。会議が終わると、雪が降り積もっていた。その間、貝塚の資料の整理をしてもらったり、卒論の要旨をもとめたりしたが、ゴミ屋敷みたいな部屋に積み上げられていた資料が崩れ落ちること数度…。性格はいいのだが、生活破綻かな?
修士論文の諮問をしていて、気になったことがあって、そのことを考えていた。
テーマの「集団形成」について、ひっかかったのである。教育実践の性格として「集団づくり」といっていいのかとか考えた…。その論文の研究方法からいえば、エスノグラフィーの手法のフィールドワークなのであるから当然のことながら「集団形成」となるのだが…。しかし、それでいいのだろうか?自然発生的な「集団形成」が、見落とされているという批判もありうるだろうが…。
研究方法としても、客観性を標榜して、没価値的に記述していくわけではないが、エピソードをひろうかたちで取り上げる方法には限界もあるかもしれない。
「形成」か「教育」かという議論がかつてあった。
教育実践は、基本的には、「意図」があっての「制作」行為であるから、それに即して分析される必要がある。難しいのは「意図」が隠れていたり、隠されている場合が多いからである。あるいは、意図通りに行かず、かえって教育実践が壊れていくこともあることである。意図が強いと、逆に、教育実践の必須の要件である関係のゆきき(応答)ができにくいこともある。しかし、意図がないと、惰性でうごいているものとなる。段取りばかりやっていっていて「支援」といっているのも(今は、「支援」の概念は変わったが…)、「指導」を否定して使われた場合もある。
考えてみると、教育はだれのために行われているかということもある。結局は、教師のために行われているわけではなく、子どもや青年、成人が主体ということなのであるから、教育の主体である子どもや青年などが学習していく、そのことを通じて自己形成していくことなのであるが…。
修士論文の諮問をしていて、気になったことがあって、そのことを考えていた。
テーマの「集団形成」について、ひっかかったのである。教育実践の性格として「集団づくり」といっていいのかとか考えた…。その論文の研究方法からいえば、エスノグラフィーの手法のフィールドワークなのであるから当然のことながら「集団形成」となるのだが…。しかし、それでいいのだろうか?自然発生的な「集団形成」が、見落とされているという批判もありうるだろうが…。
研究方法としても、客観性を標榜して、没価値的に記述していくわけではないが、エピソードをひろうかたちで取り上げる方法には限界もあるかもしれない。
「形成」か「教育」かという議論がかつてあった。
教育実践は、基本的には、「意図」があっての「制作」行為であるから、それに即して分析される必要がある。難しいのは「意図」が隠れていたり、隠されている場合が多いからである。あるいは、意図通りに行かず、かえって教育実践が壊れていくこともあることである。意図が強いと、逆に、教育実践の必須の要件である関係のゆきき(応答)ができにくいこともある。しかし、意図がないと、惰性でうごいているものとなる。段取りばかりやっていっていて「支援」といっているのも(今は、「支援」の概念は変わったが…)、「指導」を否定して使われた場合もある。
考えてみると、教育はだれのために行われているかということもある。結局は、教師のために行われているわけではなく、子どもや青年、成人が主体ということなのであるから、教育の主体である子どもや青年などが学習していく、そのことを通じて自己形成していくことなのであるが…。