「かしこくなりたい」という願い-『アルジャーノンに花束を』
ダニエル・キースの『アルジャーノンに花束を』が人気を得たのは、90年代に入ってからのことだ。1989年に『アルジャーノンに花束を』の改訂新版が早川書房から出され、その装丁もよかったのか、現在でも順調な売れ行きとなった。『アルジャーノンに花束を』の改訂版の発行の後、ダニエルキースの『25人のビリーガン』『9番目のマリー』など、多重人格ものが翻訳出版されたことも『アルジャーノンに花束を』の人気を支えるものとなった。
『アルジャーノンに花束を』の着想は、キースが高等学校の英語の教師(日本でいえば国語の教師)だった頃に遡るという。高等学校の教師の時に精神遅滞の生徒と出会い、そしてその生徒から「かしこくなりたい」という心からの言葉を聞いたことが契機となっていたということである。
ところで、『アルジャーノンに花束を』は、推理ものとしてはひとつの冒険であった。精神遅滞の人への投薬実験が、その精神遅滞の主人公の「経過報告」という日記形式で綴られてゆくという形式そのものがチェレンジなのである。そこでは「経過報告」に綴られたる認識の変化を提示して見せたのである。
主人公のチャーリーは、文を綴ることができる。しかし、その文は事実を記しているだけで、時間的系列に即して事柄が並べられるだけだ。物事や事柄の意味は霧がかかっているようで、本人にとっては物事の本質はわからない。とにかく事実が記されているのだ。 当然のことながら、その文は様々な誤りがある。単語の綴りなどはひどいものである。“progris riport(progress report)”と‘e’が‘i’になり、“write”が“rite”になる。話しことばがそのまま綴りに反映している。そこでは、被験者の主人公チャーリーの気持ちが、共に実験に使用されるネズミへの思いを通して、わが身の行方と重ね合わせられ、そして夜明けのようにその文体が明瞭に変化し、そして黄昏のように再度変化していくなかにほの見えてくる。日本語版の翻訳でも、「経過報告」が「けえかほうこく」となり、「わたしは…」が「わたしわ…」となる。翻訳者は、頭を絞りあげてこの翻訳にあたったのであろう。頭が下がる思いだ。その翻訳者が、作者ダニエル・キースと対談して、その翻訳の苦労話をあかしているが、翻訳にあたって読み通したのは山下清の放浪日記(『裸の大将放浪記』)であったという。
一時は効果をあげたと思われた実験が不成功に終わる結末の哀しさは何を意味するのであろうか。人偽的な操作のむなしさとでも言うべきであろうか。それが、本来主体者というべき主人公の側の意識から捉えられている点に、ダニエルキースのヒューマニズムがある。
ところで、『アルジャーノンに花束を』を突き放して読んでみると、実際は様々な点で飛躍や矛盾があることがわかる。人間の知的な発達を考えてみよう。脳が活性化されたからといって、それだけで知的な活動が可能ということにはならない。概念の形成には、教育と学習が必要であり、しかも、それが血となり肉となるには多様な経験が必要なのである。『アルジャーノンに花束を』にはそこが欠落している。今日では脳科学が盛んである。しかし、それまでの生育史上の空白はそれによって埋められるのであろうか。「脳の活性化」をする薬やトレーニングの魅力は、今日の科学の到達状況を反映してすてがたいものがあるようだ。しかし、胃腸をきたえると同じアナロジーで、教育や生活に持ち込まれているとしたら違和感を感じざるを得ない。障害のあるなしにかかわらず人間はそもそも社会的存在なのであるという観点からの問題提起は本質をついたものではないだろうか
ダニエル・キースの『アルジャーノンに花束を』が人気を得たのは、90年代に入ってからのことだ。1989年に『アルジャーノンに花束を』の改訂新版が早川書房から出され、その装丁もよかったのか、現在でも順調な売れ行きとなった。『アルジャーノンに花束を』の改訂版の発行の後、ダニエルキースの『25人のビリーガン』『9番目のマリー』など、多重人格ものが翻訳出版されたことも『アルジャーノンに花束を』の人気を支えるものとなった。
『アルジャーノンに花束を』の着想は、キースが高等学校の英語の教師(日本でいえば国語の教師)だった頃に遡るという。高等学校の教師の時に精神遅滞の生徒と出会い、そしてその生徒から「かしこくなりたい」という心からの言葉を聞いたことが契機となっていたということである。
ところで、『アルジャーノンに花束を』は、推理ものとしてはひとつの冒険であった。精神遅滞の人への投薬実験が、その精神遅滞の主人公の「経過報告」という日記形式で綴られてゆくという形式そのものがチェレンジなのである。そこでは「経過報告」に綴られたる認識の変化を提示して見せたのである。
主人公のチャーリーは、文を綴ることができる。しかし、その文は事実を記しているだけで、時間的系列に即して事柄が並べられるだけだ。物事や事柄の意味は霧がかかっているようで、本人にとっては物事の本質はわからない。とにかく事実が記されているのだ。 当然のことながら、その文は様々な誤りがある。単語の綴りなどはひどいものである。“progris riport(progress report)”と‘e’が‘i’になり、“write”が“rite”になる。話しことばがそのまま綴りに反映している。そこでは、被験者の主人公チャーリーの気持ちが、共に実験に使用されるネズミへの思いを通して、わが身の行方と重ね合わせられ、そして夜明けのようにその文体が明瞭に変化し、そして黄昏のように再度変化していくなかにほの見えてくる。日本語版の翻訳でも、「経過報告」が「けえかほうこく」となり、「わたしは…」が「わたしわ…」となる。翻訳者は、頭を絞りあげてこの翻訳にあたったのであろう。頭が下がる思いだ。その翻訳者が、作者ダニエル・キースと対談して、その翻訳の苦労話をあかしているが、翻訳にあたって読み通したのは山下清の放浪日記(『裸の大将放浪記』)であったという。
一時は効果をあげたと思われた実験が不成功に終わる結末の哀しさは何を意味するのであろうか。人偽的な操作のむなしさとでも言うべきであろうか。それが、本来主体者というべき主人公の側の意識から捉えられている点に、ダニエルキースのヒューマニズムがある。
ところで、『アルジャーノンに花束を』を突き放して読んでみると、実際は様々な点で飛躍や矛盾があることがわかる。人間の知的な発達を考えてみよう。脳が活性化されたからといって、それだけで知的な活動が可能ということにはならない。概念の形成には、教育と学習が必要であり、しかも、それが血となり肉となるには多様な経験が必要なのである。『アルジャーノンに花束を』にはそこが欠落している。今日では脳科学が盛んである。しかし、それまでの生育史上の空白はそれによって埋められるのであろうか。「脳の活性化」をする薬やトレーニングの魅力は、今日の科学の到達状況を反映してすてがたいものがあるようだ。しかし、胃腸をきたえると同じアナロジーで、教育や生活に持ち込まれているとしたら違和感を感じざるを得ない。障害のあるなしにかかわらず人間はそもそも社会的存在なのであるという観点からの問題提起は本質をついたものではないだろうか