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ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

幼稚園「囲む会」

2011年09月30日 18時43分43秒 | 日記
幼稚園にいく。
担任の病休の件で、事務にはしってもらい、手当をする。
おはようたいそうをして、10時から園長と話す会。汗がだらだら出る。
いろいろおしゃべりをする。

西山先生にメールをかく。
その後、3回生の実習生との食事会。
赤沢先生もおられて、もうすぐ奥さんが出産とのこと。柴本先生ももうすぐ出産とのこと。めでたいことがたくさんある。

帰ってから、生協にいって、プロジェクターの件をはなし、特別支援教育研究をもらう。
2時から、特別専攻科の2名の修了論文の指導。
いろいろ指示するが、おおくは僕のぼやきでした。

低気圧が来ていて、雨なので、調子が悪い。
胸が痛かったり、横っ腹が痛い感じがする。
血圧が上がっているようだ。

頭に来る

2011年09月29日 15時49分49秒 | 日記
朝、幼稚園に行く。なる君は、ついたての裏にかくれてはいるが調子良さそう。
産前の先生が、ドクターストップにかかったようで、事務局にいき、その対応をする。
学長と懇談となるが、中学校の管理職の発言で腹が立ち、ついなんどか怒ってしまう。
小学校にいき、副校長と今後の方向について、協議。
幼稚園に行き、産休代替えの手だてをする。
胃が痛い。

目が充血している。

研究保育

2011年09月28日 20時36分49秒 | 日記
朝、幼稚園に行ったら、研究保育だった。
赤組さんの研究保育。桃と黄組はやすみ。
結局、1時近くまで、幼稚園にいないといけないことになった。
明日は、黄組の研究保育だが、附属学校部と学長の懇談会があるので、9時頃にいって、10時前に学長室にいくことになる。

2時過ぎに、食事。
その後、雑務をしてから、廣兼医院に行く。
家具屋の駐車場に車をおいたら見つかってしまったので、しかたなく、いすをみに入る。
7時過ぎに、診察をうける。ちょっとホットフラッシュ。
目の下に疲れがたまっているようである。
胃が痛い。

火曜日 大野さんと会う

2011年09月28日 08時02分29秒 | 日記
朝、疲れていて、ずいぶん寝てしまった。おきたら、10時を過ぎていた。
家でごろごろして、12時頃に京都にいく。アバンティで食事をとり、1時に大野さんと会う。
大野さんからは、夜明け前の子どもたちの際に録音した音のデータを加工してもらったDVDをいただく。
いくつか、夜明け前の子どもたちに関しては、聞いたので、記録をしておくこともある。柳沢監督がつけた「夜明け前の子どもたち」は、奥さんの岩波映画「夜明けの国」に対抗して命名されたのではとか。あざみ寮の映画がクランクインしたとか…。
保育元年と続保育元年のDVDをもっていくこと。

電車の中で、与謝の海の設立に関する教育行政と親の会・教師との交渉を聞く。仮開校を巡る激しいやりとり。「教育委員会を再度ひらいて、再検討しろ」と、はげしくつめよっている。

大学に向かい、研究室で作業。中学校の失礼な校正依頼には腹が立つ。
5時から、委員会。6時頃まで。
おわったあと、生田さんと入試室の件で話をする。
中学校長がいろいろいうので、いやになる。

家で、シャワーを浴びて、整体にいく。少しはよくなっているように感じるのだが、肩と背中が問題だと言われる。

高橋竹山の津軽三味線-荒涼とした大地に立って

2011年09月27日 10時46分57秒 | 映画
青森で日本特殊教育学会に参加してきた。太宰の通った旧制弘前高校が母体となった弘前大学で開催されたものだった。そこで、高橋竹山についての講演を聞いた。東京にて人間の弱さを赤裸々に文学とした太宰の生き方とは対比的な、生き方をみる思いがした。太宰の書いた「津軽」も読んでみたいし、新籐兼人の「竹山ひとり旅」もみてみたいと思った。帰ってきて、kさんと話しながら、竹山について次のような文章を一緒につくった。
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2010年は、津軽三味線とともに力強く生きた高橋竹山の生誕100年に当たる年だった。盲者一人、荒涼とした津軽の吹雪の中を、三味線を弾いて糊口をしのぐ日々の風景は、今回の三陸をおそった津波の果ての荒涼とした廃墟にたたずむ姿とかさなるものがある。
ニューヨークや渋谷ジャンジャンをはじめとするコンサートでの高橋竹山の弾く三味線のはげしく優しい音は、若者たちの心を揺さぶり、三味線のイメージ大きく変えた。しかし、その人生は決して平坦なものではなかった。
竹山がコンサートで「中じょんがら」を弾く前、竹山の語りは一段と高揚するかのようにみえたという。「中じょんがら」は、じょんがら節の中説を独奏用に竹山が編曲したもの。中節そのものは七年から十年ころにかけて、旧節から変化していった歌で、旧節に比べてリズムが骨太で明快になり、力強い中に深い哀愁がこもっていた。竹山の演奏は、自身のやりきれない怒りが相まって、強烈に聴衆の心を揺さぶる迫力があった。この曲を弾いて門付けをして歩いた昭和十年前後は、世の中が戦争一色となり、「おめえ、何が面白くて三味線弾いているんだ。ばがだもんだ」と、徹底的にいじめられた思いが鮮烈に焼きついているからだ。彼の弾く三味線から、目が見えないことで差別されてきた数々のくやしさ、戦争中の苦しみが音を超えて、伝わってくるのである。
竹山はよく語っていた。「何が苦しいたって戦争の時ほど苦しい時はなかった。門付けは仕事だし苦しいと思ったことはない。貧乏でも何とでもない。物が買えないだけで我慢すればいいんだから。戦争は人間を狂わせてしまう。兵隊は偉くて、年寄りや目の見えないものは穀つぶし扱いだった。弱いものをいじめて、ひきょうなもんだ。別におれが戦争してくれって頼んだわけじゃない。腹の中でそう思っていた。巡査や地区の見回りをするような、ちょっとした権力を持った人間にいびられた。三味線もっているだけで『非国民』とののしられ、ぶんなぐられた」
雪深い青森の地に、1910年、2男2の末子として生まれ、麻疹をこじらせ半失明、目のことでいじめられ、小学校も数日でやめてしまう。しかし、三味線と唄に出会ったことで、彼の人生を大きく変えていく。北海道、岩手、秋田、青森と門付けをし、お金がない時は、飴を売ったり、大道芸をして暮らす青年期。貧しさゆえに、一度の離婚を経験したのもこの時期であった。戦争中には三味線の演奏の機会もなく、生活は決して楽ではなかった。ものは配給制で、唄もはやらない。それでも慰問に参加したり、唄会の伴奏をしたりして食いつないでいく。
一度は三味線で食べていくことをあきらめ、33歳にして盲唖学校に入学し寄宿舎で学び、マッサージ師としてやっていく決断をしたこともあった。戦後進駐軍での演奏、民衆や労働者の民謡ブームに乗って、演奏の機会が増えていく。演奏活動はもちろんのこと編曲や「リンゴ節」をはじめとする新民謡の作曲と普及に尽力をした。彼の三味線は野の果てから、きこえてくる彼の生き様であり、大地の叫びとなった。
青年期の高橋竹山の姿は、新藤兼人の「竹山ひとり旅」(1977年、近代映画協会)にも描かれている。「竹山のたくましさは人生のどん底を覗き見たものの強さだった」と新籐は後に書いている。東日本大震災が東北を襲い、1日も早い復興を日本中の人が願っている。竹山の立った東北の大地が持つ力強さ、かれが弾いた大地の声が、人々の魂を揺さぶり、一人ひとりが立ち上がっていくことを願ってやまない。

松林拓司『魂の音色 評伝高橋竹山』(東奥日報社、2000年)

 

大学院生のゼミ

2011年09月26日 22時59分33秒 | 日記
午前中は、疲れたので休む。
近藤が来るということなので、杉本さんに資料室をあけてもらうことをお願いした。
3時前に、大学に行く。研究室の鍵をわすれて、呆然となる。なんとか、あけて仕事をする。
今日までにわたすことにしている、紀要の校正をみると、校正ができておらず、別のフィルとなっているので、怒りが…。校正とはどういうことをするのかをいってなかった私が悪いのか…。大学院を修了した者が、そんなことも知らないとは僕が悪いのか…。
電話とメールで直しを要請。事務局の担当の方に遅れると言うことを連絡…。しかし、原稿をみると、これではいけないとつくづく思う。論文にする値打ちがあるのかと思うが…。
近藤といっしょに、高橋竹山の文章をつくる。なかなかいい文章になったと思う。
しかし、スキャナが上手く動かず。いらだってしまう。
近藤も怒り出すし…、胃も痛くなってくる。ようやく、完ちゃんに原稿をおくる。

疲れが取れずにいるものの、
6時半から大学院生のゼミ。9時半まで。
夜間の2人と1回生の1名の検討。
まだまだだけれど、いまやっておかないと歴史が残らないので、がんばってもらいたい。しかし、奈良はどうも中途半端なところがあり、位置づけが問題となり、研究的な意義を見いだしにくい。
佐竹のものはどうも面白くない。分かっているのかわかっていないのかわからない。

角光さんに、スライドのスキャンをしてもらうよう手だてする。
星さんにおくってもらって、帰る。与謝の海の聞き取りの話をする。
みなさん、弱ってきているので、いまやっておかなければという話になった。
そればかりやりたい!

帰ったら、11時過ぎていた。



学会

2011年09月25日 23時55分25秒 | 日記
朝、朝食をとってから、口頭発表のメモをつくる。
高橋竹山の本をかう。
口頭発表、前半座長。
発表。
昼、障害児教育センター協議会会議。

2時40分頃に、弘前を発つ。
新幹線の中で、テープを聴く。
・したきりすずめの児童劇・西郷竹彦のごんぎつね(同化と異化)
・第2回与謝の海養護学校の実践報告会(1981年か)。清水寛さんと荒木穂積さんが研究者として感想をいっている。荒木さんも、卒論は与謝の海で書いているし、その後、発達診断もしていたので、与謝の海への思い入れも多くあるのだと改めて思った。
・全障研の第2回大会の分科会報告などあり。長嶋さんが、議長で紛糾しているところもあり。近江学園の移転問題。
など。

10時半に帰る。
胃が痛い。


特殊教育学会シンポ

2011年09月24日 20時33分17秒 | 日記
よく眠れなかったが、朝、朝食をとり、歩いて弘前大学にいく。
受付のとことろで荒木さん夫妻にあったので、吉田さんから依頼されていると思いますが、資料のけんよろしくおねがいしますといっておいた。「ごくろうさん」ということだった。「ごくろうさん」か…。
本をわすれたので、本を買いに行くが、ない。障害者権利条約の本はないのか…、本屋には、ハウツーものと教材だらけになっている。世の中の流れかな…。
つまらんので、高橋竹山に関する講演会にいく。高橋が、戦争の中で三味線を弾くと、いろいろいわれて、三味線を弾くのをやめ、盲学校にはいって、鍼灸をまなぶとこととなったという。高橋は、ある曲をひくときは、いつうも戦争のことを思ったとのことだった。
講演会では、郷間先生にあう。出たら、白石夫妻にあったので、「夜明け前の子どもたち」の台本をお願いした。白石君が送ってくれると言うことだった…。
山崎さんと京都盲学校の岸さんとひきあわせて、いちど、京都で研究会をしようというはなしをした。
片岡さんにあったので、いっしょにそばを食いに行く。いろいろはなしをするが、旅行はいろんなとことにいっているようでうらやましい。アウシュビッツ、ハワイ、今度はニューヨークからランドマークカレッジ、オーストラリアなどなど。世界に羽ばたいているという印象。
大学で、シンポの準備。郷間先生にあったので、京都教育大学・京都府立資料館との連携について話をしておいた。
4時半からシンポ。中教審の特別支援教育のあり方に関する特別委員会の座長、宮崎英憲が主たる報告者、清水貞夫さんは興奮気味、玉村は障害者権利条約のことを少し話す。企画者の渡部昭男さんの発想にはついて行けない。清水先生にはいろいろしかられる。最終的には開き直ってしまったが、いろいろ勉強になった。
一人で帰りがけに、居酒屋によって、ビールをのんで、いろいろ食べるた、一人はつまらん。

胃が痛いのは、ストレスかな…。

弘前に来ている

2011年09月23日 19時56分58秒 | 日記
朝、びわこ学園へ領収書を郵送。
11時過ぎの京都発にのって、6時過ぎに、弘前に着いた。
新幹線の中で、青木先生のテープを聴きつつ、デジタル化をする。
1つは、1972年の日本教育学会の課題研究の発表。青木先生が実戦と運動の立場からの提起をおこなったものと池上惇先生の障害児行財政の分析(与謝の海の設置に関わる財政支出の分析もおこなっているようだ)。討論は別のテープで以前に聴いている。
2つめは、1982年頃の与謝の海養護学校の定例研での斉藤浩志(神戸大学)の、教育運動・教育労働・教育行政・教育実践などのカテゴリーの整理と関連について。この時期、青木先生は、与謝の海をはなれていて、しかも、このころから、与謝の海の「実践・研究・運動」という紀要に対して、「運動をとれ」といった攻撃がなされていたことに対しする対応の中での学習ではないかと思う。1985年頃には、「発達」という言葉狩りがあんされていくことを思い浮かべる。東京教研のとき、今は亡き荻野先生が「発達」の言葉狩りについて、全体会で発言し、それを清水寛先生がとりあげて発言されたことを覚えている。
もうひとつは、わけのわからないもの。「中央研修 漢詩朗読」というもの。聴いてみると、詩吟みたいなことがあって、その注釈をいい、また漢詩を朗読するというもの。わけがわからなかったので、データにしなかった。

比較的長く、新幹線にのっているので、ききながらデータ化の作業もできる。

弘前で、ビジネスホテルにチェックインして、食事に行こうとすると。
別府君がいた。白石君をはじめ、いろんなひとが、民謡酒場に行っているよとのこと…。どうでもいいので、じゃあということで、一人でラーメンを食べて、ホテルに戻る。

木曜日:幼稚園遠足

2011年09月23日 19時43分44秒 | 日記
台風がいったというのに、雨。
朝から、副園長から電話があり、雨なら、昆虫館ということに。
奈良南部は、警報がでているが、まあ、大丈夫だろうということにして、ダッシュで大学へ行く。大学正門で、幼稚園の子達をまつ。バスも来る。交通整理をしている、おじさんである。先生達がきて、昆虫館だということに…。
2号車で、子どもたちに「小学校いかんと、幼稚園にもう1年にいてほしい」とかなんとか話をして、面白かった。
昆虫館では、黄組さんにつきそって、後尾を守る。蝶の部屋やゴキブリのことろなど、視るところは余り多くはないが、まあ、午前中くらいならなんとかもつ。昼は、屋根の下で、昼食をとり、帰る。1時過ぎに大学に到着。そこから、桃組さんをつれて、幼稚園に帰る。あっけなく終わる。

2時過ぎに、研究室にもどり、メールのチェック。
星さんがきていたので、青木先生の追悼文集の件をおねがいする。「未来をひらく障害児教育」のなかの、青木先生の持っていたノートのことについて、話をして、山本民子さんのノートの意義を話す。

指定討論の発言要旨をつくる。いろんなもののプリントアウトをする。結局、中身は視れないので、もっていって、弘前でみることになる。結局、帰ったら7時過ぎていた。
弘前行きの準備もせずに、ばかなテレビをみていた。
疲れているので、笑うのが一番。

台風で休園

2011年09月21日 21時33分01秒 | 日記
台風がきたので、学校は休校になった。
すこしゆっくりしていると、幼稚園から、休園になったので職員会議を午前からするということをいってきた。
ダッシュで大学に行って、持続発展教育センターの中澤先生をつれて、職員会議へ。10時半から。
ユネスコスクールのことなどをはなしてもらって、職員会議は12時過ぎまで。
研究室でいろいろ作業をして、1時半から教育研究評議会。4時過ぎまで。
4時から、学長と附属校園の来年度の人事希望について相談。
5時前に帰って、蒲田さんと会い、発達相談の記録をわたし、子どもについて話す。
息苦しい子どもと親の話をきく。
6時に終わり、非常勤講師の要求書をつくり、事務や関係の方々に送る。
びわこ学園からいただいた研究費の領収書をつくる。

台風の爪痕が痛々しい。
明日は、幼稚園の遠足。遅れないようにいかなければ。





雨が気になる

2011年09月20日 23時49分03秒 | 日記
朝、会議に行く途中でトイレに行きたくなったので、吉野家にたちよる。
トイレをすませ、牛丼をたべる。
10時から、ITインクルージョンセンターの運営委員会にいく。就労支援プログラムの検討。12時過ぎまで。紀要の校正の件もあり、出席しているが、もうそろそろ潮時か。
電話があって、2時に会う予定となっていた平尾君は、台風の関係で、会議があり、会えなくなったとのこと。近江学園のフィルムの件でドイツへの手紙を書いてもらうことをお願いしたいと話しておいた。
午後から、大学に行って、発達診断の報告書を書く。その間、カセットのデータ化をする。一つは住井すゑの丹後での講演。これは面白かった。あと二つのカセットは、オンが気宇が派雄言っていた、テノールだとか、青木先生はなにをしていたのか分からない。
しかし、途中で、中学校の合唱コンクールの模様も録音されていたのは、中学校の校長時代のものか??
「福祉の時代」のDVDをつくる。
6時半から、中学校の谷口さんと井村さんがきて、校長の件を中心として大学の話をする。中学校の人事も大変そうだが…。みんなばらばらになっているようなところが危惧するされる。

台風が来ている。
雨が気になる。赤谷の土砂ダムが決壊しないか…。

4回生卒論検討

2011年09月20日 00時05分56秒 | 日記
卒論ゼミ合宿が、台風による土砂ダムによって赤谷にある自然環境教育センターがつかえなくなったので中止となり、半日の予定でゼミをすることとなった。
1時から6時まで、6人の到達点を検討。我が3人は、Team No planということで、まだまだぼやけている。
6時以降、学生さんたちがたこ焼きをつくりはじめたので、それをあてに、ビールやワインをのんで、しっかり酔っぱらってしまった。
ちょっとやけになっているのかもしれない。

夜から雨。土砂ダムの決壊の警報が出ている。
十津川高校へ行ったやんちゃ運は大丈夫か?

霧の団六『あほやけど、ノリオ』(中央法規、2004年)

2011年09月18日 22時10分40秒 | 
霧の団六『あほやけど、ノリオ』(中央法規、2004年)を読んだ。
著者は、1958年生まれで、神戸大学教育学部に在籍した落語家。2歳上の兄が、ダウン症。兄のノリオは、1956年生まれで、同年生まれ。
同じ時代を生きてきたともいえるが、同時代史ということかもしれない。
ノリオの就学をめぐって、次のような文章があった。
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幼稚園に行かない子はたくさんいたので、ノリオもそのうちの一人、で、すんでいた。
問題は小学校である。義務教育である。ここで間違ってはいけないのは、国がすべての子どもに、ぐむ、として、教育を受けさせる、のではなく、もし、そうなれば、私立小学校の教育内容に制限が加えられる可能性がある。だから、のではなく、国民がすべての、自分の子どもに責任をもって、義務、として、教育を受けさせなさい、と、いうことなのである。
親は小学校に面接に行った。
「無理ですね」
居住区内にある、特殊学級、養護学校。
「家で大事にしてあげてください」「もう、しとるがな」
遠いところにある、幼児の通園施設。
「心臓が悪い子は預かれない、何かあったら困るから」
これでは、国民の義務を果たせない。
どないせいっちゅうねん、と、区役所へ行くと、「就学猶予願い」を出すように勧められた。
「別に、願うてへんがな、何でやねん」
と、情けなく、忸怩たる思いで、願ってもない、「願い」を書かされた。
これで、教育委員会としては、拒否したわけではなく、向こうから願ってきたのだから、と、大義名分も立つ。
やがて、就学猶予の通知が来た。あんたは、大変だから、家でゆっくり養生してください、と、いうようなことが書いてあるらしい。
母は、感じのyめないわたしに、「あほは学校にくるな、やて」とわかりやすく教えてくれた。

いろいろな経過で、このノリオ君。三田谷治療教育院内に設置されていた私立小学校(「翠が丘小学校」だったか???)に、2年遅れで学校に行けることになった。その後、6年の時に、神戸に市立の養護学校ができて、そこにいくことになった。
三田谷治療教育院には、大学院生の時に、史料の整理にいったことがあったので、そのときの記憶がよみがえってきた。

しかし、阪神大震災を経て、50も過ぎるころからのノリオの姿はいろいろ考えさせられる。

目次
はじめに
第1章 兄貴はダウン症
第2章 兄弟は「こんなもんだ」と思う
第3章 落語家への道
第4章 兄貴との「普通の関係」
第5章 こんなやつ、おってもええ
おわりに

1日休む

2011年09月18日 09時28分35秒 | 日記
嫁さんが、学会に行ったので、1日休む。
午前中は、ごろごろねる。
午後から、なにをやったか記憶にない。

雨がきになる。ニュースをみて、赤谷の航空写真がでるが、そのつどため息が

TSUTAYAに行って、本をかい、新作DVDをみる(英国王のスピーチ、ブラックスワン、フェイスブックなど)。
人間発達研究所の通信が来たので見る。山田さんが仏教大学にいったようだ。

娘たちと食事に出る。
王将。安上がり、明日のカレーの準備をする。