イングロリアス・バスターズ
2009年/アメリカ
‘ポンコツ映画’の煌めき
総合 100点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
久しぶりではないだろうか。これほど素晴しい‘ポンコツ映画’を観たのは。チャプター1を観終わった時点では誰もが思ったであろう。「今回はクエンティン・タランティーノ監督はマジで撮っている」と。それほど緊張感みなぎる素晴しい出来だった。しかしチャプター2になっていきなりナチの兵士たちの頭皮を剥ぐシーンを観てしまう私たちは「やっぱりふざけているのだ」とB級テイストに安堵する。勿論タランティーノ監督にとってふざけているのはチャプター2以降ではなくてチャプター1の方である。チャプター1のような一流の演出ができるからこそチャプター2以降の自身の映像の記憶を駆使して真面目に撮ったグダグダなストーリー展開が映えるのである。タランティーノ監督はたとえば同じ題材を扱ったトム・クルーズ主演の『ワルキューレ』(ブライアン・シンガー監督)のような真面目さなど端から持ち合わせていない(おそらくブラッド・ピットもトム・クルーズのような真面目さは持ち合わせていないのだろう)。ヒトラーの暗殺など実はどうでもよくて結局全員が相手の言葉尻をとらえることだけに命を賭けることになる。ラストでハンサ・ランダ親衛隊大佐がアルド・レイン中尉と交わしたあのような取引が成立すると本気で考えるわけはないのであるが、やはりチャプター1とのギャップが強烈なB級テイストをもたらしている。その上日本人にとっては終始2つの字幕を見ることになり映像を損ねることになるのであるが、タランティーノ監督にとっては‘おいしい’のであろう。
この作品に関する興味深い批評を一部引用しておきたい。
「悪童タランティーノが何とも始末に負えぬのは、いかにも勝手気ままに振る舞っているようでいながら、間違っても『才能』で勝負しようとしたりはせず、もっぱら地道な努力と勤勉さによって映画と真摯に向きあい、まぎれもない傑作『デス・プルーフinグラインドハウス』(二〇〇七)がそうだったように、努力や勤勉さの痕跡など綺麗さっぱり画面から払拭してみせたりするからなのだ。大いに評価さるべき、『イングロリアス・バスターズ』が傑作たりそびれているのは『キル・ビル』(二〇〇三)や『キル・ビルVol.2』(二〇〇四)のように、努力不足や勤勉さの欠如がときおり無残に露呈されてしまうからではなく、努力や勤勉さの痕跡が完全に払拭しきれずに残存し、ところどころで卓抜な演出家タランティーノの『才能』がスクリーンを輝かせてしまったりするからなのだ。息もつかせぬ出来映えの『デス・プルーフinグラインドハウス』には、そんな場面など一つとしてなかったはずである。」(「映画、あるいは不名誉であることの名誉」蓮実重彦著 映画時評12 『群像』2009年12月号 P.170-P.172)
私の考えは既に書いたようにチャプター1におけるタランティーノの才能の輝きは彼の‘悪意’だと思う。
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