MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

HELLO GOOD-BYE 渡部直己

2018-06-30 00:58:04 | Weblog

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 早稲田大学文学学術院の大学院生だった女性が、文芸評論家でもある同大学の渡部直己教授から性的なハラスメントを受けたとして、大学に提出した「苦情申立書」に拠ると、被害女性は、創作の勉強をするため、2016年4月に早大の大学院である「文学学術院」の現代文芸コースに入学し、渡部教授が彼女の指導教官に就くと、翌年4月、渡部教授から「おまえの作品をみてやるから」と2人きりの食事に誘われ、東京の高田馬場の飲食店「カフェ コットンクラブ」で「おれの女になれ」と言われたらしい。
 プレジデントオンラインの取材に対して渡部は「過度な求愛を……。その時は卒業したらといったと思いますが、『おれの女に』といったとは覚えていませんが……」とか「付き合ってくれという意味じゃないでしょうか。付き合うというか、卒業してもこうやって指導できたらいいということ」とか「教師として不適格かもしれないが、相手が生徒であることをすぐ忘れてしまう」とかつまらない言い訳をしている。
 その後、被害女性が指導教官を変更してもらった後に、偶然渡部に出会った際に、渡部は「卒業できるんですか。単位は大丈夫なんですか。まあ頑張ってください」と笑いながら言ったことで却って被害女性は恐怖を感じるようになるのだが、渡部は「彼女に対して申し訳ないと思っていますが、廊下で会ったのが最後で、その時に謝罪をしそびれてしまいました。その時私が笑っていたのには別の理由があります」と言い訳している。
 さらに被害女性が別の男性教授に相談した際に、「渡部さんに悪気はない」とか「女性の態度にもすきがあり、男性を勘違いさせている」とか「このことを公にすると、現代文芸コースがつぶされてしまうかもしれないので、口外しないでほしい」といった趣旨の発言をしたらしい。
 何が酷いのかというならばこの文藝評論家は一体何のために小説を読んでいたのかということである。散々小説を読みながら結局他人の気持ちが推し量れないのであるならば文学は死んだということでしかない。それとも渡部得意の「テキスト論」というのは女性を口説くためにテクニックでしかなかったのかもしれないが、それにしては取材に対する言い訳にテクニックの微塵も感じさせないのはどうしたことなのか?
 今回の件で「田山花袋みたいで気持ち悪い」という意見を見かけたのだが、それではあまりにも田山が気の毒であろう。少なくとも田山は本人の代わりに彼女が使っていた蒲団の匂いを嗅いで我慢したし、「自首」だし、田山の「言い訳」は『蒲団』という作品に昇華されていまだに読み継がれている。渡部の場合は被害女性による告発であり、渡部の「言い訳」は見事なまでの紋切型でしかない。
 ちなみに渡部は自著『私学的、あまりに私学的な 陽気で利発な若者へおくる 小説・批評・思想ガイド』(2010年7月20日 ひつじ書房)の巻末の「必読リスト100・小説編」に田山花袋の『蒲団』を入れており、そのコメントに「いじこい中年男と文学少女のみみっちぃ恋を描いて何ともセコイ小説だが、そのセコさがいかにも可笑しい! 結末の作り方も参考になる。」と書いている。他人に言う前に渡部自身が「結末」の作り方を参考にしろと言っておきたい。

「たとえば渡部直巳の『本気で作家になりたければ漱石に学べ!』(一九九六)では、『竜馬が行く』で、司馬本人が竜馬に語りかけるところを引用して、ミスだとしている。しかし司馬好きにとっては、こういうところが面白いのだから、ミスだなどと言われても困ってしまう。渡部には渡部の、フロベールを規範とする理論があるのだが、それはしょせん文学イデオロギーでしかあるまい。」(『司馬遼太郎で読み解く幕末・維新』小谷野敦著 ベスト新書 2018.2.20 p.24-25)


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