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筒井康隆と開高健の微妙な関係について

2021-04-25 00:58:44 | Weblog

 筒井康隆の『玄笑地帯』(新潮文庫 1988.5.25)を読んでいたら、「SFは進化しておりますぞ」というエッセイで開高健を批判している。因みに本書は新潮社が1983年4月から1985年3月にかけて出版された筒井康隆全集全24巻の月報を一冊にまとめられたもので、引用している文章は1984年5月の月報に掲載されたものである。

「月刊『カドカワ』五月号掲載『開高健の名著ゼミナール・特選SF小説特集』という読みもの、いやまあ実にけまなましい代物であった。要するにSFを何も読んでいないのである。(……)日本人作家では、小松、星、筒井の作品をひとつずつとりあげているが、小松左京の『継ぐのは誰か?』を評して『彼の長い小説はくたびれるな。なぜかもたれる』『科学的データとか解説が多い』『ネモ船長のような魅力的な人間にぶち当たらない』『ヒーローの不在だな』と、言いたい放題。つまりこのひと、SF嫌いなのである。したがって本質的にSFのセンス・オブ・ワンダーがわからず、勢い小説としての他の側面ばかりあげつらうことになる。二十年近く前、すでに肥満の極に達していたこの作家と六本木のシチリアで会ったことがあり、その時一緒だった小松左京に対してこの作家は『果てしなき流れの果てに』のタイトルだけを茶化し続け、傍で聞いていてずいぶん腹が立ったものであったが、今にして思えば実は読んでいなかったと判断するのが至当であろう。おそらくは『日本沈没』も読んでいないに違いなく、ネモ船長と田所博士の人物造型の深さの差がわからぬのもあたり前だ。星新一に対しては『火星年代記』が好きで『同じようなのを書いてやろうというSFファンの気持が伝わってくる』という無礼な発言をし、とりあげた『地球から来た男』については何も触れていない。『筒井康隆の成功作とされているのは一応読んだけど、どれもみな尻切れトンボだなあ』以下、おれへの罵詈が数行。とりあげているのがおれの唯一の角川の単行本『農協月へ行く』である。竜頭蛇尾だの、『ここに書かれている皮肉は、漫才師の毒舌とあまり変わらない』だの、勿論十年以上前の作品であることなども知らないのだろうが、もはやまともな精神状態で書いているとはとても思えぬひどさである。いやしくも純文学者の癖に、プロのエンターテイナーに対して古臭くも小説の首尾結構やユーモアの質を問題にしようとしているらしいのだが、こっちとしてはもう、ただ、片腹痛いとしか言いようがないのだ。」(p.87-p89)

 ところが開高は小松左京の『地球になった男』の新潮文庫(1971.12.25)にあとがきを書いているのである。

「小松左京の気質と作風にもありありと”いらち”の特長がでています。虚無から哄笑のまで及ぶ広い感情のフィールドを彼は一作ごとに文体を変え、手法を新陳し、テーマを代謝し、手をひるがえし、手をくつがえし、一瞬も停滞しようとしません。長篇、中編、短編、ショート・ショート、原子核から宇宙まで、微視から巨視まで、独白から叙事詩まで、およそ思いつけるかぎり、彼は書きに書きつづけました。ことに初期にはSFという新しい形式を発見した歓びに作者が雀躍しているらしい気配が頁にありありとうかがえるようでした。SFといっても物語なのですから特殊に新しいものではないのですが、”物語”らしい”物語”が純文学界をはじめとしてほとんど絶滅してしまっていたなかでSF作家たちがもたらしたものはそのテーマや挿話の無傷の新鮮さのうちにある原始的なよろこびでした。(……)
 小松左京は星新一氏とならんでこういう禁断症状で渇いている中学生から高級知識人までの読者を壮大に、また、微細に、痛烈に、また、優しく、よろこばせ、たのしませました。(……)
 小松左京は星新一氏はSF界の双璧ですが、この二人の作品をくらべて、ことに両者の”笑い”の相違を考えるのは、興味があります。例外はありますけれど、しばしば小松の笑いはウィットというよりもユーモアであり、ひらいていて、濡れ、肉的です。星新一氏のそれはユーモアというよりはウィットであり、感性であるよりは知性であり、閉じて、乾いています。(……)」(『開高健全集 第20巻』 新潮社 1993.7.5 p.249-p.251)

 これを読む限り開高はSFも純文学も正確に理解していると見ていいと思う。因みに小松左京は『開高健全集 第5巻』の月報に「官能の人」という手記を寄せている。

「故友開高健について書く事は、これが最後になるだろうと思って、この一文をひきうけたのだが、ひきうけてしまってからはたと困惑した。 ー 彼のことについては、すでに生前、解説を五本、新聞などの書評を二、三本書いている。」(1992.4.10)

 開高と小松は同い年で最後まで仲が良かったことが分かると思う。言うまでもなく「日本以外全部沈没」という作品を書いているくらいに筒井も小松とは仲が良かった。

 ところで開高の連載は『今夜も眠れない ー 名著ゼミナール』として角川書店から1985年11月に出版されており、文庫にはなっていないのであるが、筒井の雑な引用部分を確かめるために改めて問題になっている箇所を引用してみる。因みに文章は「教授」と「助手」が酒を飲みながら名著を語り合うという体裁を取っている。だから筒井が「もはやまともな精神状態で書いているとはとても思えぬひどさである」と書いているのはそういうことなのである。この回で飲んでいる酒はムートン・ロートシールト1975年産を2本と、ラフィット・ロートシールト1970年産2本と記されている。

「教授 - 日本のSFはどうかな。大体日本人はあまりお話を創るのが得意でもないし、上手でもないように思うんだけれどね。それでも小松左京が出だした頃、私は好きだった。彼は純文学をやりたかったのか、そうでないのか。いまでも火がくすぶっているのか、もう消えちゃっているのかよく分からないけれど、初めは、彼が純文学を書きあぐねて、それがにわかに着想と文体を発見してSFをやり出した、という感じがあって、一瀉千里、書きに書いた。短篇小説は瞬間の人生だという言葉があるんだけれども、美文調あり、荘厳体あり、随筆調あり、SF調あり、ありとあらゆる発想と文体で、短篇小説を書きまくっていてね。あの頃は面白かった。味がありました。いいエンターティナーが出てきてくれたと感謝してたんだけれど、彼の長い小説はくたびれるな。なぜかもたれる。
 助手 - 科学的データとか解説とかが多いんですね。『継ぐのは誰か?』にしろ他のものにしろ。そこに興味がないとちょっとくたびれます。それとネモ船長のような魅力的な人間にぶち当たらないんです。
 教授 - なるほど。ヒーローが出来ないために不毛に落ち込んで久しいね。人物がいない。
 助手 - 星新一の短篇はわりと好感を持っているんです。『地球から来た男』はブラッドベリの『火星年代記』と同じ雰囲気の作品なんですが、それに奇妙な味が加味されていて、それがこの人の持ち味なんだと思うんです。本当にSFが好きで、『火星年代記』が好きで同じようなものを書いてやろう、というSFファンの気持が伝わってきます。
 教授 - あのいつも漂っている清潔感がみんなに愛されるんじゃないか。筒井康隆の成功作とされているのは一応読んだけど、どれもみんな尻切れトンボだなあ。この『農協月へ行く』も尻切れトンボ。書き出しは洒落てる。真ン中もいいけど、竜頭蛇尾じゃないか。この人はいつもそんな結果が多いよ。
 助手 - それに、ここに書かれている皮肉は、漫才師の毒舌とあんまり変わらないですよ。」(p.187-p.188)

 実は「教授」は開高本人なのだが、「助手」は開高ではなく当時「月刊カドカワ」編集部に所属していた藤本和延であると単行本で明かされており、筒井が激怒している発言はほぼ藤本のものであるが、雑誌掲載時には明かされていなかったのかもしれない。

 先の開高の月刊「カドカワ」の文章と『地球になった男』のあとがきを比べてみると、小松左京と星新一に筒井康隆を加えただけであることに注目してみたい。つまり月刊「カドカワ」の文章は『地球になった男』のあとがきのパロディのようで、筒井は4歳年上の開高にからかわれたように見えるのである。筒井の10年以上前に出版された単行本『農協月へ行く』を取りあげた理由も当時筒井の唯一の角川からの出版物ということでプロモーションのつもりではなかったのだろうか。小玉武の『評伝開高健』(ちくま文庫 2020.10.10)を読むと開高にそのような茶目っ気があるように思うのだが、まさか筒井が『地球になった男』のあとがきを読んでいないとは思っていなかったのであろう。筒井が『今夜も眠れない』を読んだかどうかは定かではないのだが、4年後に開高は食道がんで亡くなり誤解を解く機会を逸してしまう。
 そうなると小松が何故2人の間を取り持たなかったのか疑問なのであるが、小松も2011年に亡くなっており、真相は藪の中である。

 因みに筒井の「農協月へ行く」(1973年)は当時(今も?)問題になった農業協同組合の組合員・准組合員数が農家よりも多く、尚且つ寡占状態で甘い蜜を吸い過ぎた結果、月へ最初に行ける民間人として日本の農協が選ばれるという皮肉が書かれているのであり、決して「漫才師の毒舌とあまり変わらない」ことはないし「竜頭蛇尾」でもないと思う。
 しかしこのように作品を批判し合えていた頃は良かったと思える理由は、『文學界』3月号の新人小説月評を巡って荒木優太の文章を編集部が「批評としてあまりに乱暴すぎる」という理由で勝手に削除しているからである。「乱暴」が削除の理由になるのならば開高の文章も筒井の文章も今は存在しないことになる。


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