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ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

柏てん『京都伏見のあやかし甘味帖 月にむら雲,れんげに嵐』宝島社,2018年

2025年04月07日 09時37分17秒 | 

柏てん『京都伏見のあやかし甘味帖 月にむら雲,れんげに嵐』を読んだ。このシリーズ3作目。京都の和菓子の探訪の位置づけであるが・・・。第一作,第二作,第三作とす住めてくると,和菓子の話しは消えて,要するに「あやかし」妖怪ものの馬鹿話になっていく。今回も,天狗の話し,牛若丸と弁慶の話しがつづいて,鞍馬の山に入っていくのは良いが。和菓子の話しは横に置いておくという感じ。

信じられん頼間違いも多いので,蘊蓄にも何もならないかもしれない。たとえば,近鉄と京阪がまちがっていたりとか・・。とにかく,和菓子が出てくるところを摘記しておきたい。

1886年創業の「仙太郎」(これは仏光寺近くに店があった!) 5月の和菓子ということで,三種類の「柏餅」と「粽(ちまき)」p.45

端午の節句のもととなったのが,中国の端午節。春秋時代の政治家が入水自殺をしたのが,5月5日,その死を悼んだ人々がお供え物として竹筒に米を入れたものを投げ込むようになった。供物を川にすむ龍に食べられないようにせんだんの葉で包み,五色の糸で巻いてほしいとの願いがあり,それが「粽」になったという。日本につたえられた端午節は,藤森神社に端を発する菖蒲の節句と結びつき男子の成長を祝う行事となった。江戸時代以降に盛んになったが,そこで誕生したのが「柏餅」。関東の方がポピュラー。小倉餡がなくなると,味噌餡を入れていたという。

「子育て飴」p.81 「みなとや 幽霊子育飴本舗」 幽霊が飴を買いに来たという話し(六道の辻)

昔,京の都の東限は鴨川までだった。それを越えると鳥辺野とよばれる京都の三大風葬地のひとつにつながる。平安の頃は墓を建てることもなく,庶民の遺体は鳥に食わせたり朽ちさせたりするのが常だった。「六道の辻」はそこへ到る野辺の送りの道。いつしかあの世へとつながるといわれるよいうになった。

手作り琥珀糖p.109 有名なものは御菓子丸の「鉱物の実」(紫竹にある店舗) 鉱物にみたてられたシャンパン色の琥珀糖。

義経にまつわる和菓子。p.156 義経一行が奥州に逃げる際,負傷した弁慶が療養した民家に,銅鑼(どら)を置き忘れたという。その銅鑼で生地を焼いたのがどら焼きのはじまりだとか(あくまで,一説)

「亀屋良長」の「醒ヶ井」p.159 井戸をモチーフにしたお菓子。季節に応じた羊羹を牛皮で海苔巻き状に巻いたお菓子。その断面は見事な渦巻き模様。

 


関川夏央『砂のように眠る 私設昭和史1』(中公文庫

2025年03月19日 17時21分38秒 | 

関川夏央『砂のように眠る 私設昭和史1』(中公文庫版)
関川夏央は,1949年新潟県生まれ。ノンフィクション作家,しかも,フィクションやマンガの原作も書き,エッセイストで批評家でもある。『海峡を越えたホームラン』で第七回講談社ノンフィクション賞,『「坊っちゃん」の時代』(谷口ジローとの共著)で第二回手塚治虫文化賞,『昭和が明るかった頃』で第一九回講談社エッセイ賞,「毎時以降の日本人と,彼らが生きた時代を捉えた幅広い表現活動」により第四回司馬遼太郎賞を受賞。
たしか,『昭和が明るかった頃』は読んだことがある。内容は忘れてしまったが,戦後史として面白かったので,この本も読んでみる気になったのだろう。
不思議な本である,それぞれ関川の過ごしてきた時期の自分を私小説風につづった部分とそれと重ねてその時代に広く影響を与えた本の評論を配置して,それぞれ共鳴させている。

目次
はじめに

クリスマスイブの客
山の民主主義―『山びこ学校』が輝いた時代

みぞれ
日本の青春―石坂洋次郎に見る「民主」日本

思い出のサンフランシスコ
『にあんちゃん』が描いた風景―日本の貧困、日本の理想

春の日の花と輝く
める青年作家の帰国―『何でも見てやろう』という精神

ここでなければどこでも
一九六九年に二十歳であること―『二十歳の原点』の疼痛

時をへてもみんな嘘つき
田中角栄のいる遠景―『私の履歴書』と乾いた砂

おわりに

「戦後」時代略年表
新潮文庫版解?須賀敦子
自著解? 関川夏央


京都市学校歴史博物館「探索 京都市の学校文化 元番組小学校編」

2025年03月18日 22時56分00秒 | 田村一二

学校歴史博物館の展示「探索 京都市の学校文化」が開催されている!

チラシに「『京都流』教育実践」として鈴木藤太郎『子ども記』が記載されていた。これはとおもって,行ってみた。教育実践の系譜として,『忘れられた子等』などの展示もあった。学芸員の方と2時間弱も話しをしてしまった。教育実践史の難しさを思うが,その核になるのはやっぱり子ども観ということなのだろう。


京都のあやかしと和菓子ー柏てん『京都伏見のあやかし甘味帖』はじめの二冊から

2025年02月25日 16時13分42秒 | 

柏てん『京都伏見のあやかし甘味帖 おねだり狐と町家暮らし』(宝島社文庫,2017)

主人公の小薄れんげ(29歳)が、理不尽にも解雇され、その日に家に帰ると同棲相手の彼氏の浮気現場に直面。失業と失恋のダブルパンチに、京都へ逃避行。ラノベだが、まえのあやかしのものと比べると大人っぽいので、読んでいく。しかし、「中書島」のルビが、「なかがきじま」p.22とあって、閉口。京都の和菓子についてかかれたところ、ちょっとうんちく気見たところなど摘記してみた。

「いなり(稲荷)」の由来 今から千三百年以上昔、山城国とよばれていた頃。深草に秦伊呂巨(はたのいろこ)という者があり、彼は稲を積みて豊かに暮らしていた。ある時、弓で餅を射ると、驚いたことに餅は白鳥へと姿を変え、山の峰で稲となった。ゆえに山の名は古くを伊禰奈利(いねなり)、転じて稲生となり、稲荷となった。P.147

・虎太郎が和菓子に魅了されたきっかけ 京菓子司・満月の阿闍梨餅

・虎太郎の甘味日記 宇治編

「椿餅」 源氏物語と言えば、椿餅やんなあ p.74

椿餅というのは一節には和菓子の起源とも言われるお菓子で、なんと千年の歴史がある。当時は砂糖がなかったので甘葛の汁と、道明寺粉を練って椿の葉で挟んでいたらしい。

「茶団子」:「御菓子司能登椽 稲房安兼」(御菓子司は公家の家来として御菓子作りを認められた一部の和菓子屋のこと:創業1717年)

 

・虎太郎の甘味日記 平安神宮編 p.98

「京菓子司平安殿本店」 京吟味百撰の認定を受ける

「平安殿」「栗田焼」「平安饅頭」

・「おせきもち」

ヨモギのお餅としろいお餅が一つずつ。その上に、粒あんがダイナミックに載せられている p.134

 

・虎太郎の甘味日記 松風編

「松風」 納豆味の和菓子・石山本願寺で生まれる。カステラに似た形状、カステラより固くせんべいより柔らかい、保存に優れた乾パン。小麦粉、砂糖、麦芽飴、白味噌をませ合わせ、自然発酵させた生地にケシの実を振りかけて巨大な縁万頃に焼き上げる、それを重宝気にに切り分けられたもの。 亀屋陸奥(西本願寺の南東:創業1421年)

亀屋陸奥の「松風」、松屋藤兵衛の「紫野味噌松風」、松屋常磐の「紫野味噌松風」が御三家 p.150-151

 

・亀屋伊織の「貝づくし」(木型で押した「押物」という種類の菓子)、有平糖「わらび」p.171

 

・豊栄堂の「酒まんじゅう」、「酒カステラ」

 

・「虎太郎の甘味日記 出町柳編」

出町ふたば 「名代豆餅」「三宝だんご」「桜だんご」(桜の葉が練り込まれた薄紅のだんご)p.181

 

・鶴屋吉信 直営店限定「青苔」(寒天を砂糖やなんかで甘くして、外側だけ乾燥させた琥珀糖という御菓子)

 

・「虎太郎の甘味日記 祇園編」

鍵善良房の「葛切」

 

柏てん『京都伏見のあやかし甘味帖 花散る、子一縷、鬼探し』(宝島社、2018)

今度は「中書島」は「ちゅうしょじま」となっていた。ますます「あやかし」の世界にはいっていって、和菓子どころではなくなっていく。伏見稲荷の白菊命婦(しらぎくのみょうぶ)からの頼みで「鬼女」を探すというもの。安倍晴明はでてくるは、主人公の「小薄(おすすき)れんげ」の元彼の「理」に乗り移っているし、貴船、蹴上、宇治、一条戻橋、あっちに行ったりこっちに行ったり。

肝心の和菓子は…、

・虎太郎の甘味日記―老松編

老舗「老松」の「夏柑糖」:輝く橙(だいだい)の果実をくりぬき、その果汁と寒天を混ぜて皮の中に戻して冷やし固める。寒天は酸により分解されるので、夏柑糖は難しい柑橘寒天を成功させ京都人に親しまれていた。P.43-44

 

・現代のどら焼きー朧谷瑞雲同(おぼろやずいうんどう、紫竹地区)の「どら焼き」p.75。種類:小倉、抹茶、黒胡麻、苺、桜など、「吟味謹製生銅鑼焼風味絶佳(ぎんみきんせいなまどらやきふうみぜっか)」。どら焼きとよぶのを躊躇うようなクリームの塊p.77-78

 

・虎太郎の甘味日記―哲学の道編

叶匠寿庵の京都茶室棟(熊野若王子神社裏手) 「あも」:叶匠寿庵の代表ともいえる菓子。昭和46年生まれ。柔らかく滑らかな餅が、しっとりしたつぶあんに包まれた、一見要官位も見える棹菓子。大福があべこべになったようなお菓子。P.106

 

・「にっき餅」「名物志んこ」(「まめ餅」「桜餅」に続いて)p.112-113、「祇園饅頭」の工場でかえる。「志んこ」はちいさな巻物のようなもの、お餅というよりは白玉に近い歯触り。味はほんのりと上品な甘さ。米粉で作るので「真の粉」で「志んこ」となった。p.114

 

・「玖豆善哉(くずぜんざい)」p.121白玉の上に載った透明な餅のような葛(練りたて)。善哉のふんわりした甘さと、なんともいえない葛の柔らかな口当たりが口の中で溶け合う。P.122

・虎太郎の甘味日記―複雑な男心編

「ウチュウワガシ」の「落雁」(落雁の由来は琵琶湖の浮御堂におりてくる雁の情景を描いた打ち物とも、中国の明の時代の菓子『軟落甘』を略したものとも言われている。素材となる穀粉は様々、うるち米、玄米、小麦、大豆、小豆、蕎麦、栗などを製粉して砂糖、水、水飴で練り型に入れて固める。麦を使ったもの麦落雁、豆を使ったもの豆落雁、栗の粉をつかったものは栗落盤。和菓子の落陽とともにその授業は年々減り続け、木型をつれる職人もごくわずか。P.166

 

・JEREMY&JEMIMAH いろとりどりの一風変わったわたあめを売る店。p.193

 

・おまけの一口―子狐のひとりごと

「呪い」と「祝い」:名は呪い。そして祝いでもある。名前という言霊によって相手を縛り、名を贈ることで生命の誕生を言祝ぐ(ことほぐ)のである。P.228

 

「どろぼう」というお菓子:泥棒したいくらい美味しい。小さい麩菓子のようなもの、どちらかというと岩おこしに近い。茶色くて、口に入れるとねっちりしていて、とても甘い。P.248

 

 


「どうすればよかったか?」

2025年02月15日 16時21分00秒 | 映画

京都シネマで上映している「どうすればよかったか?」を観てきた。いま話題で、京都シネマでもロングランとなっている。土曜日ということもあってか、沢山人が入っていた。「鍵」「閉じ込め」とあったので身構えた。親として、医者・研究者として、きょうだいとして、家族として、、、本人にとっては何が大事だったのか? 精神の人たちや団体とおつきあいしていることもあって、いま起こっていることとして考える。「どうすればよかったか?」という問いは、社会にも向けられる。


マリア・モンテッソリー

2025年02月15日 15時59分53秒 | 映画

映画「マリア・モンテッソリー」(2023年イタリア・フランス) 1907年「子どもの家」を解説するまでの、試練と歩みの7年間。京都シネマで上映・・・?


万葉文化館

2025年02月15日 15時33分37秒 | 大学

2025年2月14日 万葉文化館にいった。万葉文化館をめぐった。奈良にいたときはこなかった。静かな飛鳥のたたずまい。いにしえの時、工房があったところだという。開催されていた「明日香の匠」展をみた。作家は、元附属幼稚園副園長の烏頭尾忠子先生、夫の烏頭尾精先生が日本画、吹きガラスの高橋直樹さん、陶工は奈良教育大学におられた脇田宗孝さん。


山田火砂子

2025年02月08日 23時54分31秒 | 映画

山田火砂子 前後編

 

92歳の映画監督・山田火砂子「社会福祉、女性の地位向上、戦争…全部自分が当事者だった。新作では知的障がいのある両親と娘の成長を描く」戦争もNO!差別もNO!<前編>

 

「とにかくお金集めが一番大事だから、上映会の会場でお客さんに〈製作協力券〉と名づけた次回作のチケットを1枚1000円で買ってもらい、そのお金で新しい作品を撮るんです」(撮影:洞澤佐智子)

〈発売中の『婦人公論』5月号、2024年〉

国内最高齢の女性監督、山田火砂子さんの新作映画『わたしのかあさん―天使の詩―』が公開された。夫の映画製作を支えたのちに自らも撮るようになったが、選ぶ題材は社会福祉、女性の地位向上、戦争……と一貫している。そこには「私が当事者である」という強い意識があった(構成=篠藤ゆり 撮影=洞澤佐智子)

資金集めに全国を飛びまわる

映画監督のデビューは64歳だから、この30年弱で10作品を撮ったことになります。私はもともと女優だったし、監督をやろうなんて考えたこともなかったんだけどね。

さすがにこの歳になると、身体はしんどいですよ。ここ数年は週3回、人工透析に通っているし、足も悪いでしょ。それでも上映会があれば、どこでも会場に出向いて挨拶しています。

うちは「現代ぷろだくしょん」という映画製作会社。いわゆる独立系というやつで、製作も配給も自分たちでするの。とにかくお金集めが一番大事だから、上映会の会場でお客さんに「製作協力券」と名づけた次回作のチケットを1枚1000円で買ってもらい、そのお金で新しい作品を撮るんです。

 

私はこの通り口が悪いもので、政治批判だろうがなんだろうが言いたい放題。でもそれが面白いんだろうね。皆さん、私がしゃべると講演料と思って券を買ってくれるわけです。

だからプロデューサーをやっている次女が、「行かなきゃダメ」って厳しいのよ(笑)。前作『われ弱ければ―矢嶋楫子(やじまかじこ)伝』のときは全国204ヵ所の会場を回ったんだって。頑張るよねえ。

医者からは「聞くところによると北海道であれ、アメリカであれ飛んで行っちゃうらしいですけど、少しはご自分の年齢を考えてください」とよく注意されます。でも、言えないじゃない、「映画の資金稼ぎやってるんです」って。(笑)

 

3月から公開された新作『わたしのかあさん―天使の詩―』の構想は、前作の上映中から進んでいました。

知的障がいのある私の長女がお世話になった、東京教育大学附属大塚養護学校(現・筑波大学附属特別支援学校)の菊地澄子先生の書いた本が原作。障がいのある両親のもとに生まれた健常者の娘が、葛藤を乗り越えて成長する様子が描かれています。

両親の役は、寺島しのぶさんと渡辺いっけいさんが演じてくれました。知的障がいのある難しい役なのに、ふたりとも本当にうまいんだよね。

 

私、前作の上映会でお客さんに聞いたんだもん。「寺島さんが演じる知的障がい者のお母さん、見たい人」と聞いたら、どの会場でもぶわ~っと手があがるのよ。実際、やさしくて、きれいな心のお母さん役がぴったりでした。

 

常盤貴子さんも、私の作品に何度も出てくれるね。仲がいいんだ。原作にはない、成長して障害者施設の園長になった娘の役をやってもらいました。幼少期を演じた落井実結子ちゃんも、いい演技をしています。

ほかにも船越英一郎さんや高島礼子さんをはじめ、一流の人が大勢かけつけてくれて、すっかり豪華キャストになっちゃった。キャスト表を見ながら常盤さんと「福祉映画もここまできたねえ」って。船越さんはクランクアップ後、「こういう映画なら僕出ますから、また誘って」と言ってくれました。

嬉しいし、ありがたいことです。なにせ貧乏所帯だからロケにもお金をかけられない。事務所が入っているこの古いマンション、別の階に私は住んでるんだけど、たまたま空き部屋が出たんです。そこを一家が暮らす公団住宅という設定で借りました。

当初、「ドアが公団風じゃない」とプロデューサーの次女が言うので、「じゃあ、お金持ってきてよ」って言ってやりましたよ(笑)。皆さんの楽屋は、私の部屋。わいわい楽しく撮影しました。ぜひ観てください。

 

子どもを手放せ、という誘い

これまで映画で取り上げてきたテーマは、社会福祉、女性の地位向上、戦争……と一貫していると思います。どれも私自身が当事者だからなんだよね。

戦争は、なにより嫌いです。私が生まれたのは1932年。五・一五事件が起こった年で、日本が軍国主義に突き進んでいた時代でした。

やがて第二次世界大戦が勃発。私は東京生まれで、下町が壊滅的な被害を受けた45年3月10日の東京大空襲は免れたものの、5月24、25日の山手大空襲でやられました。

 

 

東京大空襲では約300機のB29が焼夷弾を落としたけど、山手大空襲では各日450機以上が飛んでたの。空襲警報が鳴って夜の町を逃げながら空を見上げると、あんなにたくさんの飛行機同士がよくぶつからないなあと思うくらいだった。

次の瞬間、焼夷弾がバラバラと落ちてきて、あたり一面にぶわ~っと一斉に火がついて真っ赤になった。半分焦げた死体やら、火ぶくれだらけで歩いている人やらで、あの光景を描けと言われたら描けるくらい。忘れたくても、忘れられないですよ。今でも打ち上げ花火は、怖くて泣いちゃう。

 

 

終戦後、女学校に行くも女優になりたくて、エキストラや小さな役をやりながらチャンスを待ちました。ジャズにハマり、18歳のころに女性バンド「ウエスタン・ローズ」を組んで。進駐軍のクラブに出入りしてお金を稼ぎました。その後は軽演劇の舞台に出るようになり、女3人でコントをやったりして。人気あったんですよ。

29歳で結婚して、生まれた娘が2歳のころ、病院で知的障がいがあると診断されました。いまと違って情報もないし、最初はびっくりしてね。正直、私にも恥ずかしいという気持ちがありましたよ。こればかりは、育てたことがない人にはわからないと思う。知的障がいのある子どもを育てるのは、そりゃあ大変なものです。

次女が生まれたあと離婚したんですが、そのころは喫茶店もはじめていて、子育てをしながら店に立っていました。そうしたらNHKの人が「喫茶店のママで終わらせたくない」とスカウトにきてくれた。

 

 

得意の喜劇的な演技で「スターにしてあげる」なんて言うから、三の線の女優で復帰しようって私もすっかりその気になってね。

ところがその条件として、子どもを手放せ、と言われてしまった。当時は里子に出すなんてことが当たり前に行われていたからね。次女は健常者だし、いくらでももらい手があるって。じゃあ長女はどうするんだ。どっちも手放すなんてとんでもない、と断りました。

 

<後編につづく

 

国内最高齢の女性監督・山田火砂子、映画を通して伝えたいこと「92歳、原動力は怒り。命を奪い、差別する社会は今も変わっていない」 戦争もNO!差別もNO!<後編>

 

 

「ありったけのフィルムを買い込んで、幼い娘たちのリュックに詰め込んでロケ地まで運んだこともありました」(撮影:洞澤佐智子)

〈発売中の『婦人公論』5月号から記事を先出し!〉

 

国内最高齢の女性監督、山田火砂子さんの新作映画『わたしのかあさん―天使の詩―』が公開された。夫の映画製作を支えたのちに自らも撮るようになったが、選ぶ題材は社会福祉、女性の地位向上、戦争……と一貫している。そこには「私が当事者である」という強い意識があった(構成=篠藤ゆり 撮影=洞澤佐智子)

 

<前編よりつづく

夫婦で映画をつくると理想に燃えて

映画監督の山田典吾(やまだてんご)と再婚したのは、43歳のとき。これがまた、いい加減な男でね(笑)。お金持ちの医者の息子でさ、助監督として東宝に入ったあと、芸能部の部長さんになったんです。

そのままいれば重役か社長になれたかもしれないのに、組合運動やったり共産党にかぶれたり。あの時代、インテリのぼんぼんは左翼にかぶれがちだったから。それで会社をやめて設立したのが、現代ぷろだくしょんだったわけ。

でも所詮は坊ちゃんだからお金のことがまったくわかっていない。俳優の山村聰さんが脚本・監督を務めた『蟹工船』(小林多喜二原作)を製作したときなんて、実際に工場を造ったらしいです。リアリズムが大事だとか言って。

今のお金で何億という額を使っちゃったんじゃないの? 知り合う前の話だけどね。そんなことをやっているから、出会ったときの典吾に財産という財産はなにもなかった。

最初、典吾が近づいてきたとき、思ったのよ。女優に復帰できるかもって。とんでもない見込み違いだった。それに典吾は東宝にいたといっても管理職だから、現場のことがあまりわかっていなくて、結局、私が裏方の仕事をすることになりました。まあ、「2人で障がい者映画をつくろう」なんて、私も理想に燃えちゃったんだけど。

子どもを家に置いておけないから現場に連れていくと、当時の映画界は完全な男社会だから、「子連れ狼と仕事しなきゃいけないなんて、冗談じゃない」となじられる。社長の妻という立場は一切関係ない。そんな甘い世界じゃないです。

借金取りも押しかけてきたし、典吾からは「プロデューサーはお金を出すのが仕事だ」と言われるし、ありったけのフィルムを買い込んで、幼い娘たちのリュックに詰め込んでロケ地まで運んだこともありました。

それでも私が裏方の仕事を続けたのは、お金の管理ができる人が誰もいなかったからでしょうね。たとえば雨を降らせるとするじゃない。撮影で大量の水が必要なときは特機車を借りるか、予算を抑えたいなら消防車を借りるんだけど、これがけっこうお金をとられるの。大事なのは金銭交渉(笑)。

 

 

『はだしのゲン』を撮ったときは、いかにわが国の未来にとって有意義な作品か、大風呂敷広げてでも説明して、金銭面で協力してもらえるよう交渉しました。お金の工面は苦労が尽きませんよ。企業に出資を頼むと、企業の言いなりの映画になってしまうしね。

気がついたらプロデューサーになっていたわけだけど、典吾は約束通り、障がい者をテーマにした映画を何本も撮ってくれました。

 

監督への道を歩き始める

典吾が亡くなったのは98年です。亡くなる少し前から、私は娘たちとの日々を描いたアニメ映画をつくりたくて、出資者を求めてあっちこっちに手紙を出していました。

出資してくれそうな人に会いに福岡まで行ったものの話がうまく運ばず、ついでに宮崎の高鍋まで足を延ばしたら、以前から映画の題材として話に上がっていた石井十次(いしいじゅうじ)の銅像が立っていました。改めてどんな人だろうと思ったら、日本にまだ福祉という概念がなかった明治時代に、岡山に日本初の孤児院を作った人だっていうじゃない。銅像はあるけど出身地の高鍋でも忘れられかけていると知り、なんとかしたい、と思いました。

高鍋の人たちと会うようになって、「映画を撮りたいそうだけど、いくらかかるの?」と聞かれたから「1億円」と答えると、椅子から転げ落ちてたよ。「そんな金、作れるわけないでしょう」って。

 

 

だから私、「映画ができたら観られる、という製作協力券を1枚1000円で買ってもらって、それを資金にするんです」と説明したの。そしたらその場にいた女性が「面白い! あなたを気に入った。やるだけのことをやろう」と言ってくれました。

結局、先ほど話したアニメ『エンジェルがとんだ日』と、石井十次を描いた『石井のおとうさんありがとう』を私が撮ることに。典吾が死んで会社を閉鎖するかどうかという話も出たけれど、ここから私の監督人生が始まったんだね。

『石井のおとうさん~』は宮崎の新聞社からも取材されました。出演は松平健さん、永作博美さん、辰巳琢郎さん、竹下景子さん……と超一流。でも監督の名前は聞いたことがないって書かれてさ。(笑)

そういえば、内田吐夢監督の息子がうちの事務所にいた時期があったの。そのとき「チャコさんは映画監督になれるよ。絵が浮かんできて、それが目の前で動いてるんだもんな。典吾は絵が止まったまんまなんだよ」と言ってくれた。あのとき典吾はそっぽ向いてたけど(笑)、私にとってその言葉が背中を押してくれた気がしています。

 

 

声を上げなければ社会は変わらない

3~4年に1本のペースで撮ってきたけれど、情勢に合わせてテーマを選ぶこともあります。安倍晋三元総理が憲法改正を声高に主張するようになったときは、『山本慈昭(じしょう) 望郷の鐘―満蒙開拓団の落日』を撮りました。

山本慈昭は中国残留孤児の帰国のために奔走した人物で、安倍さんの祖父の岸信介元総理は満蒙開拓団の生みの親の一人でもある。こうした国策の負の歴史を突きつけたい思いがありました。

この映画は途中で資金が尽きて、一時撮影が止まっちゃったの。でも山本慈昭の故郷、長野県下伊那郡の方が田畑を担保に入れてお金を借り、製作協力券を1万枚買ってくれました。

 

 

長野県は全国最多の開拓民を送り出したところでもあるんだけど、追加も必要になるほど券が売れて、損が出なかったと聞いたときは嬉しくて。忘れられませんね。県内の映画館で半年も上映されたので「ギネスもんだねえ」とみんな喜んでいましたよ。

2018年は医学部の不正入試が取り沙汰された年。東京医科大学などの入試で女子合格者を減らす得点操作が発覚したでしょう。こんなことがあっていいのか、と怒りに震えたね。女性に医師の認可を与える制度がない時代に、近代日本初の女性医師として生きた荻野吟子を題材に、『一粒の麦 荻野吟子の生涯』を撮りました。

 

女性の権利獲得や地位向上のために尽力した人物を何本か撮ったし、また知的障がい者をテーマにした映画を撮ろうと思ったのが、今回の新作です。

時代はよくなりましたよ。福祉も変わってきたと思う。長女が小さいころは、障がい者の子どもが生まれると経済的にも困窮したし、後ろ指を指されるし、変な勧誘も受けるし、将来への不安で一家心中する家族も少なくなかった。

そんなとき、美濃部亮吉都知事が「死なないでください」というメッセージとともに、障がい者の生活支援や施設づくりを進めていきました。欧米の福祉政策の影響もあっただろうけど、自治体や制度を動かし、日本の福祉を確かに前進させたのは、なにより当事者家族の声だったと思いますよ。

 

 

長女は今62歳。障がい者施設で暮らし、障害年金ももらっています。だからなんとか生活ができている。

今日も、庶民の生活を知らない人たちが政治をやっていますよ。子ども一人育てるのに、今は3000万~4000万円はかかるっていうんだから大変な金額じゃない。

若い人は生活が苦しくて子どもを産むのもためらっているのに、政治家はパーティー券で私腹を肥やしたり、めちゃくちゃでしょう。おかしいと思ったことは、声を上げないと。それを恥ずかしがったら世の中は変わりませんよ。

私がこの年齢まで映画をつくる原動力は、「怒り」です。世の中が多少よくなってきたからって、命を奪ったり、傷つけたり、差別したりする社会は変わっていないから。だからこの怒りが続く限り、映画をまた撮らなきゃいけないんでしょうね。(笑)

 

 

 

山田火砂子さんの記事が掲載されている『婦人公論』5月号は好評発売中!


『京都上賀茂あやかし甘味処 鬼神さまの豆大福』

2025年02月06日 23時34分49秒 | 

朝比奈希夜『京都上賀茂あやかし甘味処 鬼神(きしん)様の豆大福』小学館文庫、2019年

登場する和菓子

引千切(きちぎり):京都の桃の節句には欠かせない上品な和菓子のこと。丸く延ばしくぼみを作った餅に餡やきんとんをのせたもので、その餅の一カ所が引きちぎったような形であることからこう呼ばれている。/なんでも宮中で餅菓子を作るときに手が足らず、餅を引きちぎったことから、この形になったんだとか。P.15

みたらし:黒砂糖を使った甘辛いたれのだんご。五つのだんごのうち一番上のひとつだけ離れているのは、人の形を表している。そもそもみたらしだんごは、下鴨神社境内の糺の森の御手洗池に湧き出る水の泡をかたどったのが起源だ。P.22

桜餅:関東風と関西風と異なるらしく、関西風は、つぶつぶの道明寺粉でこし餡を包む。わらに京都の桜餅の特徴としては、これを二枚の桜の葉の塩漬けで挟んであること。しかも桜餅といえば薄いピンクの餅を想像するが、京都は白に近いことが多い。P.58

玉椿:京都には欠かせない白餡を原料にした〝こなし〟と言われる生地を使ったもの。/〝こなし〟は白のこし餡に小麦粉や上用粉などを混ぜて蒸し作る生菓子。〝練り切り〟とよく似ていて見分けがつかないが、練り切りはつなぎに求肥などを使い、蒸すという工程がない。/薄い桜色をつけたこなしで餡を包み、椿の花のように成形している。P.64

三笠焼き:関東ではどら焼きというのが一般的だが―p.69

初桜:桜の花びら一枚をかたどった練り切り。P.93

菜種きんとん:餡の周りに若芽の息吹を感じる若苗色のそぼろ餡をつけ、さらには菜の花を思わせるような黄色のぞぼろ餡を散らしたもの。P.93

水無月:京都生まれの和菓子で、六月に並ぶ人気商品。〝夏越の祓え〟といって、本来は一年の半分が経過した六月三十日に穢れをはらうために食すのだが、人気があるのでいるも月の半ばから販売する。ういろうの上に小豆をのせた三角の水無月の中でも、雲龍庵のものは大きめの小豆がごろごろのっていて甘さ控えめなのが特徴だ。P.157-158

麩まんじゅう:夏の時期の和菓子。生麩で作った歯ごたえのあるつるんとした生地でこしあんを巻いた和菓子だ。クマザサで包み店頭に並べる。P.171

水ようかん:竹にはいった水ようかんは、ほのかな竹の香りも楽しめる。普通のようかんより寒天の分量を減らして作るため口当たりが柔らかいのが特徴。P.171

錦玉羹(きんぎょくかん):練り切りで金魚や恋し、水草などを丁寧にひとつづつ作り、それをほんのり青く着色した寒天に閉じ込めた、食べるのがもったいないような和菓子。少しずつ寒天を固まらせては、練り切りを置きまた寒天。そして別の練り切りを置くという作業を繰り返すので、立体的に仕上がり、本当に金魚が泳いでいるように見える。P.171-172

栗甘納豆:渋皮ごと上品な甘さに仕上げてあり、いくつでも食べられるおいしさ。P.171

お月見だんご:中秋の名月を楽しむこの時期は、お月見団子が販売される。丸くて小さなだんごを四角錐形に積み上げる地域が多いが、京都は違う。/どうやら中秋の名月は別名芋名月というらしく、里芋の形に似た細長いだんごにこし餡がまいてある。P.173

姫菊:

はさみ菊:糸切りばさみのような細工用のはさみで、練り切りの表面に一枚ずつ反ビラの切り込みをいれていく生菓子で、まるで芸術品のよう。花びらの間隔や大きさをそろえないければ美しくないので、熟練した技術が必要になる。

こなしの柿:

餡:砂糖を加えてからの練る作業が重要で、これまた職人技。気温によって練る時間を変える必要もあれば、砂糖の量によっても異なる。そして火を止めるタイミングは、…『豆に聞け』」p.268

豆大福:

「豆大福は俺たちを生かした大切な和菓子だ。」

「じいさんが俺に最初に食わせてくれたのが、この豆大福だ。これに救われて、今がある」「ふたちを拾ったときにも、これを食わせた。じいさんは、和菓子を通して俺を絶望からすくい上げてくれた」と成清と小太郎・小菊と天音の祖父との関係を語る。P.230-231

 


田村一二『忘れられた子等』情報

2025年01月08日 15時47分08秒 | 田村一二

一碧文庫の辻さんから、田村一二の『忘れられた子等』の書誌情報がきた。初版は、確か、教育図書だったと思う。

「忘れられた子等」の再版について

大雅堂からは第6版までで、第6版は昭和20年9月20日の発行です。

先日送付した「石山学園日誌」の抜書きで、昭和20年7月19日に「前二著3000づつ増版」の記述があり、前二著とは「忘れられた子等」と「石に咲く花」のことになるので、この時点で第6版発行は決まっていて、増版であることからおそらく「改訂」はされていないと思われます。

時期的に終戦直後といっても直後すぎますしね。

それで、その後の出版はというと、東京の出版社になりますが「冬芽書房」というところから昭和24年5月に発行のものがあります。これが大雅堂以降では直近になると思います。

一碧文庫には所蔵がありません。

ただ、国会図書館のデジタルコレクションでは全編公開されています。

 

書誌情報は以下のとおりです。

永続的識別子:info:ndljp/pid/1158995

タイトル:忘れられた子等

著者:田村一二 

出版者:冬芽書房

出版年月日1949

請求記号:a377-19

書誌ID000000854436

識別子(DOI10.11501/1158995


オン・ザ・ロード(金大中)

2024年12月25日 18時34分46秒 | 映画

京都シネマで、「ON THE ROAD-不屈の男、金大中」をみた。戦後韓国の歴史を、金大中の姿に焦点をあてて描いている。日本で拉致された金大中事件などは、同時代史でもある。特に、1980年の光州事件のところ。ぼくたちにとっては、大学から大学院の時代なので、つい最近のように感じる。映像は、韓国の学生たちの抵抗の姿を描いているが、僕達の学生・院生時代とは比べものにならないほど、熱く、激しいものだった。今年、2024年12月3日、韓国ユン政権が戒厳令を出して、光州事件を思い起こさせたこともあり、今日的な問題関心で振り返ることが出来る。この映画は、全斗煥政権へ挑む金大中の姿で終わっている。


「ならやま」(2024年秋)

2024年12月17日 15時12分07秒 | その他

奈良教育大学広報誌「ならやま」(2024年秋)が送られてきた。はじめの卒業生と学長の懇談の記事の中の学長はけったくそわるいが、「出会いのある世展」と「ひまわりの会」がそれぞれ1ページ使って紹介されていたのはよかった。「で・あい」には、山口さんも入った写真が、「ひまわり」には、藤本さんが入った写真があって、学生さんたちとともに活動したり、学生さんたちの学びの源泉になっていることがわかる。その他、教員研修コンテンツの中に「鉄オタ」が紹介されていた。特別支援の学生さんたち、教員のみなさん、がんばってるやん! 力づけられた!


「おまけ」の漢字で、びっくり!

2024年12月03日 23時23分23秒 | 

お菓子について、この頃考えている!

味がわからなくなったので、一時、食べ物の番組をみるのも嫌になっていた。もう2年もすると、開き直ってきた。それで、お菓子や料理の味はわからないが、それを別の味わい方をしはじめた。お菓子、特に和菓子の由来などを発見して、おもしろく話をするということ。だいたい、奈良にいたときには、饅頭の神様をまつった、近鉄奈良駅近くの「漢國神社」の宮司さんのところに伺って話をきいたこともあった(この方、奈良学芸大学の時代の附属小学校か中学校の国語の先生だった)。身近に「饅頭」のおいしい話が落ちていたことを思い起こしていた。

辻ミチ子『京の和菓子』(中公新書)を読んでいたら、「おまけ」に「お負け」に漢字が充てられていた。調べてみたら次のようなことが書いてあった。

おまけは漢字にすると「御負け」です。由来はこの漢字の文字通り、商人が客との駆け引きに負けて値を下げる行為を指す言葉でした。しかし、のちに商品以外の物品を追加する行為なども言うようにななりました。おまけの言葉がが全国的に使用される様になった時期は明確には分かっていないですが、 大正時代に大阪で上方の商人が宣伝文句に「もうひとつおまけ、トコトンアメ」という言葉が使用されていました。1922年(大正11年)のグリコキャラメル発売のころに絵カードを入れ、それをヒントに1927年(昭2年)の発売のものから紙メンコ、指輪など市販の豆玩具が「おまけ」としてグリコのキャラメルに付いてくるようになりました。こうして上方の商人で使われていた言葉が、グリコのキャラメルの知名度とともに、全国に広がったと言われてもいます。

ううんと、うなった次第!

 


母と子の絆-カネミ油症の真実

2024年11月15日 18時35分37秒 | 映画
京都シネマで、『母と子の絆-カネミ油症の真実』をみた。障害や公害関連の映画は、仕事の一環として無理をしても見にいっている。11月8日から24日までの限定だったので、見逃すと見れなくなってしまうと思ったのだ。森永ヒ素ミルク中毒事件や水俣病については学ぶ機会があったが、この「カネミ油症」については知らないことが多かった。1968年前後は、「夜明け前の子どもたち」などの映画が撮影、上映されていた時期でもあり、障害の発生やそれに対する社会的対応について学んできたつもりだった。この映画をみて、自身の無知を知らされた。
「カネミ油症」は、1968年、西日本一体で起こった食中毒事件である。福岡県北九州市の米の倉庫業社で食用油の製造を手がけたカネミ倉庫社が製造した「カネミライスオイル」に、PCBやダイオキシンの一種が混入され、それを摂取した人たちが健康被害を受けた事件である。しかし、これは、製造したカネミ倉庫会社のみならず、初期対応を誤った国・厚生省、九州大学の医者・研究者の行った認定作業の問題、裁判を行っていく最終盤での訴訟弁護団の対応など、あまりにもと感じざるを得ない。国の無策と不条理な仕打ち、幾重にも積み重なった問題の前に、カネミ油症の被害者は、国からも、社会からも見捨てられ、深い傷をおった。
カネミ油を摂取した人たちのみならず、真っ黒で生まれて来た子どもたち、心臓疾患や障害を持って生まれてきた子どもたちなど、その子どもや孫の世代にまで被害は広がっていた。被害者やその子どもたちは、カネミ油症の継続した影響から、結婚が許されなかったり、直接的に差別されたりしてきた。その結果、被害者であることに口をすることもはばかられるという事態にも到っていた。今なおカネミ油症の影響は消えず、認定の枠組みをめぐって、国の責任が問われている。
この映画では、九州、特に長崎の五島を中心に被害にあった方々の証言を取り上げていた。母胎から胎盤を通して胎児にダイオキシン類の物質が移行したことを、胎児のうちにこの影響を受けたと思われる子ども、障害をもって生まれた子どもたちは身を以て示していた。それを認定しようとしない国などの姿勢が指摘され、その影響を「臍の緒」の分析によって明らかにしようとする取り組みが紹介され、健康被害の認定について問題提起がなされている。

森脇勤作品展

2024年10月24日 16時30分57秒 | 日記

森脇先生の個展に行った。「水のうつろい」がテーマ。2024年10月22日から27日まで 

文化博物館近くのギャラリー吉象堂にて。林さんと一緒に伺った。養正のサテライトでスキャンの仕事をしてから10年はたっていないという。8年くらい前か。

森脇先生は、1952年生まれ。72歳か! 昨年、体調を崩していたという。久しぶりに会ったが、ずいぶんおやせになった。やせて、杖をついている。太って、杖をついているわたしと対照的である。膵臓と前立腺に癌が見つかって、抗がん剤を投与して、一次は髪の毛も抜けたという。まだ、教育委員会の高校の担当の咳があるという、東山の委員になってもいるとのこと。この秋に、叙勲をうけるという。大きな学校の校長ではなく、白川というちいさな学校の校長なのだが、職業科をつうり発展させ、東山、鳴滝と職業科の後頭部の総合支援学校をつくってきた人たち全員への励ましとして貰うこととしたとおっしゃっていた。

いろいろお話しした。家を整理していたら、写真が一杯出てきたとのこと。森脇功先生の時代のもの。仁和小学校などで写真のようである。学校歴史博物館などとも連携して、スキャンしてデータを保存しておきたい。