◎人々の像...
・佐々木安治の場合・・・・・志賀直哉「佐々木の場合」からの影響、「安子」の組合の仲間佐々木、「転形期の人々」の佐々木。佐々木は小樽高商の「学連」に属し、軍事教練反対運動に参画した経験がある。「地区の人々」の〈佐々木芳之助〉は、N鉄工所に勤める19歳の職工とともにビラ貼りなどをし、「地区魂」をもう一度見せてやる、と運動する。
・伊藤ヨシの場合・・・・・「プロレタリアの修身」の伊藤。「安子」月形村の娘(山上ヨシ)。「転形期の人々」の「断稿」では、大村龍吉一家の妹ヨシ。「母たち」の伊藤、「沼尻村」の要吉の妹・ヨシエ。
「疵」初出:『帝国大学新聞』1931(昭和6)年11月23日発行第408号(挿絵/鈴木賢二)=〈中山のお母さん〉が話した談話である。中山の娘は、左翼運動の〈レポーター〉=連絡係をやっては警察に検挙されていた。そのたびに母は、頭を下げて娘を引き取っていた。スパイが家に来るとお茶を出し、連絡のつかない娘の居場所を逆にうかがっていた。ある日突然娘が帰宅し、2人は銭湯へ出かけた。そのとき、母は娘の身体のいたるところにある紫色のキズを眼にして衝撃を受ける。娘は、このキズが警察でやられたものであること、だからスパイにお茶を飲ませてやることなんて間違いだと笑いながら言った。娘は今、刑務所へ入っている。中山の母は、今でも娘の身体のキズが忘れられない。
・母の場合 佐々木の「母」、伊藤の「母」・・・・・「母たち」初出:『改造』1931(昭和6)年11月号=京で左翼活動をしている〈お前〉=伊藤に宛てた、運動に理解ある故郷の姉からの私信というかたちをとっている。私信の概要は、〈故里〉で起きた1930年「十二月一日事件」の際に検挙された活動家の母たちの様子である。
この事件では、伊藤の妹も検挙された。息子や娘が連れ去られ、家宅捜査を受けたとき、ある母は息子よりも落ち着いて特高に対応し、ある母は半狂乱になった。
その後、伊藤の母も含め、検挙された子供たちを持つ母たちが集まり、互いをねぎらった。しかしその際、伊藤の母は、上田の母と大川の妻に、伊藤たちが息子や夫を運動に引きずり込んだと非難されてしまう。運動の理解者である山崎の母や窪田が、上田や大川などの生活を改善するために伊藤たちが先頭に立っているのだと説得するが、聞き入れられなかった。
まもなく公判が始まり、母たちは法廷へ駆けつけた。
山崎の息子は、公判で転向の意を述べ、運動の協力者であった母は愕然とする。一方、伊藤の妹と上田は非転向だった。そのため上田の母は取り乱してしまった。この手紙は、監獄では労働者出身のものが頑張っているのに、外では労働者とインテリの立場が反対になっていることなどの問題に対し、運動の進んでいる東京にいる〈お前〉の考えを訊ねる言葉で結ばれている。
・須山の場合 「村の事件」の須田。
・笠原の場合
・ヒゲの場合
・太田の場合
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