「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

人間をとりもどす闘い――東奥日報3/6

2009-03-08 11:23:17 | 小林多喜二「一九二八年三月十五日」を読む
「三月十五日につかまつた人々のなかに一人の赤ん坊がいた」。
中野重治の小説「春さきの風」の冒頭だ。
赤ん坊は父親と母親に連れられて、警察の留置場へと。
冷えた状態が朝から続いたために、その日のうちに様子がおかしくなる。

 警察は取り合わず、やっと夜中に家に帰される。だが翌日昼には息を引き取った。
母親は留置場の夫に手紙を書いた。
「わたしらは侮辱の中に生きています」と。

一九二八(昭和三)年の作で、同年全国であった左翼への弾圧、三・一五事件を描いた。働く人たちが食える生活をと旗を掲げ、プロレタリア(無産階級)という言葉が広がったころだ。

翌年には、小林多喜二の小説「蟹工船」が世に出る。
今、若い人たちに読み直されている作品だ。
「春さきの風」が東京の下層風景とすれば、こちらは北海で地獄の目に遭う漁夫たちを描く。
本県や秋田、岩手などの農村から来た出稼ぎだ。タコ部屋の生活に抗して立ち上がるが、不発に終わる。それでも「もう一回だ」と彼らはつぶやいた。

二作とも、侮辱の中に生きねばならなかった人たちの話だ。
むき出しの抑圧があれば、陰湿なそれも。
八十年前、時あたかも世界恐慌前夜の日本の断面でもあった。
その再来が言われている今、これらの作に目が向くのも偶然ではあるまい。


働く貧困層から、働く場もない底辺へと。すべり台のような下降が世のそちこちに。人間を取り戻すには何が要るのか。昭和の初めの風景は、時を超えて現代にも響き合う。

宮本百合子に学び、「3・15」 80周年の2008年を送る

2008-12-31 18:21:09 | 小林多喜二「一九二八年三月十五日」を読む
2008年は、小林多喜二が「一九二八年三月十五日」を発表して80周年という記念すべき年だった。

この点で一番はっきりと当時の権力による弾圧の非道と今日への連鎖を焦点化し一定の成功を収めたのは、9条世界会議での「多喜二分科会」だったと自負する。



そして、もうひとつ、多喜二が「三・一五」党員と呼び、批判対象とした活動のブレーキ層への着目が、今日への教訓として生かされなくてはならないだろう。

この点で、戦後もっともその教訓を明らかにした一文が、宮本百合子が共産党中央機関紙「アカハタ」の1948(昭和23)年3月14日号に掲載した以下の文章ではないかと思う。

百合子が強調しているのは、<今日日本の共産党は十万の党員を組織している。私たち一人一人がみなその十万の一部をなしている。三・一五が二十年目の記念の日をむかえるとき、すべての党員は自分たちがどんなたよりになる党員であるかということについて、よく自分をしらべてみるべきであると思う。>ということである。

自分を顧みることもできずに、他のあらさがしに夢中になり、本来批判すべき対象を見失うとき、この百合子の言葉は痛切に胸に刺さることになる。


「蟹工船」成立80周年の2009年となる。
以下の百合子の言葉をかみしめて、新年への思いを新たにする。




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共産党とモラル――三・一五によせて――


宮本百合子



 三・一五というと、今日では日本の解放運動史の上に、知らない人のない記念日となった。四・一六とならべて今年もわれわれに記念される日であるけれども、大体こういう記念日の今日へのうけとり方というものはよく考えてみると、決して通り一ぺんのものではないと思う。

三・一五の私たちへつたえる教訓は、一九二八年におこった大規模な共産党と共産主義者に対する弾圧は、これを機会に日本の治安維持法が改悪され、特高警察がおかれ、検事に思想係が出来たというだけのことではなかった。

私どもがもっとも銘記すべきことは、この三・一五の被告であった指導者のうち、非常に多数の人が今日の日本の民主化をあらゆる方法で邪魔している階級的裏切者に顛落している事実である。

 佐野学、鍋山貞親、三田村四郎などという今日の勤労階級の敵は三・一五事件のときの日本共産党の指導者たちであった。

 同じ三・一五の被告であった徳田球一、志賀義雄などの人々が、永い獄中生活にもかかわらず、一九四五年十月に解放されてからすぐ共産党の合法的活動に着手したことを思いあわせると、私たちは同じ共産党員といわれる人々の中に、非常な大きい差別があることにおどろく。

 同じ共産主義者といっても、困難な条件におかれたとき、佐野、鍋山、三田村のように共産主義の理論を、自分の身を守るに都合のよいようにねじまげて安全をはかり、しかも治安維持法のなくなったあとまで、勤労階級の民主化と解放を邪魔しつづけている事実は、すべてのまじめな人々を深く考えさせずにはおかない。

 今日日本の共産党は十万の党員を組織している。私たち一人一人がみなその十万の一部をなしている。三・一五が二十年目の記念の日をむかえるとき、すべての党員は自分たちがどんなたよりになる党員であるかということについて、よく自分をしらべてみるべきであると思う。

なぜなら治安維持法そのものはなくなっても、日本の民主化の現状をみれば勤労階級の当面している困難は決して単純でない。佐野、鍋山、三田村達がさかんに策謀している組合、労働組合の民主化運動に対し組合員党員の一人一人がどんなに正しくまたひろい実際性をいかして闘っていくかということを、改めて考えてみるべき日でもある。三・一五の記念日をあの時代のこととして、ただ暦の上でだけ記念するならば全く意味はない。ひっくるめて、三・一五といってしまえば、そのなかには今日私たちがはっきり敵として理解しなければならぬ人々をもふくんでいるのであるから三・一五を記念するならば、三・一五の検挙を通じて今日まで一貫して勤労階級の解放のために闘いつづけている人々を記念しなければならない。

今日の社会事情と党の合法性とのなかで三・一五のほこるべき伝統は、私たち一人一人のなかにどんな具体的な今日の形でうけつがれているかということこそ見極められなければならない。三田村たちが非合法活動の方便に名をかりて、放蕩していたことはすべての文献にのこっている。今日封建性に反対するという名目で私たちの間に性的な放恣がないであろうか。インフレーションはたれの経済生活をもうちこわしている。インフレーションに名をかりて、金の上でのルーズさが案外見のがされているところがあるのではないだろうか。

勤労階級の解放というような大事業をめざしている共産党員がそういうことについて気をくばることは私的な些事であるかのように言う人がある。しかし三・一五の顛落者が金と女にルーズであったことを忘れてはならない。それからのちあらわれたスパイも金と女にきたなかった。金と女というものは現代の社会でもっとも卑俗な欲望の対象であり、また社会矛盾の表現である。

 市民的なモラルの基準になるこういうことさえも、私たちは本当に純潔な階級活動家としてまじめに理性的にとりあげていかねばならない。

 共産党は外の政党と全くちがう本質に立っている。政権をとることが自分の党の利己的な利益と一致した外のあらゆる政党と全くちがう。共産党は新らしい社会をつくるための党であり、より合理的な人間関係を生み出していくための党であるから、外の政党とちがって政党の綱領そのものが、新らしいモラルに立っている。

 二十年の歳月はすべての共産党員が新らしいタイプの政治家――うそをつくのが政治家だと思われていた常識の、全く反対の側に立つ一個のモラリストとしての社会活動家、政治家としてあらわれる責任を求めている。この責任は頭で理解するよりはるかに実現がむつかしい。そのむつかしさがしみじみとわかるとき、私たちが三・一五からくみとるものは、決して当時もちいられていた「はなやかなりしころ」という形容詞ではないことと思われる。
〔一九四八年三月〕




多喜二が愛した女性革命家ローザ・ ルクセンブルクの『 獄中からの手紙』

2008-12-08 01:19:26 | 小林多喜二「一九二八年三月十五日」を読む
小林多喜二「一九二八年三月十五日」の冒頭に、以下のようにローザ・ルクセンブルグの名がある。また「安子」にもローザは登場する。


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 「ローザって知ってるか」夫が楊枝(ようじ)で、口をモグモグさせながら、フト思い出して訊(き)いた。
 「ローザア?」
 「ローザさ。」
 「レーニンなら知ってるけど…… 。」
 龍吉はひくく「お前は馬鹿だ」といった。
 お恵はそういうことをちっとも知ろうと思い、またはそうするために努めた事さえ無かった。それ等は覚えられもしないし、覚えたって、どうにもならない気がしていた。「レーニン」とか「マルクス」とか、それは子供の幸(ゆき)子から知らされたぐらいだった。いったんそれを覚えると、自家(うち)にくる組合の工藤(くどう)さんとか、阪西(さかにし)さんとか、鈴本(すずもと)さんとか、夫などが口ぐせのように「レーニン」とか「マルクス」とかいっているのに気付いた。何かの拍子に、だから、お恵が、「マルクスは労働者の神様みたいな人なんだッてね。」と夫にいったとき、夫が、へえ!という顔つきでお恵を見て、「どこから聞いてきた。」と賞められても、そう嬉しい気は別にしなかった。

 しかしお恵は、夫や組合の人達や、またその人達のする事に悪意は持っていなかった。初め、しかし、お恵は薄汚い、それにどこかに凄味をもった組合の人達を見ると、おじけついた。その印象がそうすぐ近付けないものを、しばらくお恵の気持の中に残した。けれども変にニヤニヤしたり、馬鹿丁寧であったりする学校の先生(夫の同僚)などよりは、一緒に話し合っていて気持よかった。物事にそう拘(こだわ)りがなく、ネチネチしていなかった。かえって、子供らしくて、お恵などをキャッキャッと笑わせたり、初めモジモジしながら、御飯を御馳走になってゆくと、次ぎからは自分達の方から御飯を催促したりした。風呂賃をねだったり、タバコ銭をもらったりする。しかし、それが如何(いか)にも単純な、飾らない気持からされた。だんだんお恵は皆に好意を持ちだしていた。

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岩波文庫に以下の本がある。

ローザ・ ルクセンブルク 「 獄中からの手紙 」
ローザ・ルクセンブルク
秋元 寿恵夫 訳

■白140-3
■体裁=文庫判
■定価 483円(本体 460円 + 税5%)
■1982年5月17日
■ISBN4-00-341403-9

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リープクネヒトの妻となったおさな友達あてに獄中のローザ(一八七〇‐一九一九)が書き送った二十二通の手紙.どの一通からも,逆境にあって少しも変わることのなかった自然や書物に対するみずみずしい感受性,いや何にもまして余りにも人間的であったこの女性革命家の,繊細にして心温かな人となりが伝わってくる.

松本清張が読む多喜二―「昭和史発掘」

2008-12-06 13:56:49 | 小林多喜二「一九二八年三月十五日」を読む
松本清張「昭和史発掘」のなかの多喜二

○作品冒頭

――小林多喜二のことは、すでに多くの研究や考証がなされて、ほとんどこれに加えるものがない。

三十歳にして拷問によって殺されたこのプロレタリア作家は、今日もその作品の評価を色褪せることなく持ちつづけている。

多喜二は短い生涯に終わっただけ彼について研究されるものはすべて出つくしている。さまざまな単行本のほか、「多喜二と百合子」という雑誌さえ発行されて、彼の作品のモデルや生活まで精緻な考証がなされている。

私は、ここで小林多喜二の文学論を書くつもりはない。
また、かつての拙稿「潤一郎と春夫」(第三巻所収)でしたような方法を用いようとも思わない。

ここでは昭和史の進行途上に浮かんだ小林多喜二という特異な作家を浮かばせて当時の雰囲気を描こうとするだけである。

芥川龍之介と小林多喜二とには何となく似通った点がある。
文学的傾向も環境も性格ももとより正反対だ。しかし、どちらも年少にして名を成したこと、若くして死んだこと、どちらも自然死でないこと、昭和初期における二つの傾向の文学がこの両人によって代表されていることなどで、どこか似た感じがする。

吉岡吉典 が読む「一九三二年三月十五日」

2008-12-06 13:44:01 | 小林多喜二「一九二八年三月十五日」を読む
3・15弾圧事件から80年/吉岡吉典
検挙者に現役軍人多数

 今年は一九二八年の日本共産党にたいする全国いっせいの大弾圧、三・一五事件から八十年を迎えます。この事件について吉岡吉典元参院議員から一文が寄せられました。
 今年は日本共産党弾圧事件を代表する三・一五事件八十周年の年である。いろいろと気づいたことを話してみたところ、ほとんどの人に知られていないことがあった。二点ほど紹介しておこう。

有罪で起訴されたものは十数名に
 千六百人が検挙され、五百人近くが起訴された三・一五事件では、現役軍人が三十一人も検挙されていた。戦前、帝国軍隊の中でも日本共産党員が活動していたことについては、「党史」でもとりあげられてきた。しかし、三・一五事件検挙者に現役軍人がおり、しかも全国にわたっていたことは、あまり知られてないようである。もちろん、全く知られていない事件ではない。公表はされていないが、憲兵生活十五年におよび、昭和の戦争時代を憲兵として生きてきたという元東京憲兵隊特高課長、東部憲兵隊司令官大谷啓次郎氏が、四十年以上前に、『昭和憲兵史』(昭和四十一年刊、みすず書房自序)で、「三・一五事件によって検挙された在営軍人は三十一名に上った。そして有罪として起訴されたものは、第一師団二、大阪師団三、小倉師団一など十数名であった」と記している。
 同氏は『皇軍の壊滅』(図書出版)という本でも、「赤化工作に悩む軍隊」などと、当時、軍隊内に共産党細胞(支部)がつくられ、どんな活動をしていたかも含めて、三・一五事件についても述べている。憲兵の立場から見た、日本共産党の軍隊に対する工作や隊内での共産党員の活動の一端を描いている。しかし公式な発表は、戦前も戦後も全くない。
 ともあれ、三・一五事件で三十一人も検挙者が出るほど現役の軍人の中に共産党員がいたことは、天皇の軍隊にとっては、きわめて衝撃的かつ重大なできごとであった。天下に公表するわけにもいかなかったであろう。そもそも、三・一五事件は、我妻栄代表編集『日本裁判史録』(昭和・前)の解説によっても、「日本における唯一の反戦勢力、天皇制ファシズム反対勢力を抑圧して、その後の帝国主義的戦争の諸展開を用意した」と書かれている。その帝国主義戦争の担い手である帝国軍隊の中に、共産党細胞が生まれていたというのは、天皇制権力を震え上がらせる出来事だったと思う。
 三・一五事件やそれに続く共産党弾圧に関する記録を見ると、弾圧しても弾圧しても、壊滅できない共産党、つぶすことができない共産党に「悲鳴」を上げていることがはっきりうかがえる。三・一五事件では、東京帝国大学生など、日本の将来を背負うものの中に多数の検挙者を出したことに、日本の将来への不安を抱いているが、多数の現役軍人の検挙は、この比ではない衝撃であったことはいうまでもない。だからその事実についてのべている記録は、あとでみる帝国議会への秘密報告を含めて私は、公式にそれについてのべたものを知らない。国民の前に、明らかにすることができない出来事だったのである。
 戦前の「日本赤色救援会」が、一九三一年に作った『治安維持法弾圧犠牲者名簿』によると、「三・一五事件判決表」に「軍法会議」の項目があり、「起訴者4」「第一審=人員4、判決109」とある。そして「註 軍法会議は、発表された資料がないので不明なるも大概二年半である」と書かれている。同資料によれば、四・一六事件にも「弘前軍法」の項があり、起訴者一名が「判決3」となっている。詳細にはわからないにせよ、三・一五事件でも、四・一六事件でも、共産党弾圧事件で、軍法会議を開いたこと、つまり、現役軍人の検挙者があったことをあきらかにしている。

帝国議会の秘密会での報告に見る
 もう一つ紹介しておきたいことは帝国議会の秘密会での政府の報告に関してである。
 共産党弾圧関係の帝国議会への報告は、衆議院、貴族院でそれぞれ、昭和三年四月二十五日の「共産党事件の報告」と昭和八年一月二十四日の「共産党検挙に関する件並に五・一五事件に付ての報告」いわゆる一九三二年の熱海事件についての報告の二回である。
 その内容は、戦後も長く非公開であったが、一九九五年、衆院秘密会の速記録も、貴族院秘密会の速記録も公開され、六十八年後にその中身があきらかになった。
 熱海事件は、一〇・三〇事件ともいわれ、「一九三二年十月三十日、三二年テーゼにもとづいて党の再建を図るため、熱海でひらいた、全国代表者会議の際、スパイ松村の手引きで、全員検挙、続いて全国一斉に弾圧した事件」についての報告である。(「第一冊」)

弾圧しても弾圧しても

 公開時の議員は全員衆議院・貴族院の『秘密議事録速記録集』の配布をうけているので読んだ議員から聞かれた方もいるかもしれない話である。
 熱海事件についての小山松吉司法大臣の報告は「昭和三年三月十五日及(および)昭和四年四月十六日の二回に亙(わた)り、全国的一斉検挙を初めと致しまして、昭和五年の二月及同年七月の部分的検挙等に依(よ)りまして、党首脳部委員以下多数の党関係者を検挙致しまして、其都度(そのつど)党組織の上に致命的打撃を加へて居(い)たのであります」。にもかかわらず、熱海事件で、再度三府二十六県にわたり二千五百四十七名に上る検挙を行ったのである。小山司法大臣は、一九二八年の三・一五事件以来一九三二年末までの検挙者は三千九百六十一人にのぼるという報告もしている。
 検挙のたびに「致命的打撃」を与えたといいながら、再度「熱海事件」では、大検挙をおこなわざるを得なかったのである。

検事・判事への注意「ミイラにはなるな」
 なぜ共産党は不死身なのか。科学的社会主義と日本共産党の主張が、人々をとらえる力を持っていたからである。弾圧の当事者小山司法大臣は、議会への報告の中で、弾圧担当官が、共産党事件取り調べのためには、共産主義に関する書物を読まなければならなかったし、それによって共産主義にかぶれるもの、ミイラとりがミイラになることがないようにすることを注意したとのべている。
 「司法部と致しまして、どうぞ御同情を得たい点が一つあります」として次のように述べている。
 「大正十二年の第一次日本共産党事件の検挙の終りました際に、吾々は非常に当惑したのであります、検挙致しました人々は共産党の書物を能(よ)く読んで居る、之(これ)を調べる予審判事は、まあ打明けて申しますと第三『インターナショナル』とは何のことかわからなかったのであります、それでは困ると言うので、遽(にわ)かに盗賊を捕えて何とか云う訳で、何の書物を読もうかと云うので書物を読み始めた位のものでありまして、又知らなければ訊問も取調も出来ないのでありますから、そこで其後思想係と云うものをおきました」(〔一〕)
 その次の部分が注目にあたいする。
 「そうして検事に共産主義の書物を読ませなければならぬのであります、読ませて置いて共産党にかぶれるなと云うのでありますから、是位(これくらい)むづかしい仕事はないのであります、私共は非常に注意したのであります」(同)
 共産主義の書物を読めば、「かぶれる」のが当たり前だと、考えていたのである。共産主義は、読むものをとらえる力を持っていること、つまり真理だということを、帝国議会に報告していたのである。
 「それで度々(たびたび)私共は検察当局と致しまして、検事に向って木乃伊(ミイラ)取りが木乃伊になると云うことがある、そう云うことがあっては困るから、是は国家の為に一生懸命にやって貰(もら)わなければならぬと云うことを言ったのであります」(同)。要するに、共産主義は、魅力満点であろうが、お国のためにかぶれないように一生懸命頑張ってくれという訓示である。

思想検事の旗頭が「左傾止められず」
 そのころ、日本の思想検事の旗頭と言われた池田克という検事は、『警察研究』と言う内部の雑誌(第一巻五・六号、昭和五年)に「日本共産党事件の統計的研究」という、三・一五事件、四・一六事件についての研究論文を掲載しているが、そのなかでつぎのように書いている。
 「今日行われている思想運動、それは社会の内的矛盾拡大の過程に於(お)ける必然的産物であって、天上より降り来るものヽ如く突如として生起したものではない」「筆者の観察に依れば日本共産党事件は之に先行する推移変遷の過程に依って準備されたものである……」(第5号)「端的に之を云えば、共産党事件は甚(はなは)だ多量に社会的要素を含んでいるのである。従って之より引き出さるヽ結論は、従来と同一の社会的条件が存続する限り、人をして左傾思想乃至左傾運動者たらしめることを止め得ないということである」(第6号)
 思想検事が、共産党は、社会の矛盾の産物であり、弾圧で壊滅できないと書き、司法大臣が、共産党捜査、取り調べのために、共産党の書物を読んだ検事や判事が、共産党にかぶれ、「木乃伊取りが、木乃伊になる」事を恐れていると、帝国議会で告白していることも、彼等に与えた衝撃の大きさを示す。「敗北宣言である」。科学的社会主義の優位を証明するものでもあったのだ。
 (引用は現代かな遣いに改めました)
 (よしおか・よしのり 元参議院議員)
( 2008年03月11日,「赤旗」)

新たな3・15が準備されている

2008-12-06 13:39:57 | 小林多喜二「一九二八年三月十五日」を読む
自衛隊員の内部告発で、自民党・公明党政権の横暴が明らかになった。


イラク戦争反対などに参加した市民運動と、民主党・社民党・日本共産党などの議員の反戦運動、無党派層の活動について、自衛隊が極秘裏に情報収集をおこない、違法な思想調査と写真撮影がおこなわれていることが明らかになった。志位和夫氏(日本共産党)が記者会見で明らかにした。


朝日新聞は、この問題を以下のように報じた。


***

情報保全隊―自衛隊は国民を監視するのか


 自衛隊は国民を守るためにあるのか、それとも国民を監視するためにあるのか。そんな疑問すら抱きたくなるような文書の存在が明らかになった。

 「イラク自衛隊派遣に対する国内勢力の反対動向」と「情報資料」というタイトルに、それぞれ「情報保全隊」「東北方面情報保全隊長」と印刷されている。文書は全部で166ページに及ぶ。共産党が「自衛隊関係者」から入手したとして発表した。

 久間防衛相は文書が本物であるか確認することを拒んだが、この隊がそうした調査をしたことは認めた。文書の形式やその詳細な内容から見て、自衛隊の内部文書である可能性は極めて高い。

■何のための調査か

 明らかになった文書の調査対象は03年から04年にかけてで、自衛隊のイラク派遣への反対活動ばかりでなく、医療費の負担増や年金改革をテーマとする団体も含まれている。対象は41都道府県の290以上の団体や個人に及んでいる。

 文書には映画監督の山田洋次氏ら著名人、国会議員、地方議員、仏教やキリスト教などの宗教団体も登場する。報道機関や高校生の反戦グループ、日本国内のイスラム教徒も対象となっていた。

 自衛隊のイラク派遣は国論を二分する大きな出来事だった。自衛隊が世論の動向に敏感なのは当然のことで、情報収集そのものを否定する理由はない。

 しかし、文書に記されているのは、個々の活動や集会の参加人数から、時刻、スピーチの内容まで克明だ。団体や集会ごとに政党色で分類し、「反自衛隊活動」という項目もある。

 これは単なる情報収集とはいえない。自衛隊のイラク派遣を批判する人を頭から危険な存在とみなし、活動を監視しているかのようである。

■「反自衛隊」のレッテル

 文書によると、調査をしたのは陸上自衛隊の情報保全隊だ。保全隊は03年にそれまでの「調査隊」を再編・強化してつくられた。陸海空の3自衛隊に置かれ、総員は約900人にのぼる。

 情報保全隊の任務は「自衛隊の機密情報の保護と漏洩(ろうえい)の防止」と説明されてきた。ところが、その組織が国民を幅広く調査の対象にしていたのだ。明らかに任務の逸脱である。

 防衛庁時代の02年、自衛隊について情報公開を請求した人々のリストをひそかに作り、内部で閲覧していたことが発覚した。官房長を更迭するなど関係者を処分したが、その教訓は無視された。

 調査の対象には共産党だけでなく、民主党や社民党も含まれている。野党全体を対象にしていたわけだ。

 04年1月に福島県郡山市で行われた自衛隊員OBの新年会で、来賓として招かれた民主党の増子輝彦衆院議員が「自衛隊のイラク派遣は憲法違反であり、派遣に反対」と述べた。保全隊はこれを取り上げ、「反自衛隊」としたうえで、「イラク派遣を誹謗(ひぼう)」と批判している。

 イラク派遣の是非は政治が判断すべき問題だ。どういう結果にせよ、自衛隊はそれに従うまでで、政治的に中立であるはずだ。自衛隊にまつわる政策に反対する議員らをそのように扱うことは、あってはならないことだ。

 イラク派遣については、自衛隊のことを思えばこそ反対した人たちも少なくなかった。イラク派遣に反対することが「反自衛隊」だとはあまりにも短絡的な考え方である。自衛隊がそんな態度をとっていけば、せっかく築いた国民の支持を失っていくだろう。

 報道機関を調査の対象にしていたことも見逃せない。

 たとえば、岩手県で開かれた報道各社幹部との懇親会での質問内容が、個人名を挙げて掲載されていた。自衛隊が厳しい報道管制を敷いていたイラクでの活動については、「東京新聞現地特派員」の記事や取材予定をチェックしていた。

 イラク派遣について自衛隊員や地元の人々の声を伝えた朝日新聞青森県版の取材と報道について、「反自衛隊」と記録していた。「県内も賛否様々」と題して両論を公平に伝えたこの記事が、なぜ反自衛隊なのか。

■文民統制が揺らぐ

 自衛隊は国を守る組織だが、それは自由な言論や報道ができる民主主義の国だからこそ真に守るに値する。そうした基本認識がうかがえないのは残念だ。

 防衛省はこうした情報収集について、イラク派遣への反対運動から自衛隊員と家族を守るためにしたことで、業務の範囲内という立場だ。しかし、それはとても通用する理屈ではない。

 忘れてはならないのは、武力を持つ実力組織は、国内に向かっては治安機関に転化しやすいという歴史的教訓である。戦前、軍隊内の警察だった憲兵隊がやがて国民を監視し、自由を抑圧する組織に変わっていった。

 よもや戦前と同じことがいま起きるとは思わないが、よくよく気を付けなければならないことだ。自衛隊を「軍」にするという憲法改正案を政権党の自民党が掲げている現状を考えれば、なおさらである。

 今回明らかになったのは全体の活動の一部にすぎまい。政府はこうした活動について、詳細を明らかにすべきだ。

 守屋武昌防衛事務次官は「手の内をさらすことになるので、コメントするのは適切ではない」という。開き直りとしかいえず、とても納得できるものではない。無責任の極みである。

 こうした事実を政府がうやむやにするようでは、文民統制を信じることはできない。国会も役割を問われている。

***

次に、少し長くなるが、問題を告発した志位和夫氏の会見も全文載せる。

***

(内部告発をうけ記者会見をひらいた志位和夫氏(日本共産党)の発言)

わが党は、陸上自衛隊の情報保全隊が作成した内部文書を入手した。入手した文書はつぎの二種類、計十一部、A4判で総数百六十六ページにおよぶものである。

 (1)第一は、「情報資料について(通知)」と題した文書である(以下「文書A」)。陸上自衛隊・東北方面情報保全隊で作成された文書で、東北方面情報保全隊が収集した情報を、週間単位で一覧表としてとりまとめ、分析をくわえたものである。二〇〇四年一月七日から二月二十五日までの期間のうち、五週間分、五部の資料を入手した。「別紙」として「情報資料」が添付されており、情報保全隊が収集した情報資料が詳細に記録されている。

 入手した「情報資料について(通知)」の「表紙」は、東北方面情報保全隊長から各派遣隊長あてとなっているが、配布先を示すと思われる「配布区分」には「情報保全隊長、東北方面総監部調査課長、仙台派遣隊3部 北部、東部、中部、西部各方面情報保全隊長」と記されている。この文書は、同様の情報が、全国五つの方面情報保全隊(北部方面、東北方面、東部方面、中部方面、西部方面)から情報保全隊本部(東京・市ケ谷)に、定期的に提出されていることをうかがわせるものとなっている。

 (2)第二は、「イラク自衛隊派遣に対する国内勢力の反対動向」と題した文書である(以下「文書B」)。情報保全隊本部が作成した文書で、この文書の「趣旨」として、「イラク自衛隊派遣に対する国内勢力の反対動向」を、「週間単位及び月単位でまとめ」、「今後の国内勢力の動向についての分析の資とするものである」とのべられている。二〇〇三年十一月二十四日から二〇〇四年二月二十九日までの期間のうち、六週間分及び「11月総括」「1月総括」の、六部の資料を入手した。

 入手した資料には、全国の情報保全隊が収集したイラク自衛隊派兵に反対する運動についての資料が詳細に記録されている。この資料には、配布先等は記されていないが、情報提供者によれば、情報保全隊本部から全国五つの方面情報保全隊に配布されていたとされる。

 (3)これらの文書は、自衛隊関係者から日本共産党に直接提供されたものである。文書には、自衛隊内部の者でしか知りえない情報が多数記載されている。党として、文書の記載内容と事実関係を照合する独自の作業をおこなったが、抽出調査したもののうち、事実と照合しないケースは一例もみられなかった。これらから文書の信憑(しんぴょう)性は疑いないものと判断した。


情報保全隊がおこなっていた活動について
 自衛隊の情報保全隊とは、防衛庁長官直轄の情報部隊として、二〇〇三年三月に、それまでの「調査隊」を再編・強化してつくられた部隊である。陸海空の三自衛隊に設置され、隊員数は約九百人とされる。主力である陸上自衛隊では、中央の情報保全隊本部のもとに、五つの方面隊ごとの情報保全隊がおかれている。その任務は、表向きは「自衛隊の機密情報の保護と漏洩(ろうえい)の防止」とされてきた。

 これまで、政府は、情報保全隊にたいする情報開示要求に対して、ことごとく「不開示」として拒否し、「国家の安全」を盾に、この部隊がどのような情報収集活動をおこなっているかについて、いっさいを秘密のベールにつつんできた。

 しかし、わが党が入手した内部文書は、情報保全隊が、国民のあらゆる運動を監視し、詳細に記録していたことをしめしている。

 (1)「文書A」に添付された「一般情勢の細部」は、情報保全隊が、国民のあらゆる種類の運動を監視の対象としていたことをしめしている。そこに記載された多くは、この時期に全国各地で広がった自衛隊のイラク派兵に反対する活動であるが、それ以外にも、「医療費負担増の凍結・見直し」の運動、「年金改悪反対」の運動、「消費税増税反対」の運動、「国民春闘」の運動、「小林多喜二展」のとりくみなどへの監視がおこなわれていたことが記載されている。これは自衛隊情報保全隊が、国民のおこなう運動の全般にわたる監視活動を、日常業務として実施していることをしめすものである。

 (2)「文書B」は、イラク派兵に反対する運動の監視については、特別の体制がとられていたことをうかがわせるものである。情報提供者は、陸上自衛隊の情報保全隊は、「国民的に高まったイラク派兵反対運動の調査を中心的な任務とし、他の情報よりも優先して本部に報告する体制をとっている」、「情報保全隊は上部からの指示で、各方面ごとに反対運動を調査し、各方面の情報保全隊は、情報を速やかに情報保全隊本部に反映するため、毎日昼に前日の反対運動をまとめて報告する」と証言している。

 (3)「文書A」「文書B」によると、情報保全隊は、監視・収集した国民の運動を運動団体別につぎのように「区分」して集約している。

 「P」――日本共産党および「日本共産党系」と区分された労働運動・市民運動など。

 「S」――社会民主党および「社会民主党系」と区分された労働運動・市民運動など。

 「GL」――民主党および連合系労働組合、それに関連すると区分された市民運動など。

 「CV」――上記に区分されない市民運動など。

 「その他」――市民運動、個人、地方議会の動向など。

 「NL」――「新左翼等」と区分された運動など。

 こうした独断的・一方的な「区分」、色分けは、それ自体が集会・結社の自由を侵害する行為であるが、こうした「区分」をみても、情報保全隊による監視対象が、国民のあらゆる運動分野に及んでいることをしめしている。

 それぞれについての記述はきわめて詳細である。「文書A」では「発生年月日」、「発生場所」、「関係団体」、「関係者」、「内容」、「勢力等」などの項目で、「文書B」では、「区分」、「名称(主催団体)」、「行動の形態」、「年月日」、「時間」、「場所」、「動員数」、「行動の概要」などの項目で整理し、詳細に記述されている。そこには多数の個人が実名で記載されている。

 「文書B」に記載されている「反対動向」のうち、「市街地等における反対動向」の監視対象とされた団体・個人は、全国四十一都道府県、二百八十九団体・個人におよび、高校生まで監視の対象とされている。ここにはデモの行動の様子や参加者を撮影した写真も添付されている。

 (4)情報保全隊は、社会的に著名な映画監督、画家、写真家、ジャーナリストなどの活動なども、監視の対象としている。マスメディアの動向についても監視下におき、詳細に記録されている。マスメディアとの「懇親会」の席上で、誰がどういう質問をしたかまで、肩書付きの実名で記録されている。「駐屯地を退庁する隊員に対し取材を実施した」ある大手新聞のメディア記者の行動は、「反自衛隊活動」として記載している。イラク・サマーワに派遣されたメディアの特派員の動向も、詳細に追跡されている。

 各地の市町村議会でおこなわれた「イラク派兵反対決議」についても、その発議者、賛否議員数、議会構成などについて、詳細に記録している。国会議員についても、民主党の国会議員によるイラク派兵への批判的発言と、それへの対応が記載されている。

 宗教団体の活動についても、仏教者やキリスト教関係の団体のおこなった平和運動が監視・記載されている。さらに「文書B」では、「日本国内におけるイスラム勢力等の特異動向」という項目が特別に設けられており、イスラム系団体が組織的・系統的な監視対象にされていることをしめしている。

情報保全隊の活動の全容を明らかにし、違法・違憲の監視活動をただちに中止せよ
 わが党が入手した文書は、軍事組織である自衛隊の部隊が、日常的に国民の動向を監視し、その情報を系統的に収集しているという驚くべき事態を、動かしがたい事実としてしめすものである。こうした活動が、憲法二一条に保障された集会、結社および言論、出版などの表現の自由を根底から脅かす憲法違反の行為であることは明らかである。

 さらに、個人名がいたるところに記載され、デモ参加者にたいする写真撮影がおこなわれていることは、個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利を明記した憲法一三条が保障する個人のプライバシーに対する侵害行為である。「マスコミ動向」の監視は、言論・出版の自由を脅かすものである。地方議会にたいする監視活動は、地方自治にたいする軍事権力による介入である。宗教団体、とくにイスラム系団体にたいする監視は、信教の自由にたいする重大な侵害となる。

 情報保全隊がおこなっている活動は、日本国憲法を蹂躙(じゅうりん)した違憲の活動であるとともに、自衛隊法にも根拠をもたない違法な活動である。

 自衛隊という軍隊が、政府・自衛隊の活動に批判的な市民や政党の活動を監視する――これは戦前・戦中の「憲兵政治」――軍隊の治安機関であった憲兵組織が、やがて国民全体の監視機関となり、弾圧機関となった暗黒政治を今日に復活させようとする、絶対に許しがたいものである。

 これ以上、こうした闇の部隊の活動を隠蔽(いんぺい)・継続することは許されない。わが党は、政府にたいして、情報保全隊の活動の全容を明らかにすることを求めるとともに、違憲・違法な監視活動をただちに中止することを、強くもとめるものである。

蟻の犠牲

2008-12-06 13:38:22 | 小林多喜二「一九二八年三月十五日」を読む
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「一九二八年三月十五日」より


…………工藤は起き上ると、身仕度をした。身仕度をしながら、工藤は今度は長くなると思った。そうなれば、一銭も残っていない一家がその間、どうして暮して行くか、それが重く、じめじめと心にのしかかってきた。これは、こんな場合、何時でも同じように感ずる心持だった。然し何度感じようが、鬼のようなプロレタリア解放運動の闘士だとしても、この事だけは何処迄行こうが慣れッこになれるものでは断じてない、陰鬱(いんうつ)な気持だった。組合で皆と一緒に興奮している時はいい、然しそうでない時、子供や妻の生活を思い、やり切れなく胸をしめつけられた。プロレタリアの運動は笑談(じようだん)にも呑気(のんき)なものではなかった。全く!

 お由は手伝って、用意をしてやると、

「じや、行っといで」と云った。

「ウム。」

「今度は何んだの。当てがある?」

 彼は黙っていた。が、

「どうだ、やって行けるか。長くなるかも知れないど。」

「後?――大丈夫」

 お由は何時もの明るい、元気のいい調子で云った。

 漠然ではあるが、何んのことか分っている一番上の子供が、

「お父(どう)、行(え)ってお出(え)で。」と云った。

「こんな家へ来ると、とてもたまったもんでない。」警官が驚いた。「まるで当りまえのことみたいに、一家そろって行ってお出で、だと!」

「こんな事で一々泣いたりほえたりしていた日にゃ、俺達の運動なんか出来るもんでないよ。」

 工藤は暗い、ジメジメさを取り除くために、毒ッぽく云い返した。

「この野郎、要らねえ事をしゃべると、たたきのめすぞ。」

 警官が変に息をはずませて、どなった。

「気をつけて。」

「ウム。」

 彼は妻に何か云い残して行きたいと思った。然し口の重い彼は、どう云っていいか一寸分らなかった。妻が又苦労するのか、と思うと、(勿論それは自分の妻だけではないが)、膝のあたりから、妙に力の抜ける感じがした。

「本当、どうにかやって行けるから。」

 お由は夫の顔を見て、もう一度そう云った。夫はだまって、うなずいた。

 戸がしまった。お由は皆の外を歩く足音を、しばらく立って聞いていた。

 自分達の社会が来る迄、こんな事が何百遍あったとしても、足りない事をお由は知っていた。そういう社会を来させるために、自分達は次に来る者達の「踏台」になって、さらし首にならなければならないかも知れない。蟻の大軍が移住をする時、前方に渡らなければならない河があると、先頭の方の蟻がドシドシ川に入って、重なり合って溺死(できし)し、後から来る者をその自分達の屍を橋に渡してやる、ということを聞いた事があった。その先頭の蟻こそ自分達でなければならない、組合の若い人達がよくその話をした。そしてそれこそ必要なことだった。

「まだ、まだねえ!」

 そうお由はお恵に云った。

 お恵は半ば暗い顔をしながら、然し興奮してお由にうなずいてみせた。

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「蟹工船」には、こういう描写がある。

蟹工船のなかでの、映画上映会でのシーンである。

ここで、資本主義が、「未開地」を侵略的に「開拓」する「事業」について描いている。

ここには、「蟻」の犠牲がとらえられている。


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 それから西洋物と日本物をやった。どれも写真はキズが入っていて、ひどく「雨が降った」それに所々切れているのを接合させたらしく、人の動きがギクシャクした。――然しそんなことはどうでもよかった。皆はすっかり引き入れられていた。外国のいい身体をした女が出てくると、口笛を吹いたり、豚のように鼻をならした。弁士は怒ってしばらく説明しないこともあった。

 西洋物はアメリカ映画で、「西部開発史」を取扱ったものだった。
 ――野蛮人の襲撃をうけたり、自然の暴虐に打ち壊(こわ)されては、又立ち上り、一間(いっけん)々々と鉄道をのばして行く。途中に、一夜作りの「町」が、まるで鉄道の結びコブのように出来る。そして鉄道が進む、その先きへ、先きへと町が出来て行った。――其処から起る色々な苦難が、一工夫と会社の重役の娘との「恋物語」ともつれ合って、表へ出たり、裏になったりして描かれていた。最後の場面で、弁士が声を張りあげた。


「彼等幾多の犠牲的青年によって、遂に成功するに至った延々何百哩(マイル)の鉄道は、長蛇の如く野を走り、山を貫き、昨日までの蛮地は、かくして国富と変ったのであります」

 重役の娘と、何時(いつ)の間にか紳士のようになった工夫が相抱くところで幕だった。

 日本の方は、貧乏な一人の少年が「納豆売り」「夕刊売り」などから「靴磨き」をやり、工場に入り、模範職工になり、取り立てられて、一大富豪になる映画だった。――弁士は字幕(タイトル)にはなかったが、「げに勤勉こそ成功の母ならずして、何んぞや!」と云った。
 それには雑夫達の「真剣な」拍手が起った。

 然し漁夫か船員のうちで、
「嘘(うそ)こけ! そんだったら、俺なんて社長になってねかならないべよ」
 と大声を出したものがいた。

 それで皆は大笑いに笑ってしまった。

 後で弁士が、「ああいう処へは、ウンと力を入れて、繰りかえし、繰りかえし云って貰いたいって、会社から命令されて来たんだ」と云った。

 最後は、会社の、各所属工場や、事務所などを写したものだった。

「勤勉」に働いている沢山の労働者が写っていた。


 写真が終ってから、皆は一万箱祝いの酒で酔払った。
 長い間口にしなかったのと、疲労し過ぎていたので、ベロベロに参って了(しま)った。薄暗い電気の下に、煙草の煙が雲のようにこめていた。空気がムレて、ドロドロに腐っていた。肌脱(はだぬ)ぎになったり、鉢巻をしたり、大きく安坐をかいて、尻をすっかりまくり上げたり、大声で色々なことを怒鳴り合った。――時々なぐり合いの喧嘩(けんか)が起った。
 それが十二時過ぎまで続いた。
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こういう「犠牲」は、203高地と共通のものだろう。
賛成できない。

「義」に「虫」であり。

「義」は、もともと「羊」と「我」からなる漢字だ。

「羊」はスケープ ゴートではない。
それは西洋かぶれだ。


中国で「羊」は、「祥」であることを忘れてはならない。

「蟻」を解いていわく、我は吉祥なり。