ひとりごつ

ラヴ・ピース・フリーダム

イスラエル

2016-05-03 22:32:53 | 中東旅行
仕事にだいぶゆとりが出てきまいて。また2年近い月日を経て更新したいと思います。

といっても写真でさくっと振り返るぐらいにしておこうかと。

あまり文章出てくるほど覚えてないのが残念なこって。

時間空き過ぎて残念。


日本人でタクシーに乗り合い国境を越え、イスラエルへ。

ここの入国審査官が意地の悪いヤツで、「行けない国が出てきちゃうのでスタンプ押すの勘弁してつかぁさい」と懇願したにも関わらずスタンプ押してやがったという。

まぁそんなこんなしてる数時間でイスラエルの首都とされているエルサレムに到着、雨も降ってましたがさっそく街をプラプラしてみました。

かの有名な嘆きの壁。


街行く人々は正統派とでも言うんでしょうか、あの帽子かぶってヒゲ伸ばしたユダヤ人もちょこちょこ見かけましたが、ほとんどはアラブ系の人たちだったように見受けられました。

それからネットで調べて知ったシルワン地区というところにも足を伸ばしてみました。

ここはイスラエルによりパレスチナ人の家屋が破壊され立ち退かされているという場所。

ちょろっと工事中のような場所の写真を撮れました。


パレスチナ人の小規模なデモのようなものもあり、あまり治安はよくなさげ。

宿へ戻ろうと歩いているとパレスチナ人に握手を求められましたが、シリアやヨルダンの人々と違いなんだかやり場のない怒りを抱いてるようでちょっとビビりました。

あとここら辺はアラブ人の男性二人組が仲よさげに歩いているのをよく見かけました。

アラブ人の男性がカップルかと見まごうほど仲良くするのはそんなに珍しいことではないそうですね。


さて翌日、この日は東日本大震災が起きた日でした。

ネットで知ったのですが、とりあえず地元が無事なのを確認して旅を続けることにしました。

この時に「楽しそうに海外遊び歩いてるのは不謹慎なのか?」と自問することもありましたが、結局どうすることもできないよなという結論に達し、普通に旅をしました。ツイートはさすがに控えたんですが。

この日はイエスが生まれたとされるベツレヘムへ。

途中でパレスチナ自治政府の管轄下へ行くんですが、ここが国境のようになっていて。

パレスチナ人とユダヤ人で通り抜けの大変さが全然違いますね。

途中の道でユダヤ人の入植地を見かけました。



そうしてるうちにベツレヘムに到着。アラブ人がいっぱいで、ちょうど礼拝時に遭遇。


ここら辺を歩いていると外国人観光客から「日本は大丈夫か?」と心配されたものです。

さて、イエスが生まれたとされる場所にある降誕教会に行ってみました。


中はこんな。




んでここがイエスが生まれたというスポットです。


おれが訪れた翌年の2012年に世界遺産(危機遺産)に登録されたそうです。


その後はパレスチナ自治区と外界を隔てる外壁を近くで見てみました。


「現代のアパルトヘイトだ!」ということで、日本語を含むいろんな言語でこの壁に反対する落書きが描かれていました。

当時流行ってたYes We Canとも描かれてましたね。


さて、ベツレヘムの観光を終えてエルサレムに戻り、再び旧市街を歩いてみました。

イスラームの聖地岩のドームとユダヤ教の聖地嘆きの壁ってすぐ側というか、一体というか、なんですね。


この写真では少しわかりにくいんですが、嘆きの壁前の広場でユダヤ人の青少年がフォークダンスを踊っていました。

ユダヤ人とフォークダンスといえば、あのマイムマイムもユダヤ人の楽曲です。

ウィキペディア見てみると面白いことがいろいろ書いてありますね。


夜は一緒にイスラエルに来た日本人とオリーブ山へ。

オリーブ山も聖書読んでるとちょこちょこ出てきますよね。

ここから夜の旧市街を見下ろしました。


手前に写ってるのは勝手に桜かもと勘違いしてた植物で、恐らくアーモンドです。



そんな短い2泊3日のイスラエル観光を終えてアンマンへ帰ります。

着た時と同じ日本人メンバーで国境を越え、ヨルダンへ。

途中のタクシーからはスペイン人のおばさんが乗ってきたんですが、英語ペラペラでご機嫌な人でとても仲良くなりました。

国際機関で働いているそうで。

他にも国境でアラビア語ペラペラの白人男性がいてちょっと感銘を受けたり。

おれもアラビア語を話せるようになりたいなと強く思ったときでした。



次はまたヨルダンです。

ヨルダン1

2014-07-30 20:03:03 | 中東旅行
またご無沙汰しました。

ブログから遠ざかった最近思ってるのは、誰かに見られる前提でブログを書くのは思考のトレーニングだと。

また、ノートとっても字が汚くて自分で読み返せないおれにとっては貴重なメモになるんだとゆうこと。

そうゆうわけでまたブログを書いてくためにも、この旅日記を終わらせたいと思います。


んでダマスカス飛ばしてヨルダンにもう入ってしまいます。

とゆうのも、ダマスカスにいたのは2011年の3月8日(火)なんですけども、行こうと思ってた博物館やらが全部休んでまして。

市場だとかダマスカス城なんかも基本的にアレッポだとかとあんま変わらず、特筆すべきこともなく。

しかもビザの時間切れが迫っていたのでろくに滞在せず、スパスパ水タバコだけエンジョイしてシリアを出ちゃったんですね。

まぁこの頃に感じてたことを話すと、パン系のメシが数日続くとパン系のものが食えなくなること。
こんな。


米国留学時代とかはほぼ毎日米食ってたし、だから米に本格的に餓えたのがこれが初めてで。

語学学校の時にパレスチナ人たちがもてなしてくれたアラブメシで味ついたライスにチキン、ヨーグルトってのがあったんですけど。

しばらくぶりにこの米料理を見た時は腹グーグーなってめっさ食えました。



さて、ダマスカスを8日に出てその日のうちに余裕でヨルダンの首都アンマンに着きます。

アンマンに着いたらとりあえず近くにあったホテルにチェックインして明日の死海ツアーを予約。

その後アンマンをプラプラしてたら噂に聞いてた日本人宿、コーダホテルを発見しました。


香田さんっておれが高校くらいの時かな、イラクで人質にとられて首切られ、動画が出回ってましたね。

ホテルの開業者が香田さんが泊まってた宿の従業員だったとき、イラクに向かう香田さんを止めることができなかったと。

それを悔いて自分でこのマンスールホテルを開業したときにコーダの名前を入れたんだそうです。

今働いてるのはルアイさんって人で、まぁ日本人宿の人らしく友好的でいい人です。

ただ女性は気を付けたほうがいいかも。

イスラム圏の男性は異教徒には何してもいいって思ってる節があるらしく、結構女性がしつこく言い寄られたりってのがあるみたいです。

聞いたとこによると、どこか別の国ではホテルの従業員に襲われるようなこともあるそうです…。

あと近所に安い食堂みたいのがあって、そこはコーダホテル宿泊客がよく行くのか、日本語でメニューの説明がありました。

でかい愛想のいいおっさんが店主なんですけど、微妙に少しづつ値段を上げてぼろうとしてくるのでそこは注意です。

当時はリビアでカダフィが反政府軍と戦ってた頃で、アルジャジーラを見ながら「カダフィ、クレイジー」って連呼してました。


翌3月9日の朝、宿泊先をコーダホテルに変えてから昨日予約した死海ツアーへ参加します。

他のツアーメンバーはあんま覚えてないんですがフランス人のおじいさんによくしてもらいました。

まずはモーセが死んだと言われてる場所です。

ここには石碑がありました。


あとはそばにあった教会の床がモザイク画になってるってことで、かなり貴重らしかったです。

これは地中海の地図かなんかですね。



そこを出て移動中にベドウィンのテントを発見。


こうゆうのよく見かけました。


そして次にヨルダン川へ。

車を置いてしばらく歩いていきました。


ヨルダン川はイスラエルとヨルダンの国境になってますし水位も浅いので、余裕でイスラエル側にも歩いていけそうです。

向こうとこっちの観光客が川を隔てて手を振り合いました。


ここら辺はイエスが洗礼を受けたとされてるスポットとかもあります。


モーセが死んだとかイエスが洗礼をとかどんぐらい信憑性があるかはわからんすけどね。


そいで次が待ちに待った死海です。

おれらが行ったとこはリゾートみたいになってましたわ。


泥エステみたいのもビーチでやってました。

んでうまく撮れなかったんですが、撮りたかった写真を撮りました。


ご存知と思いますが死海は塩分濃度がめっちゃ高いんですね、だからどんなしてても浮きます。

どう表現したらいいのか難しいですが、ウェットスーツ着てるような感じですかね。

おれが撮りたかったのはプカプカ浮きながらキンドルで電子書籍を読むとゆう図。

フランス人のおじいさんが辛抱強くいいショットを撮ろうと頑張ってくれてました。

ただ、ビーチら辺はミネラルが固まって岩みたいになってるのがゴロゴロしてますんで。

適当に浅瀬に流されて塊にぶつかり、背中から流血しました。サンダルは必須ですね。


そんなこんなの一日死海ツアーでした。

ツアー後はフランス人のおじいさんの宿に行き、ギリシャで飲んだウゾみたいな蒸留酒をいっぱいもらってコーダホテルへ帰りました。

コーダホテルへ帰ってからはイスラエルへと渡ろうとしている日本人を捕まえ、タクシー代を割って安く行こうって話をつけてさっさと寝ました。

ヨルダンパート1はこんな感じです。

相変わらず下調べもろくにしてないので、薄い経験談しかないですね。

次は2011年3月10日、イスラエルへ向かうところからです。

アレッポ

2013-10-20 09:20:17 | 中東旅行
前回の記事に「桜が咲いてた」と書いたんですが、どうもこれアーモンドの花だったみたいです。

2年越しの勘違い笑


それでトルコとシリアの国境にバスが着きます。

着く直前くらいのバスの運転手から「みんなビザはあるね?」みたいな確認。

おれだけなくって運転手が「現地で取れなかったら帰ってもらうぜ」と。

ネットとかで調べると確かに現地で取れるって人と同じくらい「リスクがあるので前もってとっておきましょう」って人もいるんすね。

ちょっと不安になりながら到着、そしてビザなし外国人として入国審査みたいのを受けます。

多分30分くらいかな、時間はかかったけどなんとかなりました笑

アルメニアのビザとか、「なんだこれは!?」とかいろいろ言われながら、3日間のトランシットビザをゲットです。

普通一週間とかもらえるらしいですが、もらえただけラッキーです。


この時印象に残ったのが欧米人の国連職員とかがバンバン入国してったのと、ずっと相手にされないパレスチナ人。

パレスチナ人は、本人たちがそう言ってただけで違うのかも知んないですが、故郷に帰りたいのに入れてもらえないと。

理由はよくわからんのですが、やっぱパスポートがイスラエルで発行されてるとかなのかなぁ。

それともこのまま入国されて不法移民的に定住されたら困るとかって話なのか。


無事に入国して砂漠とゆうか荒野を行きます。

学生時代を過ごしたユタを思い出しますね。


途中メシ休憩とかトイレ休憩とかあったんですが、アラブもインドと同じでクソした後のケツは水洗いです。

おれはどうしても勇気が出ず、外国人が泊まるようなホテルとかでクソしてました。


そんな感じで夕方にアレッポに着きました。

アレッポはダマスカスに次ぐシリア第二の都市で、古い歴史があるみたいです。

こないだテレビで内戦によって破壊された街の写真を見ましたが、この頃はまだ平和でした。

宿にチェックインしてスタッフさんからいろいろ情報収集。

翌日はそこでたまたまいた日本人のおねえさんと行動をともにすることになりました。

まずはスーク。商店街です。


次はアレッポ城。


アレッポ城は丘(人工の盛り土?)の上にあって、そこから市街を見渡してみます。

ちょっと空気が汚くて遠くまでは見通せません。


前にいるのは小学生の遠足かなんかでしょうか。


この子たちはおれら外国人を見るやギャーと大騒ぎ。手を振ってくれます。スターになった気分です。

子供たちだけじゃなく、若いにーちゃんとかも「写真撮らせてくれ」と言っておれらの写真を撮っていきます。

シリアではアジア系が珍しいんでしょうか。


アレッポ城の次はここら辺で大きめのモスクです。


モスクは男女別なんでそれぞれ別れて見学しました。

モスクの後は隊商宿をペルシャ語でキャラバンサライと呼ぶらしんですが、そのエリアとか。


24時間テレビで流れるサライってのもこのサライから来たらしいですね。


スークの外を歩いててもあちこち商店だったり路上の物売りとかがいます。

この人は蜂蜜売ってました。


こんな蜂の巣ごと売ってるの今まで見たことがなかったんで、身振り手振りで一口食いたいと伝えたら、タダで一切れ試食させてくれました。

なんて優しい。そして甘くてうます。

あとは木の実みたいの売ってたり。



そんなこんなであっとゆう間に一日が過ぎました。

おれには時間がないのでこのままダマスカスへ向かいます。

日本人のおねえさんはレバノンに行くとゆうことで、また途中まで同じ長距離バスに乗ることに。

ところが、長距離バスターミナルへの行き方がようわかりません。

ローカルなバスとか乗り方難易度高いし。

まぁそこら辺の人に聞けばわかるだろうとか思って宿を出発して、とりあえずローカルなバス停をうろちょろして、優しそうなおじさんに声をかけてみました。

したら着いて来いとの身振りなんで、彼にくっついてローカルバスに乗って移動。

十数分くらいで長距離バスのターミナルへ着いたんですが、このおじさんがさりげなく二人分のバス料金を払って、そして「君のバスはあれ、君はあっち、じゃあ気を付けて」と言って去っていきます。

なんと見ず知らずの旅行者のために身銭と時間を使ってわざわざ道案内をしてくれてたようです。

おれらはもうシュクランと言うしかなかったですわ。

この人に限らず、アレッポで絡みがあったシリア人はいい人多過ぎです。

イスラームの教えで旅人を大事にしろってのがあるらしんですが、それにしてもですよ。

この時の思い出があるからシリア大好きだし、今の状態がホントに悲しいです。

アテネで同じ部屋だった韓国人のおねえさんが言ったとおりでした。


そんな暖かい気持ちでアレッポを離れダマスカスへ向かいます。

石油産業は大きくはないらしいシリアですが、こんな光景を目にしました。


フレアスタックってゆうらしんですが、油田の煙突から炎が出て余剰ガスを処理してるんですね。

カッパドキア

2013-06-11 15:45:20 | 中東旅行
今朝新聞を読んでみたらトルコでデモが起きてるとか。

何が理由なんですかね?すいませんね疎くて。

エルドアン首相といえば欧米やイスラエルに言うこと言うからアラブからも一目置かれる政治家だとゆう印象しかなかったですが。


さて、パムッカレの次はカッパドキアです。

パムッカレからやはりカッパドキアへ夜行バスでした。

直通ではなくてそばで乗り換えとかあったと思うんですけどよく覚えていません笑

とりあえず朝八時頃着いて、やっぱり情報がないので、一緒にいた英語のわからない若いフランス人女性と同じ宿に泊まることに。

カッパドキアは洞窟ホテルで有名なんですね、ってかここら辺のホテルはみんな穴の中だそうで。


中はこんな感じ。


電波は入らないけど、まぁ電気は通ってるし生活できます。

ここは後で触れるとおり、岩が柔らかかったからか昔の人たちが穴の中に住んでたらしく。

隠れてクリスチャンとかが生活してたとかって話も。

だから地下街ツアーとかもあるんですね。


おれはゆっくりしてる時間がないので、とりあえず宿でツアープランを見せてもらいました。

赤と緑と分かれたコースがあり、バルーンツアーもあり、あとはチャリを借りてツーリングもできるそうです。

おれはどっちか忘れたけど地下街が含まれてるヤツを選びまして。

カッパドキアは岩とか荒野が織りなす景観が日本人には凄い感動を与えるらしんですけども。

ユタで四年間過ごしたおれにはまぁこんなもんかって感じ。

逆に言えばユタもよっぽど凄い場所なんだなと思いましたわ。


まぁフェアリーチムニー(妖精の煙突)って呼ばれる面白い形をした岩とかを見ました。


あとは人が住んでいた岩。


この中にはキリスト教の教会もあり、壁画とかが残っています。



それから希土戦争までギリシャ人が住んでて戦後いなくなって廃墟になったってとことか。


後は蟻塚みたいなヤツとか。


こうゆう中に地下街とゆうか地下要塞ができてて、なかなか面白かったです。



カッパドキア一日目はそんなところを観光し、二日目はバルーンツアー。

パムッカレでパラグライダーできなかった無念もあり、バルーンツアーはかなり楽しみにしてました。

この時は日本人のおにいさん、中国本土から来てて英語もできる中国人夫婦とかと一緒のバルーンでした。


バルーンツアーはいろんな旅行会社が企画してまして、火を焚いて空へと舞い上がるバルーンが多数。


エジプトでバルーンが落ちる事故が起きて問題になりましたね。

おれも「落ちたらヤバくね!?」って恐怖心は強かったです。実際怖い。

それと同時に結構景色はキレイです。


ユタだとかも、グランドキャニオンとかのバルーンツアーを安く組めたら売れるんじゃないかのう。


そのうちだんだん下降してって終りです。


降りてからはシャンパンでお祝いしました。


あとカッパドキアで初めて本場トルコアイス食いました。


それとこのツアーではここら辺で有名な陶芸(?)をやってる現場にも行きました。



まぁそんな感じのカッパドキアでした。

いろんな国からの観光客・バックパッカーも多くって、宿での情報交換が活発だったイメージがあります。

おれも実はここでイランのほうから来た中華系オーストラリア人の助けを得て、イランビザをオンラインで取得しようとしました。

結局時間がなくてダメだったんですけど。


おれは二日でカッパドキアを離れ、グルジアへ向かうことに。

かなりの長距離なので、途中のバスターミナルで休憩したんですけども。

サッカーの試合かなんかがあったのか、バスターミナルがお祭り騒ぎ。


おれが外国人であると見るや「ニッポン最高イェー」みたいになって、このバカ騒ぎにおれも巻き込んでくれました。

トルコ人は人懐っこいところもあって良かったです、いい思い出になった。

んで次はコーカサス地方に入ります。

パムッカレ

2013-06-10 10:59:01 | 中東旅行
さて、アテネで会った韓国人のおねえさんから情報収集した結果行くことに決めていたパムッカレです。

イスタンブール19時半発のバスで、パムッカレに着いたのは翌日の早朝。

バスターミナルで他のお客さんを迎えに来ていた宿の人に誘いを受け、とりあえずおれもそこへ泊まることに。

まだ時間が早すぎるのでとりあえず寝ました。


起きてからその宿で組んでもらったパムッカレツアーに行きます。

トルコ人ガイドさんと日本人のおねえさん二人組と白人旅行客が何人かってメンツ。

今回はそんなに他のお客さんとの絡みが少なかったですが、日本人のおねえさんってのが旅行会社の人たちで。

最初はそんな行く気なかったカッパドキアですが、昼飯の時に彼女たちに勧められて行くことになったという。

まぁとにかく今はパムッカレです。


パムッカレとゆうと、ウィキペディアのページを見ればすぐわかるんですが、石灰を含んだ温泉が出ていて、それが棚田のような景観を作り出してます。

下の写真なんかがまさに源泉って感じですね。


それに加えて、まぁテルマエロマエで出てきたみたいに風呂好きなローマ人が温泉に魅せられて作ったんでしょうか、ヒエラポリスっちゅうローマの遺跡もあります。


トルコのローマの遺跡は別の機会にエフェソスに行ったんですけど、保存状況いいなと。

このヒエラポリスも修復とかされながら、例えばトイレだとかお墓だとか、当時の生活が偲ばれるものがいっぱい残ってます。

ローマの遺跡といえば定番の劇場なんかも。



今回のツアーのコースとしては、まず丘の上にあるヒエラポリス遺跡を見て、その中にある遺跡温泉に入って、石灰華段丘を歩いて下るって感じ。

んで遺跡温泉ってのがこれ。


もちろん海外の温泉ってことで水着で入るんですけど。

温泉の中に多分本物と思われる遺跡が入ってるんですよね。これはなかなか面白い。

んでちょっと深いところがあったり、場所によって温度差があったり。ちょうどいいところを探して泳いだりしました。

とにかく外気温が低くて白人客は入らず、日本人のおねえさんたちもおれが入るから入ってみるかみたいな感じで。一時間弱を楽しみました。


んでいよいよ白い石灰華段丘を下ります。


キレイだし、神秘的でしょ。


天然のものがどんどん壊れてってるとゆうことで、ハイキングコースは人工のものになってます。


言葉足らずでですね、このパムッカレも観光地としての魅力は凄いものがあるんですが。

おれには表現し切らないですね。

あとパムッカレではパラグライダーもできるんですけど。

このパムッカレツアーの次の日、日本人の東大生バックパッカーと一緒にいい風が吹くのを待ったんですけど。

ダメでしたね、天気に左右されるからパラグライダーは難しいな。


そんな感じのパムッカレ。次はカッパドキアです。