不思議なことがおこるのだなっと実感した1日だった。
戦争孤児たちの戦後史研究会が立命館宇治高等学校でひらかれたが、その主催者の一人である本庄豊さんにその研究会に「こい」と呼び出されたことが発端だった(この研究会とそれに参加した感想は別に書く)。そこに参加していたのが、沖縄・名護市の市史編纂をしている川満彰さんだった。自己紹介を聞いていると、『陸軍中野学校と沖縄戦』の著者だということがわかった。映画「沖縄スパイ戦史」にも登場して話をされているが、その当の本人だった。著書の『陸軍中野学校と沖縄戦』は、ざっと読んで、斉藤義夫について、その戦後史を考えていた。
斉藤義夫は、陸軍中野学校から、沖縄に派遣され、情報部に配属の後、宮城太郎と名乗って伊平屋島に教員としてはいりこみ住民を監視したり、子どもや青年の組織化をしたということだった。戦後は、東京学芸大学の特殊教育講座の開設に関与・所属し、一時は、琉球大学の教員にもなり。「沖縄は第二のふるさとだ」と挨拶したとのことを知った。清水貞夫先生(元宮城教育大学)からは、「戦後特殊教育の裏の顔があった」ことを知っていてほしいとして、この斉藤のことを聞かされたし、菅田洋一郎先生(元京都教育大学)からは、語学が堪能でロシア語を教わったこと、比較的静かな人との印象をきいていた。その戦後史が気になっていたし、このブログにも書いてきた。川満さんと直接会って、そのことを尋ねた。著書には次のように書いてあり、おおよそ同じようなことをおっしゃられていた。
「斉藤義夫は、伊平屋島のとなりにある野甫島で教員としてそのまま残っていたが一九四六年二月、学校に突然米兵がやってきて逮捕されたという。斉藤義夫が住民虐殺にどこまで関与していたのかは不明であるが、その虐殺事件を重々知っていたことは容易に想定できる。/戦後、斉藤は琉球大学の教員として一時沖縄で暮らしている。その時彼は、沖縄戦研究者に伊是名島で起きた虐殺事件を問われても語ろうとしなかったという。」
つけくわえて、斉藤は伊平屋島の青年達が東京に出てくるといろいろと世話をしたり、就職の面倒を見たりしていたという。伊平屋の人からは、ある意味で慕われることになったと伺った。米軍に捕まった後、どのようにして、大学という場に席を確保したのだろうか? ある意味、先をみる目にたけており、語学の堪能なことで、戦後史を生き抜いてきたのだろう。それでも、沖縄戦のことは誰にも言わず、しかし、贖罪の気持ちは心にくすぶり続けていたのだろうし、それが琉球大学への着任につながるのかもしれない。しかし、そこでも、沖縄戦について影を落とす。沖縄戦については、安仁屋さんに単刀直入にきかれたという。しかし、斉藤はこたえなかった。
川満さんに『島の風景』という本を紹介していただいたので、早速購入した。次のような本のデータベースでの紹介や内容の紹介としてあった。
当時、少年であったにしても、著者は人一倍、慚愧の念と、悔悟すべき重い荷を背負っているのである。著者は兵卒のひとりと同じ家で寝食をともにしていたのである。そして、虐殺現場をつぶさにこの眼で見、話すのを耳にする機会を得ていたのである。それにもかかわらず、著者はそれらのことを見たり、聞いたりしても、敵の捕虜や売国奴と断定された国民の弑逆を止むを得ないものとして、特別な感傷や感慨を持たなかった。その著者の半世紀を超える以前の過去の出来事を、なるべく正確な記憶で再現し、時間の経過にそって書かれたのが本書である。虚しい栄光と幻想に酔い、虚構の大義にうつつを抜かした灰色の日々の記憶である本書の執筆は、自分自身をも告発したいという思いもあってのことであった。
1944年10月、那覇大空襲の後、沖縄本島と伊是名島を結ぶ連絡船は大破し、島は孤島となった。終戦直後、弧絶した島で起きた悲劇を、当時少年だった著者が克明に綴った、もうひとつの沖縄戦。