「芸術新潮」2011年6月号
ワシントン・ナショナルギャラリー特集。
気になるので読んでみた。
中野京子さんが印象派絵画について解説されている。
いくつか文章を紹介する。
ピエール=オーギュスト・ルノワール 《モネ夫人とその息子》P27

セーラー服はもともと1857年にイギリス海軍が制定した水兵の制服にはじまります。(中略)男児ばかりでなく、年配者も女性も、それこそ猫も杓子も、セーラー服を着るという大ブームだったのです。(中略)日本では1920年、京都のミッションスクールが初めての女生徒の制服に採用しています。(←京都のミッションスクールとは平安女学院のこと・・・但しワンピースタイプだったらしい。byたきやん)
注目したいのは、服装の歴史に“子ども服”が登場した点です。実は18世紀に入るまで、子ども用の服という概念はありませんでした。ただサイズを小さくしただけの“小さな大人の服”しかなかった。啓蒙時代の教育者ルソーが、子どもは大人の出来損ないではなく、固有の権利があると主張したことが呼び水となり、子ども服が誕生しますが、定着には19世紀後半まで待たなければならなかったんでしょうね。
娼婦たちの定期検診 アンリ・トゥールーズ・ロートレック《ムーラン街》P52

1830年ごろのパリには1万人から3万人にも及ぶ娼婦がいたとされています。その数は年を追うごとに増え、第二帝政期の1852年ごろになると、200軒ほどの娼館の存在が知られています。それから20年後、1872年の調査では、娼婦の数はなんと12万人!この数に、当時急増したビヤホールで「きわめて熱心に働く」女性給仕人や、お針子や踊り子をはじめとするグリゼットたちの援助交際を加えたら、もっと多くなることでしょう。
エドゥアール・マネ 《鉄道》P36

モデルの女性は、ヴィクトリーヌ・ムーラン。《オランピア》《草上の昼食》など、職業モデル(これまた娼婦と蔑まれた)として数々のマネ作品に登場しますが、面白いのは後に彼女自身が画家になったこと。同じくマネ作品でモデルをつとめたベルト・モリゾとは階級がまったく異なりながらも、この作品が描かれた3年後には彼女自身の作品がサロンで展示されただけでなく、批評家賞まで受賞します。
(《鉄道》というタイトルのくせに、汽車おらんやんけ、と言われそうだが、後ろの白い煙が汽車である。byたきやん)


(《オランピア》《草上の昼食》とは上の作品・・・同じモデルとは知らなかった。byたきやん)
こちら、同様にマネのモデルをつとめたベルト・モリゾ
ピエール=オーギュスト・ルノワール 《ポン・ヌフ、パリ》P33

印象派の画家たちは、近代化された街を、なにも見たまま描いているわけではありません。だって、馬や犬の糞尿跡が無い(笑)ちなみに、速度制限も横断歩道もなかったこの時代、馬車による交通事故は非常に多かった。法律も、前輪で轢いたら御者の責任だけれど、後輪ならば誰も責任を問われなかったとか。
(なぜかこの絵が好き。惹かれるものがある・・・ポン・ヌフだから・・・?byたきやん)
【関連図書】
→「印象派で「近代」を読む-光のモネから、ゴッホの闇へ」中野京子

娼婦たちの定期検診 アンリ・トゥールーズ・ロートレック《ムーラン街》P52

1830年ごろのパリには1万人から3万人にも及ぶ娼婦がいたとされています。その数は年を追うごとに増え、第二帝政期の1852年ごろになると、200軒ほどの娼館の存在が知られています。それから20年後、1872年の調査では、娼婦の数はなんと12万人!この数に、当時急増したビヤホールで「きわめて熱心に働く」女性給仕人や、お針子や踊り子をはじめとするグリゼットたちの援助交際を加えたら、もっと多くなることでしょう。
エドゥアール・マネ 《鉄道》P36

モデルの女性は、ヴィクトリーヌ・ムーラン。《オランピア》《草上の昼食》など、職業モデル(これまた娼婦と蔑まれた)として数々のマネ作品に登場しますが、面白いのは後に彼女自身が画家になったこと。同じくマネ作品でモデルをつとめたベルト・モリゾとは階級がまったく異なりながらも、この作品が描かれた3年後には彼女自身の作品がサロンで展示されただけでなく、批評家賞まで受賞します。
(《鉄道》というタイトルのくせに、汽車おらんやんけ、と言われそうだが、後ろの白い煙が汽車である。byたきやん)


エドゥアール・マネ 《鉄道》P36
こちら、同様にマネのモデルをつとめたベルト・モリゾ