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ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

いもほり

2011年10月31日 23時44分26秒 | 日記
幼稚園のいもほりにいく。9時から11時に実習園に引率。
スコップで、ほる。「園長先生ー、手伝って」の声多し。
上野先生も手伝いに来てくれるが、子どもの誘導がうまい!

研究室にかえってくると、杉本さんと山口さんがいる。「ぐるんぱ」をやってくれたようだ。
笑顔展のチラシをもって、「こっから」にいき、「子育て支援」の話を古木さんとはなす。ついでに、仔鹿園とでぃあ~にいって、チラシとポスターを持ってご挨拶。
仔鹿園の岡本園長とはなしをするが、職員の二次募集はあるかもとのこと・・・職員募集は終わってはいるが・・・。

うどん屋で昼食。

帰ると、酒井さんが来ていた。
近藤が来たので、近藤に鬱憤をぶつける。
近藤にコピーをしてもらったり、コーヒーをのんだりしながら、自己評価表を書く。
おわると、5時半になる。

6時から、5組に行って。人事の方向を議論。
なかなか難しい。

大学に行く

2011年10月30日 23時15分17秒 | 日記
下の娘が、模試だったので、送りがてら、大学に行く。
喫茶で食事をしてからいく。ようやく、WiMxの設定ができた。
早く繋がるのですごいすごい。
「はなれごぜおりん」を中心に話をかく。すこししかかかなかったが、おりんの服装にその心象が投影しているとおもう。
田中先生の手書きの「発達の権利」の入力の状況をチェックしつつ、修正をする。
そうこうしていると時間がきたので、6時過ぎに同志社に…。
電気屋で、インクカートリッジやスピーカーを買うなどいろいろする。
家に帰ってから、「はなれごぜおりん」の画像を探し、一つはスキャンして完ちゃんに送る。

原稿と文書ができていない!

人のつながりとぬくもりへの希求-「はなれ瞽女おりん」

2011年10月30日 22時57分45秒 | 映画
高橋竹山の映画「竹山ひとり旅」と同じ年(1977年)に公開された視覚障害の女性を描いた映画が「はなれ瞽女おりん」である。同じ盲とはいえ、男性と女性の生き方の対比で考えさせられる。
同時に、「おりん」の成長、富山の薬売りにつれられて瞽女の親方に仕込まれ、「座」の中で成長していくところ、男に犯され「座」から「落とされ」」、「はなれ瞽女」として旅する姿、そして、平太郎とともにする旅の中で心穏やかな生活をとりもどすところ、再度、離ればなれ絵になり孤独ではあるが平太郎と会うという目標のある一人旅、しかし、平太郎を失い、荒れて流れていく姿と辿ってみると、旅景色の中でのおりんの心象風景が様々に表現されているところも興味深い。
障害と共に、女性の歴史をも考えさせられる。そして、この原作が、水上勉だということも…。この水上の「重症心身障害児」への無策の指摘をつぎにつなげたい。

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 全盲の高橋竹山は、津軽三味線で大地の響きを奏でたが、盲の女性も瞽女(ごぜ)として、三味線を奏で、歌や語り物をして旅をしていた。なかでも新潟を中心として日本海の荒波と雪の中を門付けして歩く集団があった。その集団からはずれた「はなれ瞽女」の姿を描いたのが、篠田正浩が監督した映画 『はなれ瞽女おりん』(1977年)である。岩下志麻が「おりん」役で主演し、音楽は武満徹が担当した。「はなれ瞽女」とは、異性との交わりを禁ずるという瞽女の戒律を破ったために、「座」から「落とされ」、一人で三味線を弾き門付をしなければならなかった女旅芸人のことをいう。「竹山ひとり旅」と「はなれ瞽女おりん」は、男と女という点も含めて、「陽」と「陰」として対比な存在として示したという評価があるが、しかし、両者は、社会に翻弄される障害者のおかれた深く悲しい姿を描くとともに、同時に人間的なたくましさや人間として大切なものを見せてくれる。
 「はなれ瞽女おりん」-時代は、第一次世界大戦が終わり、ロシア革命への干渉としてシベリア出兵をおこない、軍備と軍隊の強化がなされ、国民生活で米騒動がおこるという戦争と貧困がすすみつつある大正中期。「おりん」は若狭の片田舎に生まれ、三歳で全盲になり、六歳のときに越後・高田の瞽女屋敷に引き取られ芸を仕込まれ成長する。瞽女の集団は「座」を組み、瞽女宿をめざして三味線を弾き、旅でであう村々で瞽女唄といわれる説教節に似た語り物などを唄ってまわる。「おりん」の語りと歌は、ほがらかな明るさを持っている。それがあだとなって、ある村祭りの夜、若い衆に手込めにされ、掟に従い一人で流浪するはなれ瞽女となった。
 もともと「瞽女」とは「盲御前」という敬称に由来することばだといわれている。越前の冬景色の中を盲女一人歩く姿は美しく神秘的ですらある。その一方、酒宴での語りや村人とのやりとりには明るさがある。「おりん」と旅の連れとなる男は、故原田芳雄演ずる岩淵平太郎である。平太郎は、シベリア出兵を拒否した脱走兵であり、下駄職人として行商するなかで、「おりん」を「妹」として大切にしていく。平太郎とおりんの二人旅の生活は、おりんに心の安らぎをもたらし、愛情を育んでいく。しかし、それもつかの間のこと。警察と軍におわれる平太郎、そして離ればなれの末に再開するのだが、二人は警察の手に落ちる。愛する男のためには口も割らない姿は凛々しくもある。
ところで、「おりん」の原作は水上勉の中編小説である。この物語は、水上勉の視覚障害のあった祖母のこと、そして子どもの頃の原体験をもとに編まれたものであった。水上は、全集のあとがきに次のように記している。

「『はなれ警女おりん』は、私の祖母の想い出を、越後高田にのこる警女屋敷の人々に重ねて一篇の物語としたものである。日本海辺に生まれ育った人なら一度は目にしている盲目の女旅芸人をいう。私の祖母も全盲だったし、よく村の阿弥陀堂に来て宿泊してゆく盲目の物貰いの姿は少年時に目撃した。(略)この堂の横に恵林地蔵がある。古老の話だと、りんという盲目の女が三味線をもって堂に来て住まうようになり、村の粗暴な男たちに弄ぱれて子をうんだという。りんはその後、堂を住居にして村の女たちに三味線を教えたが、一日、寒い日に堂内で死亡した。子はその後どこかへ姿を消した。恵林地蔵は、その盲目の母親の霊を村人が弔ったものである。」(『水上勉全集』9、1977年、中央公論新社)

 水上勉は、「私の勝手な空想とはいえ、所在も明らかにせず死んだ盲女への鎮魂歌である。こういう人たちを野の聖というのではないか」ともいっている。水上文学は暗に越前の冬景色を背景にして貧しく悲しく時にはやりきれなくなる人生を独特の語り口で書いている。水上の障害のある人たちへの水上のまなざしは、水上の次女が二分脊椎の障害があったことによっても強められたと思われる。1963年には「重症身体障害者を収容する島田療育園に、政府が、たったの2割しか補助を行っていないことに激怒した」ことを契機に、『中央公論』に「拝啓池田総理大臣殿」をかいた。そこでは、「療育園に、これまで助成した金は、2年間にわたってたったの1千万円でした。36年度に4百万円、翌年に6百万円でした。しかも、これは研究費というめいもくです。私が本年1年におさめる税金の1千百万円よりも少ないのです」と、重症心身障害児施設をはじめとする社会福祉の遅れ指摘し、社会的に世論を喚起した。また、障害のある人たちを描いた『くるま椅子の歌』(1967年)などの作品を残していくこととなる。

 

免許更新講習

2011年10月29日 23時12分07秒 | 日記
朝、カーネーションをみる。
11時から、大学に行く。
12時頃から、免許更新講習のパワーポイントを修正する。越野さんから、スピーカーを借りて、1時10分から講習。
16時まで、講義。その後、30分試験。
本当に暑かったし、疲れた。
先生方も聞きたいことでもないのに、申し訳ない。
こういった制度は、はやくなくさなければならない。
家に帰って、テレビを見ていると寝てしまう。

金曜日、河合くんがくる

2011年10月29日 16時53分10秒 | 日記
資料を3回生にすってもらって、授業準備。
10時半から知的障害教育方法論。
ラストメッセージをうけて、田村一二の話をして、「忘れられた子ら」を見せる。
「1年だけ」ということだったとおもったら、「2年」だった。
だんだん、子どもがかわいくなってくるところまで見せて終わる。
池田太郎のレジュメを用意したので、それですこし説明。「信楽から吹いてくる風」を少しだけみせる。
12時に、山口さんと杉本さんがきて、「笑顔展」のうったえ。
杉本さんと、ミリアムにいって、ポスターとチラシをおいてもらう。

かえってから、3回生のゼミ。酒井さんと杉本さんがきて、「笑顔展」の訴え。3回生のボタンティアを募集する。いろいろ話をして、おわってしまう。
4時過ぎから、金沢大学の河合くんと越野さんといっしょに話をする。
シンポの打ち合わせなのだが、内容はあまりない。ようするに苦労ばなし。
ご隠居さん達がたくさんくるようなので、困っている。
6時から、河合くんと二人で話をする。
「びわこ学園療育記録」「人」のコピーをわたす。
9時過ぎに、越野さんがもどってきたので、すこし話をしてから河合くんをつれて帰る。
疲れた・・・。

ピンチ

2011年10月27日 22時21分07秒 | 日記
朝、中学校問題で副校長にメールをする。これまでの教育委員会との関係について、メモをつくるようにという指示。

幼稚園へ。今日は、附属小学校の入学面接。気になる子どもたちが多くいるので悩ましい。小学校によって、子どもに見つかってしまう。坂下さんとちょっと話をする。
10時から、HPの件で、外山・岩坂と相談。頭が痛い。

本のコピーをお願いする。
1時から、卒論のゼミ。4名。なっちゃんはすこしかいていたが、しかし、問題意識がすこしかわったようだ。
越野さんと、5組のことで話をするが、なかなか困難なことが多い。
4時半から、大学院の授業。翻訳を確認して、英文を4分の1ページくらい。
6時から、保育料免除委員会。
冨坂さんと、再雇用のこと、任期付きの採用のことなどを相談。

かえりに、坂下さんと相談。
再雇用
交流人事
5組
特別なニーズの子ども

かえってから、WIMAXを設定しようとするが、電波が十分でないようだ。

明日までの書類、3日の資料、河合君との面談など、明日締め切りが多いのでピンチ。

はなれ瞽女おりん

2011年10月27日 00時16分31秒 | 日記
高橋竹山の続きを書くために、「はなれ瞽女おりん」をみる。
どうも、疲れが取れない。昨日も激怒してしまったことがあり、ねむれていないのかもしれない。
おそく、大学に行く。福井から電話がかかってきたので、対応。1時半から、教授会。加藤さんから、一度飲みましょうというお誘いがあったがとぼける。
教授会は長引くが、結局、社会の人たちが言いたい放題状態。みんなしらけている。教育研究評議会での議論が、教授会にうつったようなもの。教授会自治についての形式的議論なので、どうも、法人になってからの法人としての自治をどうつくるかが問われているのかもしれないと思ったりする。
5時間ほどすわっていてつかれる。
7時から、全障研運営委員会。これまた、9時半までで疲れる。
その間、教育研究所の中川さんと話をしないととか、小学校の坂下さんと話をしないととか考える。
夜も、「はなれ…」の続きを見る。
高橋は三味線だが、おりんは語りと歌、ほがらかな明るさを持っている。
しかし、戦争と貧困、そして障害の交差する姿は、高橋竹山と重なるものがある。

京都府立資料館に行く

2011年10月25日 22時45分20秒 | 日記
朝、幼稚園へ。いもほりの予定だったが、雨がぱらついたので、順延になった。パワーポイントの作り方、プロジェクターの設定などをしてすごす。
12時頃研究室に帰り、12時過ぎに、京都へ。
京都府立資料館にいく。北山で降りればすぐなのに、北大路でおりてしまった。時間があったので、鴨川沿いを散策。飛び石となっていて、鴨川がわたれるようになっていたので、そこをつかって、川を渡ってみる。北山には、こじゃれたカフェがあり、こんどいってみようとおもった。2時半に、京都府立資料館についたので、京の写真展などをみたりする。イマジカさんが、3時ぎりぎりできたので、それから福島さんとあって納品。
「人」は、研究上では使っていいということになった。資料館での公開はまだ時間がかかるということだった。話が終わったあと、参与の井口和起さんと話をする。京都府立大学の資料のことなどを聞く、吉岡さんにたのめとのこと、当時の福祉の教授がいるのでもしかしたらしっているかもしれないということだった。いずれにしても、1965年頃の京都府立大学での講義やゼミの成果を調べる必要がある。後で、福島さんから資料館の資料の案内があったが、それは、全障研府大サークルのものだった。
4時に奈良に引き返す。5時半に、大学に到着。学部改組委員会に途中から入る。いろいろいうが…、どうでもいいか…。
7時に、寺田君が来る。一身上の相談。「ばかもん!」と叱ったが、嬉しい知らせかもしれない。
角光がきて、フィルムスキャンの件を納入。一方的にいってくるので、もう、ぷろぼのとの関係は清算する方向で、話をする。いらだつ。
メールを書いて、家に帰って、食事をとる。
本当に腹立たしい!

教育実習先訪問

2011年10月24日 22時48分51秒 | 日記
朝、あやめ池小学校での、研究授業をみる。あやめいけ小学校にいくまでが大変、道がわからない。何度も聞いて、ようやくつく。授業は、2年生。何人かの配慮の必要な子が…、読み書きの困難、高機能、ボーダーなど、2名が通級にいっているということだった。27名のクラス。算数の図形。三角形と四角形の話。この分類のところでおもしろいことがあったが、教生はそれを答えの方に引きずっていく。躓きのところで、集団討議が必要だった。

帰ってから、近藤と話をして、鬱憤晴らし。杉本さんと一緒に、うどんカフェにいく。
笑顔展の話やらいろいろ。その後、帰ってから、生協に。買い物。購入依頼などをして、その後、笑顔展のポスターを広報へ転送などをする。

7時前に、ある先生がきてハラスメント関係で話を聞く。

7時から、会議がバッティング。障害者フォーラムの実行委員会準備会。知的障害児施設の人たちもきて、訴え有り。その後、フォーラムの進め方を検討。8時半前に終わって、藤森先生とすこし話をする。
ダッシュで教育会館に行って、議論に参加。どうも生産的でない。
帰ってから、食事。
とどいた、資料をどうしようか考える。
明日は、いもほり。

アッシー君

2011年10月23日 21時29分34秒 | 日記
朝、ビデオの録画をしつつ・・・。
模試をうけにいく娘をのせて同志社に。
同志社にかわりたい・・・京都にうつりたい・・・。
11時半に、京阪ホテルのロビーで、大野さんとあう。田中先生のビデオを10本渡す。
アバンティの本屋で、高谷清『重い障害を生きる』(岩波新書)をかう。
京都駅で、かきあげそばをたべて、電車に飛び乗って、長岡京市駅へ。
1時過ぎから、寄宿舎教育研究会のプロジェクトの会議。
集会のまとめ、本の編集などについて議論。
5時前まで。
その間、家人からメールが・・。
6時にかえって、6時15分に次女をピックアップ。同志社にいって、6時55分に3女をピックアップ。
3女の友人をおくって、小倉駅で、嫁さんにあう。
みんなで、昔やけたけどリニューアルした海運亭にいって、食事をとる。
「はらみの天ぷら」はよくなかった。やはり、焼き肉がいい。

送り迎えの忙しいこと

ESD最終年の会合は名古屋・岡山

2011年10月23日 08時42分29秒 | 大学
政府は、9月27日、「国連ESD(持続可能な開発のための教育の10年」が最終年となる2014年におこなわれる最終年会合の開催地として、名古屋市と岡山市を決めた。名古屋市では、閣僚級会合と全体とりまとめ会合を、岡山市では、研究者・学校関係者・NPOなどによる会合をひらく。岡山市では、ESDのキャッチフレーズの募集が始まった。
10月10日付「日本教育新聞」
ESD10年にわずらわされずに、ユネスコの教育理念をじっくり考えられるようになったともいえる。

ビデオがくる

2011年10月22日 23時52分27秒 | 日記
朝、カーネーションの1週間分を見る。
人間発達研究所の中村さんから田中先生のビデオがとどく。44本。
ビデオを単純にハードに入れる作業をする。
ジョーシン電気にいって、マッサージチェアーで全身もみほぐしをしたり、いろいろ聞いたりする。
昼食、うどん屋。夕食は王将。なぜか十二指腸がいたい。

本当に、頭に来ていて、ずっと怒っている。

2011年10月22日 09時47分45秒 | 日記
昨日一日、頭に来て怒っている。今日になっても、それが続いている。
要するに、
加藤さんの本音は「あんたがたとはいっしょにやれない」というもの。附属学校の評価については、全然逆、ようするに中学校が張り子の寅だと見抜けていない。逆に言うと、中学校の谷口さんが加藤さんになにをいっているかということも考えてしまう。「いっしょにやれない」と思うなら、これでおしまいということである。国際交流地域連携はそんなもんなんや。附属学校の地域連携もやめてやるよ。
長友、「自主的」「主体的」というのは、天に唾するようなモノ。学長がこの大学が自主的主体的にユネスコスクールに加盟したとでも思っているのなら、たいしたもんや。「面倒」発言は、言語道断。愛想が尽きたわ。
大学が、ユネスコスクールについて方針を持っていないこと、附属についても方針を持っているわけではないこと、要するに「面倒」な存在だと言うことがはっきりした。あいつらのメールを、附属の皆さんに転送してやろうかと思ったりする。

「怒り」がおさまらない。
思い浮かぶたびに、むかむかする。抗議・喧嘩のメールでも送ってやろうかとおもったりするが、しかし、無視しておしまいやろな。ばかにするな!

金曜日
朝、名簿をつくる。黒崎に印刷を頼む。
10時半から、知的障害教育方法論-ラストメッセージを見せる。
12時に終わる。その後、いろいろする。
1時半から、特別専攻科の終了論文の指導。「合理的配慮」についていろいろいう。
2時半から、3回生のゼミ。今回は、近藤益雄(清水寛のかいたもの)を読み合わせ。
4時過ぎに終わってから、コンピューターにビデオ関係のソフトをインストール。
ビデオのデジタル化をしようとすると、ビデオカセットがひっかかって抜けなくなってしまう。結局、梅松園に電話をして修理を頼むことになる。