ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

藤岡陽子『手のひらの音符』(新潮文庫)

2018年12月25日 12時55分51秒 | 

1年以上前のこと、あるところで、この本のことが話題に上がった。その後、同僚の先生が、この本よんでみたといっていたので、買っておいていた。いつもの調子で、風呂の中で読んでいたが遅々として進まず。ちょど、3連休に、風邪と1年間のつかれで伏せっていたので、布団の中で読んでいたら、とまらなくなった。

服飾デザイナーの水樹が、小・中・高等学校過去を回想する。同級生の家族のことと共に、いろいろなその後が描かれている。裏表紙には、次のような紹介が・・・

デザイナーの水樹は、自社が服飾業から撤退することを知らされる。45歳独身、何より愛してきた仕事なのに……。途方に暮れる水樹のもとに中高の同級生・憲吾から、恩師の入院を知らせる電話が。お見舞いへと帰省する最中、懐かしい記憶が甦る。幼馴染の三兄弟、とりわけ、思い合っていた信也のこと。〈あの頃〉が、水樹に新たな力を与えてくれる―

団地に住む水樹の家は貧しい、そして、高等学校時代の担任遠子が、背中を押してくれて服飾の道へ。おなじ団地に住む同級生信也の弟悠人には、てんかんと発達障害があり、いじめられている。それを守る兄弟。信也の兄の事故死。憲吾の母は心をわずらっており、憲吾はある意味、ヤングケアラーとして母をケアするなかで、信也との友情が芽生える。貧困、障害、ケアなどなどが交差し、物語が展開していく。場所は、京都の向日市、あそこかなとその場が浮かぶ。



滋野小学校と特別学級

2018年12月20日 09時10分14秒 | 田村一二

 これまで、『忘れられた子等』『手をつなぐ子等』を中心に、田村が社会に発信してきた教育小説・児童文学、それらの映画などについて触れてきた。『忘れられた子等』『石に咲く花』『手をつなぐ子等』は、その前提となったのが、滋野小学校時代の「特別学級」の実践やそこでの実践記録、論究がもととなっている。戦前における田村の書いたものの全体像は明らかなものではないが、しかし、特に滋野小学校時代を中心とした田村の論考や実践記録などについてわかっている範囲内で示しておく必要がある。
 滋野小学校以前の代用教員の時代から書きためた田村の短歌が自宅から見つかったものについては、吉永先生が拾い出して「田村一二記念館報」第1号(年)に紹介されている。短歌や俳句の形式をとって、青年教師田村の感性を示しており、若き田村の視線や経験が見られて興味深い。
 滋野小学校時代に本格的に知的障害児教育を担っていくことになったのであるが、その端緒となったのが草稿「精神薄弱児の図画」(1934年9月)が発見されている。しかし、これは公表されたものではなく、手稿ということである。その後、昭和11年に『精神薄弱児の生活指導』(謄写版刷り、京都市立滋野尋常小学校、1936年)を出している。
 
 ところで、知的障害児教育における田村の活動は、京都市特別児童教育研究会を中心に行われていた。この研究会は、滋野小学校の校長であり、田村を「ペテン」にかけた斎藤千栄治が会長となり、崇仁小学校の高宮文雄と田村、そして養正小学校の田中寿賀男などが幹事として運営していた。朝日新聞厚生事業団の後援を得て、「精神薄弱児展覧会」へも京都市特別児童研究会は積極的に参加していた。そのパンフレットには、京都市特別児童研究会調べで「精神薄弱児教育に関する文献」が載せられている。その中に、3冊、京都市滋野小学校の発行の文献が挙げられている。『精神薄弱児と労作教育』『精神薄弱児の作業を主としたる教育』『個性教育(研究報告)』である。このうち、『精神薄弱児の作業を主としたる教育』は実物を確認しているが、その他の2冊の資料は未見であるが、本当に実在しているのかはわからない。『精神薄弱児の作業を主としたる教育』は、田村が特別学級担任になる以前の担任による実践報告であり、田村はかかわっていない(『忘れられた子等』の中で前担任が、谷村に資料を手渡す場面があるのだがこれらの資料だったのであろう)。
 
 それ以前に、滋野小学校からは斎藤千栄治の執筆による『異常児童教育の振興』が、1927(昭和2)年6月に出されているということだが、これも現在、所在がわからない。50年前に卒業論文で京都市の特別学級の歴史に取り組んだ、大嶋の論文の中にその片鱗を見ることが出来る。『異常児童教育の振興』を下敷きに書いている部分を摘記して以下に示してみる(大嶋正徳「京都市に於ける精薄児教育の成立過程」(昭和41年度京都教育大学卒業論文))。

『異常児童特別教育の振興』(滋野尋常小学校編、昭和2年6月、高宮ヲコト蔵)

設置の理由(43,44)
人道主義の面からだけではなく、その理由として、児童の具体的現実の生活に目を向け、学級内・卒業後の実態をとりあげ「彼等の精神生活及物質生活の向上を計ることは、教育者は勿論社会が当然なさねばならぬ義務」*であるから、特別施設を至急作ることを主張し具体的計画案を提起する**。
*斉藤千栄治「異常児特別教育の急務」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.6
**同「本市に於ける今後の施設に関する意見」同上書、pp.11-20(大島コメント:斉藤はこの中で非常に綿密な計画で養護学校の具体的構想を明らかにしている)
特別学級設置の意義(p.45)


*斉藤千栄治「異常児特別教育の急務 1.教育の機会均等」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.4(大島コメント:斉藤はこの中で限界を持ちながらも教育の機会均等の実現と言う観点から精薄児教育の必要性を主張している)


教育内容
具体的に実践を行った滋野小学校では教育方針を次のようにかかげる。*
1.簡易なる職業指導をなすこと。
2.日常生活の訓練殊に団体的社会的取扱により彼等の現在及将来の生活に必須欠くべからざる実用的の教授をなすこと。
*斉藤千栄治「教育方針」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.11


滋野小学校に於ける職業指導は児童を手工類型と社会類型に分け個性に合った指導を目指した。手工類型の男子には木工による玩具製作の指導、女子にはミシンの使用と染色の指導を行い商品として売ることを目標とした。社会類型の児童には「被使用人としての養成」と清潔法の実習ならびに用達の使い歩きを指導して卒業後の彼らの生活の保障と余り親の厄介者にならない生活を送ることを目指した。* p.77
*斉藤千栄治「教育方針」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.13


生活訓練(指導)では「偏奇なる感情の陶冶と社会的調和性の育成を目指し、そのため労作作業として動物園を作り小鳥、養鶏、養兎、養魚などの飼育、植物園、教室内外の掃除などの実習を行った。* p.77
*斉藤千栄治「教育方針」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.14


こうして斉藤千栄治は実践に基き「教育書籍や講義のみでは効果が甚だ薄い、活きた教育はかかる労作作業によりて初めて其の効果を確実」なものにすると、精薄児教育にとって労作教育の必要性を強調する。*77-78
*斉藤千栄治「教育方針」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.14


教科指導の面では、地理、歴史、理科の全科を郷土科の名目の下に統合し指導し、実物を用い直観に訴える指導を中心として主として実験を行った。更に算術では模擬店を開き売買の実習も行った。*p.78
*斉藤千栄治「教育方針」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.14


しかしこれらの直感教授も「徹底的の練習主義により、例え程度が低く量が少くとも教授したることは最も確実に把握せしむることに勤めて居る」*というように教師中心的な詰め込み教育であった。P.78
*斉藤千栄治「教育方針」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.14


「低能児は先天的或は後天的の原因によって知能の発育が遅れ、授業をする上に於て普通の児童とは到底一緒にできない児童をいう」*
*斉藤千栄治『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.1

注目しなければならないのは、昭和2年斉藤千栄治は「異常児童特別教育の振興」の中で「低能児と劣等児或は其他の異常児と混合したる学級を作ることは甚だよろしくない」*とし、①1学校に1学級以上の低能児或は其他の異常児学級を置き学区に関係せず同種の異常児を収容すること、②劣等児の促進学級を各小学校に一学級以上を併置すること」**、更に学級では充分に教育が出来ないから独立の養護学校を作ることを具体案を示しながら主張した***。
*斉藤千栄治「学級編成」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.14
**斉藤千栄治「学級編成」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.15
***斉藤千栄治「独立の学校設置」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.17-20


鈴木耕『私説 集英社放浪記』河出書房新社、2018年10月

2018年12月16日 17時13分13秒 | 

鈴木耕『私説 集英社放浪記』:本屋にあったので、買って読んでみた。出版不況であるが、本の編集の側から、世界を見てみたいと思ったからだ。いまの、出版社のあり方に対して、批判的だからか・・・。とはいえ、集英社などと言う大手とはおつきあいがないし、弱小出版社しか知らない。売れないとしかたがないので、冒険的なものは考えないことになっているし、学術書なので出版しようと思えばお金がかかるのだ。しかし、本に対して、あるいは活字に対して、尊敬がない風潮がそうさせているのかもしれない。大学生は本は読まないようだし・・・ぼやいても仕方がないが。

著者は、戦後、1945年生まれ、早稲田大学卒業後、1970年、集英社に入社。アイドル誌「月刊明星」からはじまって、「月刊PLAYBOY」、「週刊プレーボーイ」、集英社文庫や「イミダス」の編集を経て、集英社新書の創刊に携わる。36年間の編集者生活。その中でも、原発、阪神大震災からオウム真理教事件、権力にあらがう社会批判の目を常に保持してきた。そして、退職後の東日本大震災、沖縄と・・・。「週刊プレイボーイ」には、社会批判の特集や記事が継続して掲載されていたことは、三井に入っていたが、そこにこの鈴木氏の存在もあったのであろう。ちょっと、集英社が好きになった。

同時に、1週間、1ヶ月、旬報もの、1年間といった時間的なスパンの各種の編集に携わっていて、その時間感覚の違いも興味深い。また、雑誌から文庫、新書など様々な形態の出版物の編集を手がけていることもおもしろい。そして、その人のつながりも・・・。退職後の、太田元沖縄知事、愛川欽也のことなどなど。時間と空間、そして人とのつながりを活字として、書物としてどのように結晶させているか考えてみた。

「沖縄スパイ戦史」の監督とも飲み友達とのこと。いま、風邪を引いているので、「沖縄フリーク」と自称している著者に触発されて、温かい沖縄で、ゆっきりしてみたい。著者と同じように、その暖かさを凍り付かせているいまの辺野古に象徴される沖縄の抱える問題、これは尊厳を傷つける政府のパワハラでもあるが、それらを沖縄の歴史とともに感じることになることを自覚しながら・・・。


映画『手をつなぐ子等』とCIE(GHQ)の検閲

2018年12月15日 22時45分28秒 | 田村一二

『伊丹万作全集』3の月報には、稲垣浩の「万作」という文章が寄せられている。戦前、稲垣と伊丹は共同で映画をつくってきた間柄である。伊丹は、1944(昭和19)年に『手をつなぐ子等』のシナリオを執筆していた。稲垣は、それまでの映画の製作について述べた後、田村一二の原作の映画化について次のように述べている。

「(前略)私は田村一二氏の『忘れられた子等』を書いて、是非やりたいと会社に申し出たところ、同じ著者の『手をつなぐ子等』を万さんが再起作品として計画していると聞いて、断念することとなつた。ところがやはり病状が悪く、これも私が代行することとなった。私はそれより先に、万さんを監督して私が助監督をつとめようと申し出た。しかし、その心使いは無用だと彼は断つた。/この作品は占領下に作ることとなつたが、進駐軍C・I・Eから戦後の話に書き改めなければ検閲を通せないと言ってきた。万さんはそれを聞いて怒り、それなら絶対にこのシナリオを使つてくれるなと言つた。私も彼の意を解し、米軍検閲官と二時間にわたりディスカッションして、原形のままで押し通した。しかし万さんは終にこの作品の出来上がりを見ずに世を去つたのである。」

伊丹万作のこの脚本への思いは強しである。なぜ、時代設定を「昭和12年」としたのか、それを妥協せずに貫いたのか。そして、稲垣浩は、検閲官とどのようなディスカッションをしたのだろうか。伊丹と稲垣のそれまでの映画づくりと映画批評などの背景にある思想、戦争についての彼等の態度も含めて検討する必要があろう。戦中における伊丹の情勢判断、そして戦後の第二次世界大戦についての論評を読んでみる必要がある。

伊丹万作は、田村の石山学園に思いをはせ「石山学園の歌」をつくり、足尾鉱毒事件の田中正造の生涯を映画化する構想を練りながらも、1946年9月21日、病いに没した。46歳の生涯であった。


伊丹万作と『手をつなぐ子等』

2018年12月15日 13時14分22秒 | 田村一二

1週間前から、正確に言うと12月6日の木曜日から、ノドが痛く、咳が止まらない。7日に診療所に行って、薬を処方してもらい、土日も予定を全部キャンセルして静養した。納まったかなと思ったのだが、薬が切れると、とたんに寝入りっぱなに咳き込んで眠られない。睡眠不足がまた、体調不良を促すことに。結局、14日の金曜日に診療所に行った。この1週間、そんなくらくらする中で、探していたのが『伊丹万作全集』・・・。その3巻に「手をつなぐ子等」があり、それを確認したかったからだ。

もともとは、以前に研究室用に買ったもの(書店経由では、1巻と3巻だけしかなかった)。研究費で購入していたので、図書館の蔵書で、研究室に貸し出しているという形となっていた。故あって、研究室の図書を図書館に返却していたところだった。『伊丹万作全集』もみあたらなかったので、返却したのではと思って、「ちぇっ」と舌打ちしながら、図書館にいって整理中の書架などを探して貰うが・・・「ない?」「まだ返却されてないみたいです・・・」とのこと。たしか、あそこにあったはずと思っていたところに見当たらないので、てっきり返却したものと思っていた。研究室やいろんなところをさがしてみても・・・・「ない!」。

結局、1週間探しまわって・・・・ようやく出てきた。灯台もと暗しとはよくいってもので、2冊きちんと別の部屋に鎮座しておられました。

さっそく、みてみると、やはり・・・伊丹万作がこの「忘れられた子等」の演出意図と備考としての留意事項が、脚本のあとに書かれている。ここでは、時間がないので、伊丹がこの作品を書いた理由などにつて触れるにとどめたい。伊丹は、原作の映画化について、「演出の根本精神」として「道義的精神」と「芸術的精神」があるという。前者は、「精神薄弱児の問題」であり、「未発掘の人的資源(当時のことば)としての意義を明らかにし…社会的情熱に訴えること」、もうひとつは「不良児が次第に感化されていく過程を通じて善の意識に快い刺激を与える」というもの。しかしそれ以上に、「芸術的精神が強力に作品を貫く」として次のようにいう。

「実を言うと、私がこの原作によつて非常に心を動かされた理由は、先に述べたような道義方面による点も少なくはないが、それにも増して私はむしろそこに描かれている小さいものたちの世界の澄み切った美しさに感嘆したことを白状する」

続けて・・・「ここには快いユーモアもあり、悲しみもあり、その他社会にあるようないろいろなものがあるにはあるが、ただ違う点は、こちらはどこまでも純真であり、明朗であり、徹底的に澄み切っていることである。このような美しさを、もしもそっくり映画に移し植えることができたならば、多くの人がその映画を見て泣いたり笑ったりしたあげく、結局心を洗われたような快感をいだいて帰って行くだろう。そういう映画をつくりたいものだというのが私の最初に描いた夢であり、そして未ださめない夢なのである」

演出備考の最初には、

「時 原作では大体、シナ事変のころを標準として書かれているが、映画では大東亜戦争開始の前後にわたっているように扱いたいと思う。風俗など、最近は一年間にずいぶんの差を示しているが、その点などあまり事実に拘泥せず、なるべく最近の風俗をとりいれるようにしたい」

とある。この脚本が戦時中に書かれたものであることに留意する必要があろう。伊丹万作と田村一二の戦中/戦後の交流については別途書いてみたい。


小杉健治『父からの手紙』光文社文庫

2018年12月11日 10時34分44秒 | 

昨日、電車の往復の中で読んでいたら、とまらず家に帰っても読んでしまった。あいかわらず、咳が止まらない。

小杉健治『父からの手紙』もともとは、NHK出版から出されたもの。内容は以下のように紹介されている。

家族を捨て、阿久津伸吉は失踪した。しかし、残された子供、麻美子と伸吾の元には、誕生日ごとに父からの手紙が届いた。十年が経ち、結婚を控えた麻美子を不幸が襲う。婚約者が死体で発見され、弟が容疑者として逮捕されたのだ。姉弟の直面した危機に、隠された父の驚くべき真実が明かされてゆく。完璧なミステリー仕立ての中に、人と人との強い絆を描く感動作。


映画『シンゴジラ』2016年公開

2018年12月09日 09時48分08秒 | 映画

風邪でふせっているので、ダウンロードしていた映画をipadでみていた(といっても、骨伝導のイヤホンで聞き流しているのだが)。あまり、考えられないので・・・。

子どもの頃にゴジラ映画があった世代なので、なにやら「ヌタウナギ」のような顔や形状で登場したのが、ゴジラだとは思わなかった。この映画が東日本大震災の福島原発の事故を契機に製作されたことや、政権と官僚の意思決定のプロセスに関して政治学的な一つの見方を示しているのが、「『シン・ゴジラ』の1シーンに着目して」というブログ記事、興味深い。

ゴジラの進化、ゴジラの生態の構造の解明と対応方法、「米国」との関係(この映画では「アメリカ」とはいわず、「米国」というのは意味がありそうだ)、そして、対応の中心にいる2人の会話で「この国はいつも米国の属国だ」という発言のリアリティ(14日にも行われようとしている沖縄の辺野古への土砂投入や米軍兵器の購入予算の増加)など、いろいろ思うことはある。

ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆事件を契機に製作された昔のゴジラの第一作、このシンゴジラも原発事故との関係で製作された。両者とも、原水爆・原発の問題との関係で製作されたのだが、第一作と同様に人間の科学の力によってゴジラにとどめが刺される。エンドロールには、伊福部のゴジラの音楽が流れる。


映画『ヒトラー:最後の12日』

2018年12月08日 22時42分20秒 | 映画

『ヒトラー:最後の12日』を通勤の途中で見ることが出来た。これも、ドイツ語版だった。最後に、ヒトラーの個人秘書だったユンゲの証言がいれられており、この映画全体の価値を高めている。

内容は、Wikiでは次のように述べられている。

1945年4月のベルリン市街戦を背景に、ドイツ第三帝国総統アドルフ・ヒトラーの総統地下壕における最期の日々を描く。混乱の中で国防軍の軍人やSS(親衛隊)の隊員が迎える終末や、宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルス一家の悲劇、老若男女を問わず戦火に巻き込まれるベルリン市民の姿にも焦点が置かれている。
ヨアヒム・フェストによる同名の研究書、およびヒトラーの個人秘書官を務めたトラウドゥル・ユンゲの証言と回想録『私はヒトラーの秘書だった』が本作の土台となった。

ゲッペルスのところは「悲劇」という表現でよいか? 


映画『手をつなぐ子等』の時代設定

2018年12月08日 18時48分20秒 | 田村一二

風邪で調子が悪いのだが、新聞を読んで今日が太平洋戦争が始まった日だと知った。1941年12月8日、日本軍が真珠湾を攻撃し、その後、国民生活のすべてが戦争という一色に塗り替えられていった。

田村の3部作は、この時代に世に出された。戦中、それが伊丹万作、稲垣浩の目にとまり、その映画化が構想され、敗戦後、伊丹の死はありながらも、1948年に『手をつなぐ子等』、1949年に『忘れられた子等』が公開されていった。『手をつなぐ子等』は、はじめのキャプションで時代設定が、「昭和12年」とでてくる。昭和12年、1937年は、盧溝橋事件が起こり、日中戦争が開始された年である。日本の社会には国民精神総動員運動が開始されるという時代である。前にすこしばかり書いたように主人公のカンチャンの父親が出征することになり、転校することになる学校に母親(これが杉村春子なんだよな!)がその実情を語る場面が導入となっている。この場面のリアリティを持たせようとすると、「昭和12年」という設定は理解できる。しかし、日本の侵略戦争・軍国主義を想起させるというものとして、GHQから指摘され、検閲でチェックされ難色を示されたであろうことは、容易に推測できる。「昭和12年」をめぐって、あるいはこの導入の場面をめぐって、制作側とGHQ側とはどのような議論があったのであろうか?そんなことも気になるところである(もしかしたら、ブランゲ文庫等には脚本のチェックされたものがあるのかもしれない)。

『手をつなぐ子等』は、羽仁進監督で、1964年3月に公開されたリメイク版『手をつなぐ子ら』があるが、この時代設定は現代的なものとなっていると思われる(羽仁進監督の『手をつなぐ子ら』は残念ながら未見である)。

ちなみに、同じ稲垣浩監督の映画『忘れられた子等』の時代設定は「現代」となっていた。


児童文学・児童文化としての『手をつなぐ子等』ー紙芝居のこと

2018年12月06日 20時57分19秒 | 田村一二

振り返って、田村の教育文学の出発は、「もつと活発に社会に働きかけてもいいと思ふ」(前出『鋏は切れる』)と決意して著作にした『忘れられた子等』であり、続いて『石に咲く花』、そしてこの『手をつなぐ子等』が出された。だから、この一連の著作の連続性を考慮する必要がある。『手をつなぐ子等』は、戦中においてその社会に働きかける一つの到達点だったのではないだろうか。こういうと、戦後に「世に出た」というを長谷川の評価には疑問が残る。

とはいえ、田村自身も言っているように、内容においては、『忘れられた子等』『石に咲く花』が、特別学級を中心とした者であるのに対して、『手をつなぐ子等』は、通常学級という違いもあり、また、形式においても、『忘れられた子等』がエピソードの点描を集積したものであり、『石に咲く花』がエピソードを3話に構成した短編集とも言えるもの。そして『手をつなぐ子等』が長編ということになる。

すでに『忘れられた子等』の成立については、日出新聞の連載をその一部として構成し、そして、『石に咲く花』には、これもまた詳述する必要があるが「精神薄弱児の図画」を基にした部分があるようである。では、『手をつなぐ子等』はどうか―この点ももっと深められなければならないが、手をつなぐ子等』にでてくる兵士として出征する父親の悩みと手紙のエピソードは、『勿忘草』第2号の田村の「覚え書き帳から」というもののなかにいれられている。別の機会に紹介や検討をしてみたい。

『手をつなぐ子等』の映画化についても、伊丹万作の著述をもとに検討したり、脚本検閲などについても調査が必要だ。伊丹を引きつけた『手をつなぐ子等』は、映画によって戦後の社会に送り出された。その広がりを調べてみたいのだが、少し着手していると紙芝居『手をつなぐ子等』が見つかった。

紙芝居については、2年前の青山塾での講義が始まるまえから、気になっていた。「日本の古本屋」のネット上に紙芝居が出品されていたのである。田の図書館に入っているかどうか、国会図書館などの検索で調べてみると東京の公立図書館1館だけに所蔵されているようだった。どうするか、古本屋で買うかどうか??購入するには高すぎる!!それも前編・後編の2つもあるのだ。一つ○万円するのだ。田村の著作を読んでいた滋賀の方もそれをみつけて「研究費で購入して、紙芝居に音声を付けて動画にしてよ」と勝手なことを言い始めて、よけいに悩んでしまった。半年くらい悩んでいたと思う。そのときに、青山塾の講義に池田太郎を担当している社会事業大学のT先生も参加すると担当のTさんがいってきた。ますますプレッシャーがかかり、その重みに、自然とポチッと「購入ボタン」をおしていた。ああ、またやってしまった・・・!


「こんな夜更けにバナナかよ」

2018年12月05日 15時58分07秒 | 映画
渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ : 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』は、2003年に北海道新聞社から出されたもの。
はじめて、この書名を聞いたのは、ニューヨークでだった。障害者権利条約の特別委員会の傍聴にいっていた時のことである。ちょうど、日本NGOの事務局をやっていたDPIの方がつぶやいたのが最初。だから、2004年か2005年頃だったかな。自立生活の支援をしていた人たちの間で話題になっていたものだろう。
その時、下品なぼくは、『こんな夜更けにバナナかよ』という書名は、「こんな夜更けにウ○コかよ」の意味だとばっかりおもっていたことを白状しておく。トイレ介助が頭に浮かび、バナナを比喩だと思いこんでいたのだった。
権利条約特別委員会が終わって、帰国してから本を買った。それが映画になった。深夜、「バナナ食べたい」との一言に・・・こんな夜更けにバナナを買いに走らされる場面が。映画のチラシは以下のとおり
 

「ブランゲ文庫」の中の「手をつなぐ子等」(承前)

2018年12月05日 12時30分36秒 | 田村一二

ブランゲ文庫の中には、二つの『手をつなぐ子等』があることは先に示した。第6版と第7版である。削除修正についての点検は今後の課題となるが、その表紙だけ示しておきたい。なお、伊丹万作脚本・稲垣浩監督の映画『手をつなぐ子等』の公開は、1948年の3月30日が初日だった。それ以後、この映画と共に第6版、第7版が刷り増しされていったものと思われる。なお、映画のGHQによる検閲の内容や再版されたものの修正との関係も検討の課題となろう。

第6版は、昭和23年6月1日の発行となっている。表紙をスキャンしたものは以下のものであり、ナンバーと6月7日の日付が書かれている。

第7版は、昭和24年3月1日の発行である。こちらは、1949年の3月14日の日付のようによめる。


「ブランゲ文庫」の中の「手をつなぐ子等」

2018年12月04日 13時34分38秒 | 田村一二

『仔鹿と少年』はもともと、”The Yearing”が原作で「イアリング」の訳本を児童読み物にしたものだった。「イアリング」と聞くと、耳飾りを音で想起するのだが、それはear-ringであり、前にも述べたが、このyearingは1年を経た動物を指す言葉、考えてみればその語は、Year(年)の動名詞である。「年を重ねていくぞ、これから大人になっていくぞ」というものだ。それはともかく、戦中から戦後直後にかけて、田村が児童読み物・児童文学へと志向したことは指摘しておく必要があるだろう。南郷太郎は、伊丹万作と新居格の後押しをうけて、伊丹十三の装丁・挿絵でこの本を世に送り出したのである。ちなみに、一碧文庫のものには、糸賀一雄への謹呈の署名があったように記憶している。

ところで、この『仔鹿と少年』を検索して出てきた「ブランゲ文庫」に関わって、もう一つの田村一二の本が収蔵されているのである。それが、『手をつなぐ子等』である。この「ブランゲ文庫」の中の『手をつなぐ子等』ついてふれるまえに、長谷川潮の『児童文学のなかの障害者』(ぶどう社、2002年)が『手をつなぐ子等』について書誌事項も含めて詳しく述べているので、そのことについて触れておきたい(第4章「最初の長編『美しい旅』と『手をつなぐ子等』」、なかでも3として『手をつなぐ子等』がpp.87-98に詳述されている)。

長谷川潮は、戦中版について、初版が1944年1月(2月)に出され、その後、日本出版界から推薦され再版される経緯を分析している。戦中版は大雅堂から出され、それが戦後においても大雅堂から継続して出されており、第7版まで版を重ね、その後、1950年に大阪教育図書の『田村一二名作選 忘れられた子等・手をつなぐ子等』として再度別の出版社から出されるという経過をたどっていた。問題は、大雅堂から発行された『手をつなぐ子等』の敗戦を境とした修正・削除のことである。

長谷川は、戦中において日本出版界の推薦文を全文あげて、『手をつなぐ子等』が「皇国民ノ一人トシテ育テ上ゲラレ」などの受け止め方を可能とする表現がこの本の中にあり、それが戦後版では削除されたり、言い換えられたりしていると、その具体を示している。そして、このような操作について、次のように指摘している。

「戦中版と戦後版をめぐるそういう田村の操作について、わたしたちはどう考えるべきなのだろうか。戦中版の軍国主義的な、あるいは天皇主義的要素は、当時において出版するためのほとんどやむを得ない修飾だたったとわたしは考えている。/むろん修飾だろうとなんだろうと、いったん表現されたことについては、作者はそれなりの責任を負わなければならない。しかし、修飾としてのそういう要素を持つ作品と、軍国主義・天皇主義の賛美それ自体を全面的に目的とした作品とを同列に扱うことも、また適切ではない。戦後版においてそれらの修飾要素の削除ないし言い換えがなされたのは、むろん原型のままでは占領軍の検閲を通過しないからではあるが、それ以上に、戦中版自体が余分な要素を付加したものであって、戦後版においてはじめて、本来の『手をつなぐ子等』が世に出たと考えてもよいであろう。」

長谷川は、戦後に本来の『手をつなぐ子等』が世に出たとさえいうのだが、生まれたての姿が、先にのべた国会図書館がメリーランド大学との共同で作業した「ブランゲ文庫」の児童書のデジタル化作業で公開されている『手をつなぐ子等』である(ただし、国会図書館に行かないと見れないが・・)。大雅堂版は、第6版と第7版の2種類がこの「ブランゲ文庫」にはあるのである。

 


「帰ってきたヒットラー」

2018年12月03日 23時17分49秒 | 映画

最近は、映画をダウンロードして、通勤中にみることができる便利な時代となった。

はじめてそのサービスを使ったのが「帰ってきたヒトラー」であった。英語の映画と思っていたのだが、ドイツ語の映画で言葉がわからんのが、残念だった。

第二次大戦後70年たったドイツによみがえったヒトラーが、町を歩き、コメディショーに登場するや、本人は大まじめであるが・・パロディとして受け止められ視聴者を喜ばす・・はじめはである。それが徐々に第二次大戦前のナチの台頭の時代に重ね合わされていく。しかも、現代の難民への対応への民衆の不満や不安は、ネオナチの台頭、極右政党への共感、自国第一主義など現代ドイツ、ヨーロッパ全体、いや世界全体と言ってもいいが、社会の深部の闇と結びついており、それをヒトラーは似非を否定しつつ、もっと闇の中へと野望ともつかぬ思惑を垣間見せる。最終版の笑いと重なった狂気が不気味である。

昨日、NHKのBSで映像の世紀(10)が再放送され、難民問題を特集していたが、この問題は遠い過去から地続きで、荒廃の結果として、また、その原因として今日までの戦争や社会不安を先導してきたことがわかる。ドイツでは、移民への慣用を旨としたメルケルが選挙で敗北をしたことをうけて、党首を辞任することが現実となった。フランスでは若きマカロン大統領は環境税の導入により抗議デモが暴動化し、その中で極右政党が浸透していく予感がする。自国ファーストのアメリカ・トランプの政策、そしてこの日本でも外国人労働者をめぐる問題、きな臭い匂いが世界中に漂っている。

経済の行き詰まりが表面化すれば、それが一気に爆発するのではないか。だからこそ、今、歴史から学ぶ必要がある。


『仔鹿と少年』のこと

2018年12月03日 15時41分25秒 | 田村一二

『仔鹿と少年』は、もともとはマージョリー・キーナン・ローリングス『The Yearling(イアリング)』というもので、新居格の翻訳で1939年に出されている(『イアリング』(M.K. ローリングス原著、四元社、1939年)。”Yearling”とは動物の満1年子(1歳児)のことをいうが、多くは子馬から成長つつある「明け2歳馬」のことをいう。動物の仔から大人へ、少年の成長をこの題名は象徴している。原作は、アメリカでは、1946年映画化されていた。戦後は『子鹿物語』として紹介され、いろいろな翻訳ものが出されている。

原作は仔鹿と関わる少年の成長とが絡み合って、少年から大人への道行きとして描かれる。そのあらすじは、次のようなものである(Wikipediaより)

舞台は自然豊かなフロリダ州の田舎。バックスター家の気弱な少年ジョディは父親ペニーと母親オリーと暮らしていた。ある日、父親が狩猟中にガラガラヘビに噛まれ、とっさに付近にいた雌鹿を殺し、肝臓で毒を吸い出した。雌鹿に連れ添っていた子鹿を父ペニーから与えられたジョディはこれを飼い始める。子鹿は白い尾にちなんでフラッグ(旗)と名付けられる。ジョディはフラッグを可愛がるが、成長するにしたがってフラッグは作物を食い荒らすようになる。森に放してもフラッグは柵を飛び越え、戻ってきてしまう。たまりかねた母親はフラッグを銃で撃ち、傷を負わせるも死なせるには至らなかった。そしてジョディは自らフラッグを撃ち殺す。悲しみにくれたジョディは家出し、カヌーで川を下るも壊れて難破し、郵便船に助けられる。やがて家出から戻ってきたジョディの心は少年から大人へ成長していた。

『仔鹿と少年』の目次は次の通り。

1.水車/2.趾欠け(ゆびかけ)/3.鶴の踊り/4.牝鹿/5.ガラガラ蛇/6.仔鹿/7.蜜蜂/8.浣熊/9.あらし/10.野営/11.狼狩り/12.クリスマス/あとがき

装幀・挿絵 池内岳彦

あとがきには、伊丹万作のすすめと激励があったこと、新居格の許可があったことなどがかかれている。新居格は、戦前においてパールバックの『大地』を訳出し(1935年)、モダニズムの評論をおこなったことで有名、政治思想はアナキズムといわれているが、賀川豊彦のいとこにあたる人物。伊丹万作や新居格から田村が受けた影響もあるのではないかと思う。この件は、絵画「裸婦」の出展に関連して、唯物論の本などを隠したというような話が『ちえおくれと歩く男』の中にあったようなところが気になるが・・・。

あとがきの最後には、「装幀並びに挿絵は中学二年生である伊丹さんの遺児、岳彦君にやって貰った。訳文の自由な使用を許して下さった新居格氏と共に岳彦君にも深い感謝を捧げたい」とある。

池内岳彦(本名・池内義弘)は、伊丹万作が本当はつけたかった名前から「岳彦」として呼ばれ、自分でも使っていたが、伊丹十三のこと。伊丹十三は、商業デザイナー、俳優、エッセイスト、TVマン、雑誌編集長、映画監督として縦横に活躍した才人であった。