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ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

未来につながる子ら

2020年03月23日 16時18分14秒 | 映画
「未来につながる子ら」(木村荘十二監督、1962年、共同映画社)。斉藤喜博の島小学校校長時代をモデルにした劇映画。共同映画社と群馬県教職員組合が製作したもの。1962年に公開されたが、その前の2年間、現地調査やシナリオの検討が行われた。
音響(効果)を担当したのが大野松雄さん。島小学校の分校などの現地に行って音を録音することなどを行った。利根川を渡の船で渡っていった記憶があり、斉藤喜博ともあったという。卒業式の場面では一人一人が手をあげてこたえる様子が映されている。チラシには、スタッフの中で音響として大野の名前があがっている。

ストーリー
北関東の山深い寒村、山の中腹には小さくひしゃげた小学校が見える。ここでは、今や卒業式の最中だ。心をこめて一人一人に卒業証書を手渡す校長先生。この学校は小さいが、皆の心が通い合い用務員の小父さんさえも職員会議に仲間入りするような解放的な雰囲気だ。「子供たちを理解せよ」をモットーに校長先生は生徒の生活の中に入りこみ、教室ですごす方が多かった。この学校へ隆一が大阪から転校して来た。隆一は父が死んだため、母親といっしょに伯父の家へひきとられたのだ。隆一にとっては、ここの仲間たちがどうしても理解出来なかった。彼等は何事においても天真らんまんすぎるのだ。同じ悩みは、町から転勤して来たばかりの正木先生にもあった。彼の従来のやり方では生徒たちが動かない。校長先生は彼の授業をはずみがないと批判した。そんなある日、父兄の授業参観日がやって来た。父兄の前で間違った隆一をつかまえ、岩崎先生は隆一君式間違いにしましょう、と言った。間違うのは決して恥かしくないという学校の方針からだ。ところが、隆一の伯父は面白くなかった。その日から伯父は参考書を買いこみ、隆一に勉強をおしつけるのだった。一人では手にあまる勉強をかかえ込んで困った隆一は、隣の席の英子に手助けを頼んだ。だが自分のことは自分でとすげなく断られ、隆一は逆上してとび出したまま夜になっても帰らなかった。やがて淋しくなった隆一が姿を現したのは岩崎先生のところだった。翌日、ホームルームでは隆一の事件がとりあげられた。隆一の伯父のやり方は批判され、皆にはじめて理解された隆一の顔も明るかった。正木先生もやがてしみじみと子供たちの良さを理解するのだった。

スタッフ
監督 木村荘十二
製作 坂斎小一郎 、 高林公毅 、 森谷玄
脚本 木村荘十二 、 山形雄策 、 西村勝巳 、 大内田圭彌
撮影 黒沢浩
音楽 長沢勝俊
美術 小川広
編集 岸富美子
録音 大野松雄
スチル 男沢浩
照明 上村栄喜

配役・キャスト
新島校長 西島悌四郎
浅川教務主任 日恵野晃
岩崎先生 木村俊恵
平山先生 武内亨
正木先生 島田屯
田村先生 中野誠也
川上先生 中野卯女
水谷先生 相生千恵子
栗木欽造 浜田寅彦
栗田タキ 川上夏代
イネ 桜井良子
PTAの母親 米丸幸見
PTAの母親 野田阿古
PTAの母親 安藤タキ子
PTAの母親 中谷文子
PTAの母親 豊島八重子
PTAの母親 細田陽子
東宝児童劇団
劇団あすなろ
劇団ひまわり

森毅『数学受験術指南』中公文庫、2012年

2020年03月21日 12時02分25秒 | 
森毅『数学受験術指南』はもともと、1981年に中央公論社から単行本として出されたもの。

森は、1928年生まれで、旧制北野高校、旧制三高、東大という経歴。戦争中を、スーダラ「非国民」として過ごす。
「受験とは、一に要領、二に度胸、三四がなくって、五に運次第、と考えている」

本書の柱は次の通り次の通り
はじめに
1,受験は精神より技術で
2.入試採点の内幕
3.技術としての受験数学
4.受験数学以前
5.ぼくの受験時代
6.数学答案の書き方
7.大学の数学へ
8.数学という学問
ティー・ラウンジ

「頭のなかでモヤモヤを飼っておかねがならない」とは、学問の神髄、いや学問だけではなく、人間一般にいえること。すぐ「わかろうとする」ことについての警鐘を!

受験や試験については、この本と清水義範の『国語入試問題必勝法』、東野圭吾『ぼくらあの頃、あほやった』などを下敷きに、文章にしてみたい。「英語入試」に関するこのたぐいの本は無いかを探しているが・・・。

学びはじめの時代-45年前のことなど(体験的障害児教育その2)

2020年03月19日 22時52分14秒 | 研究会
 新型コロナウィルスの影響でマスクの供給はなくなり、健康上の不安が広まり、各種制限によって経済的な困難が起こってきた。
 生活の中の不安の象徴がSNSを通して広まった「トイレットペーパーが中国製なのでなくなる」とのデマだった。トイレットペーパーの買い集めに人びとは殺到し、その品の棚が空になるし、空の棚の写真がネット上にあげられ、そのことによってまた不安が高まるという悪循環が起きた。思い起こしたのは、今から45年以上前のオイルショックの時のことだった。その時もトイレットペーパー騒ぎがあった。第一次オイルショックの際に、大学入試を迎える高校3年の時だったが、1973年11月に、「養護学校の義務制の予告政令」が出されたのだった(ついでに言えば、第二次オイルショックは養護学校教育義務制実施の年である)。
 45年とすこし前、静岡県出身のぼくは、関西の大学に入学することになった。陸軍中野学校出身の小野田寛郎が日本に帰国した直後の1974年4月のことだった。入学してから途方にくれた。関西弁、とくに口早にたたみかけてくるような大阪弁には困った。聞き取りができずにぼーっとしていると、「吉本に売るぞ」とかいわれてしまう。今と違って、その頃の静岡では「吉本」のテレビ番組はやってなかった。「吉本ってなに?」とへらへらせざるを得なかった。話をすれば、「オチは?」と突っ込まれるし、頭が真っ白になる経験を何度もした。大学に入っての1年間、もう関西には居場所がないので、他の大学を受けなおそうかと考えて、無意味な生活をおくっていた。1975年、2回生の時、あるきっかけで地域の子ども会に参加することになって生活がかわった。
 理科系のぼくには高度経済成長の「幻想」があり、ガード下で行われていた子ども会にいくまでは貧困や差別があること自体、実感を持って感じることはなかった。子どもと関わる中で「子どもっておもしろい」と思うと同時に、その「生活」について考えさせられることがたくさんあった。
 男の子らは、「おい学生」てなもんで、いきがっている。もちつき大会の資金をつくるために廃品回収をして、家庭を回って雑誌などを集めたことがあった。エロ本などがたくさん出されてくるのだが、それを積んだリアカーを引いていると、子どもたちが荷台に乗り込んで、そのエロ本をみているということもあった。学校は荒れていた。箒を持って中学生が教師を追いかけることは日常茶飯事だった。暴力は日常化しており、非行が注目を集めていた。そんな男の子たちとの付き合いは面白かった。いきがっている中学生でも、当時はやった「およげたいやきくん」をテープで流すと、みんな子どもの目になって一所懸命聞き、そして歌ったり、身体を動かしたりするのだった。男の子らは率直だった。
 一方、小学校高学年の女の子は難しかった。そのなかに、いつも二~三人の女の子を従えていた子がいた。声をかけても、いつも、無表情で不機嫌そうな仕草をして、「近寄るな」と無言のオーラを発していた。その子が、ぼくらの遊んでいるところを通ると、子ども達はサッと分かれて、通り道をつくるのだった。行き去って、すこし離れたところで、振り返って刺すようにこちらをみるのだった。性懲りも無く、遊びに加わるようによく声をかけた。その時の彼女の瞳は、なにか虚無といっていいような黒さと底深さがあり、ブラックホールに吸い込まれていきそうな感覚があった。「あまり近寄ると切られるよ、カミソリ手に持っているから」と気のいい子どもがそっと教えてくれた。子どもらしさを押し殺して来たのだろう、これまでのその子の生活はどんなんだったろう、これからどんな人生をたどるのだろうかと考えてしまうことがあった。
 夏休みには、舞鶴のある地域への出張子ども会で子どもと遊んだこともあった。公民館に泊まりこみだった。ベッドのスポンジ工場に行ってスポンジの端切れをもらってきて、京芸の人達に人形作りをおそわり、人形劇を子ども達としたりした。
 ある夜、明日の計画を打ち合わせしているときだった。夜もかなり遅くのことだったと記憶している。姉妹2人が泣きながら公民館のぼくたちの所にやってきた。泣きながらである。聞くと、「誰も帰ってこない」とのこと、子どものことだから要領を得ないので、家に行ってみることにした。そんな役回りがまわってくるのは尻の軽いぼくである。家にいってしばらくすると、父親とおぼしき人が帰ってきた。挨拶をして、少し説明をすると、父親らしき人はおもむろに台所にいって、ひとたまのスイカをかかえてぼくの前にどっかとすわった。そのスイカをたたみの上に直におき、そして持ってきた包丁で真っぷたつに割ったのだった。「食うか」といわれて、呆然としながら、そのスイカを食べた。子ども達はなにもいわずに黙っていた。
 その時々で「気になる子」に出会って、呆然としたり、言葉を失ったりする自分がいた。自分の無力感というか、なにもできない無力な存在の自分を意識せざるを得ないのだった。振り返ってみて、1970年代の教育現場は荒れていた。しかし、それでも、若林繁太『教育は死なず』とか、桐山京子『学校は僕の生きがい』とか、よく読まれていたし、教育実践の世界は人間的に輝いていた。「教育」への熱いまなざしと人間の尊厳を確立しようとする良心的な教師たちがいた。地域には人のよい「おっちゃん」「おばちゃん」たちがいた。地域の人たちには、ぼくたち学生は本当によくしてもらった。
 45年前の学生の時代に、ちょっとした子ども達の現実にふれ、子どもと教育、生活から学んでいくことを考えた。それまで学びとは違う「学び直し」と「学びはじめ」の時代であった。サークルの集まりで、与謝の海養護学校の先生から「子どもは発達する」という話しを聴いた。その後、矢川徳光の『教育とはなにか』などを読んだ。その年、1975年に、教養部の図書館前でハンドマイクでの声でベトナムが解放されたことを聞いた。この年に、国連の障害者権利宣言が採択され、アメリカの全障害児教育法が成立したことを知るのは、ずいぶん後になってからのことだった。
(たちあがる)


ゆうやけ子どもクラブ

2020年03月14日 12時09分26秒 | 映画
「ゆうやけ子どもクラブ」をみた。
「ゆうやけ」という名前がいい!
京都シネマで、1週間しか上映されず、おまけにこのコロナ騒ぎで監督の舞台挨拶もなくなったのが残念。
1978年、いまから40年以上前につくられた障害のある子どもの学童保育。村岡さんが代表である。ときどき、すっとぼけた顔をして出てくる。頭がうすくなっていて、いろんなことがあっても、いいようにいったら動じないのであるが、ヌボーっとしてのれんに腕押しというところがいい。子どもに受けるのであろう。このような人の存在が大事かなとおもう。
いろんな子どもが出てくる。
だから、舞台挨拶やすこしコメントがあれば、もっと理解が深まるだろう。そんな語りをしながら、再度、学生さん達と見てみたい。

林真理子『綴る女 評伝宮尾登美子』中央公論新社、2020年

2020年03月13日 22時46分39秒 | 
宮尾登美子は、高知に行ったとき立ち寄った図書館での展示を見たのがきっかけだった。
しかし、視覚障害者を描いた『蔵』をすでにそのときは入手はしていたのだが読んではいなかった。展示では、その出自が説明されていて、興味をもった。
宮尾の評伝は『遅咲きの・・・』というのある。この『綴る女』は、林が書いた評伝ということで、新聞の書評にも小さく掲載されていたように思う。奈良にいったときにふらりとよった本屋で入手して、読んだ。

この本は評伝ではない。はじめに言っておこう。
この本の主人公は、宮尾なのだろうか?、宮尾なのだろうが、しかし、「綴る女」は林自身だろう。よくいって、宮尾の生活・エピソードが3分の1、林の自分自身のことが3分の1(いやそれ以上か)、あとは周辺的事項が3分の1。「綴る女・宮尾登美子」の鬼気迫る姿は、遅く咲く以前の東京へ出てきたとき、『別冊DELUXE女性自身』の巻末付録の手記の中にあるくらい。あとは、自分自身の出生と環境の物語を丁寧というか貪欲にというか、その描く姿は、著書の中に読み取れということであるようだ。

いくつか宮尾に関する興味深いこと

宮尾は保母をしていたときがあり、その後、社会福祉協議会で働いていた(高知の社会活動家大野武夫を調べてみる必要あり)。この時代、保母の待遇改善の活動をリードし、『季刊保育問題研究』の刊行にもかかわったこと(125-126)。
最後に受賞したのが親鸞賞で、その受賞後に高知にひきこもったとのこと。この時のことが身を隠していて林はよくわからないとのこと。この時の主治医の孫に心当たりがある。聴いてみたい。

幻に終わったのか? 田村一二「精神薄弱児の図画」と室戸台風

2020年03月02日 23時41分45秒 | 田村一二
昭和9年のある学校の日誌を点検している。
1934年度を点検していると、室戸台風の記載があって、大変な事態となった。昭和9年9月21日のことである。
ふと、田村一二の手稿「精神薄弱児の図画」の最後に書き加えた日にちが、9年9月15日だと思い浮かんだ。
その6日後に、室戸台風が襲来したことになる。
京都市特別児童教育研究会での授業とその報告のために記されたものではないかと推測していたのだが、それが室戸台風によって吹き飛ばされてしまったのではないか?
当の滋野小学校が、戦後中学校になり、その後、廃校になった。戦前の史料は残されていないがどうだろう?