米国カトリック司教委員会(?)の委員長を務めるローマカトリックの枢機卿、フランシス・ジョージが
モルモン教の学府、BYUで講演をしました。
テーマは「カトリックと末日生徒:信教の自由を守るパートナー」。
これは大学内ではちょっとしたニュースになってました。
カトリックはモルモンを異端どころかキリスト教として認めておらず、モルモンはその聖典の中に
カトリックを指して「忌まわしい淫婦の教会」と呼んでいると解釈される節がある。
そんなカトリックとモルモンだけども、カトリックの枢機卿がモルモン大学を訪れて上記のテーマで
喋ったわけですから、カトリック・モルモンの関係が好転するんじゃないのかと。
枢機卿レベルが動くとなったらローマの中央の意思が背後にあったわけでしょうし。
おれもこの講演に参加して参りましたよ。
物凄い入りでしたね、バスケとかをやるスタジアムの観客席半分以上を聴衆がうめ、
さらに衛星放送をいろんな教室で見てる連中もいたそうです。
ジョージさんが入ってくるなりみんな起立してお迎え。
これはモルモンの文化とゆうか、モルモン教会の幹部が来ても起立して迎えるんですが。
モルモンの上級幹部(十二使徒と呼ばれる)も二人ほど来てたようですし。
そして普段こういった行事はモルモン流のお祈りで始めるんですが、今回はカトリック流のお祈りで
始まることに。
これまた皆起立、そしてマタイ書の山上の垂訓にある(多分)お祈りをみんなで一斉にして着席、
ジョージさんのお話が始まりました。
おおまかな内容はカトリックとモルモンで共通するとこのビジョン、例えば堕胎反対やゲイ婚反対とか
ポルノ規制とか、そういったところで協力しようって感じ。
「信教の自由は礼拝の自由に縮められるべきではない、公共の場で己の信条を語ることが許されるべき」、
「良き法は全ての人の権利を守る」と仰ってたのが印象的です。
最近熱く議論されているヘルスケアですが、「安楽死と堕胎はカバーされるべきではない」。
ゲイ婚については「全ての人が愛され尊敬されるべきだが、それがみだらなライフスタイルを容認する理由にはならない」。
個人の権利が拡張される中で家族が軽視されているとし、「社会の基は個人ではなく家庭」と主張。
そしてカトリックとモルモンがこうした社会問題に対して共通の認識を持つことが、最近の二者の関係を深めつつあると。
そんな感じの講演でして、BYUの学生からの評判も良かったし、ジョージさんも後に大学へ「学生の礼儀正しさ、
トピックへの関心の高さなど素晴らしい」とお褒めのメールを送っていたり、大成功ってとこですかね。
おれ個人としては、堕胎については両教会に意を同じくする部分が多いけどゲイ婚についてはなぜダメなのかやはり理解しない。
自分たちは自分たちのやりたいようにする、彼らにもそれを認める、それじゃなぜダメなんだろか?
ジョージさんが何度かトクヴィルに触れてたんですが。
このトクヴィルとゆう人は『アメリカの民主政治』とゆう本で米国の民主制を考察したことで有名な知識人。
一般教養で取っている「西洋政治の伝統」で読まされた本に出てくる"Equality by Default"(破綻による平等)のような概念が
米国の民主制が内包する問題であることを百年以上前に論じてたわけです。
"Equality by Default"ってのは簡単に言えば「あんたに構わないからあたしもほっといて」「誰かに迷惑かけた?」、
多分こんなところ。
まぁちょっと政治哲学の教養としてトクヴィルさんの本にも触れてみようかと思います、いつか。
おれの主張がただの"Equality by Default"なのか、それの何が問題か考えてみたい。
モルモン教の学府、BYUで講演をしました。
テーマは「カトリックと末日生徒:信教の自由を守るパートナー」。
これは大学内ではちょっとしたニュースになってました。
カトリックはモルモンを異端どころかキリスト教として認めておらず、モルモンはその聖典の中に
カトリックを指して「忌まわしい淫婦の教会」と呼んでいると解釈される節がある。
そんなカトリックとモルモンだけども、カトリックの枢機卿がモルモン大学を訪れて上記のテーマで
喋ったわけですから、カトリック・モルモンの関係が好転するんじゃないのかと。
枢機卿レベルが動くとなったらローマの中央の意思が背後にあったわけでしょうし。
おれもこの講演に参加して参りましたよ。
物凄い入りでしたね、バスケとかをやるスタジアムの観客席半分以上を聴衆がうめ、
さらに衛星放送をいろんな教室で見てる連中もいたそうです。
ジョージさんが入ってくるなりみんな起立してお迎え。
これはモルモンの文化とゆうか、モルモン教会の幹部が来ても起立して迎えるんですが。
モルモンの上級幹部(十二使徒と呼ばれる)も二人ほど来てたようですし。
そして普段こういった行事はモルモン流のお祈りで始めるんですが、今回はカトリック流のお祈りで
始まることに。
これまた皆起立、そしてマタイ書の山上の垂訓にある(多分)お祈りをみんなで一斉にして着席、
ジョージさんのお話が始まりました。
おおまかな内容はカトリックとモルモンで共通するとこのビジョン、例えば堕胎反対やゲイ婚反対とか
ポルノ規制とか、そういったところで協力しようって感じ。
「信教の自由は礼拝の自由に縮められるべきではない、公共の場で己の信条を語ることが許されるべき」、
「良き法は全ての人の権利を守る」と仰ってたのが印象的です。
最近熱く議論されているヘルスケアですが、「安楽死と堕胎はカバーされるべきではない」。
ゲイ婚については「全ての人が愛され尊敬されるべきだが、それがみだらなライフスタイルを容認する理由にはならない」。
個人の権利が拡張される中で家族が軽視されているとし、「社会の基は個人ではなく家庭」と主張。
そしてカトリックとモルモンがこうした社会問題に対して共通の認識を持つことが、最近の二者の関係を深めつつあると。
そんな感じの講演でして、BYUの学生からの評判も良かったし、ジョージさんも後に大学へ「学生の礼儀正しさ、
トピックへの関心の高さなど素晴らしい」とお褒めのメールを送っていたり、大成功ってとこですかね。
おれ個人としては、堕胎については両教会に意を同じくする部分が多いけどゲイ婚についてはなぜダメなのかやはり理解しない。
自分たちは自分たちのやりたいようにする、彼らにもそれを認める、それじゃなぜダメなんだろか?
ジョージさんが何度かトクヴィルに触れてたんですが。
このトクヴィルとゆう人は『アメリカの民主政治』とゆう本で米国の民主制を考察したことで有名な知識人。
一般教養で取っている「西洋政治の伝統」で読まされた本に出てくる"Equality by Default"(破綻による平等)のような概念が
米国の民主制が内包する問題であることを百年以上前に論じてたわけです。
"Equality by Default"ってのは簡単に言えば「あんたに構わないからあたしもほっといて」「誰かに迷惑かけた?」、
多分こんなところ。
まぁちょっと政治哲学の教養としてトクヴィルさんの本にも触れてみようかと思います、いつか。
おれの主張がただの"Equality by Default"なのか、それの何が問題か考えてみたい。