どうでもいいことだが、私はお酒はほとんど飲まない。まあ正確には飲めない。
昭和の時代、少なくともこの世に発泡酒などというものが大量に流通する以前の日本では、
労働者も経営者も政治家も医者もビールを飲むときはビールを飲んでいた。
この頃自分は多分小学生だったのだが、新聞のコラムで一億総中流時代という言葉を目にした。
たしかに偉い人もそうでもない人も同じビールを飲むということがこの言葉の象徴となっている。
それがいつのことからなのだろう、今日は贅沢してビールなどという話が風の噂で聞こえてくるようになった。
いつの頃からか生活保護に対する風当たりが強くなっているように思う。
批判されているの理由としては
受給者に仕事をする能力があるにもかかわらず受給している。いわゆる不正受給ではなないかという疑念。
汗水流して真面目に働いているのに手取り支給額が生活保護で支給される金額よりも低い。
要は納得できない不公平感が自然と湧き出てくるといったところではないだろうか。
だから、こういう感情を否定するつもりはない。
しかし、こういう発想というか思考はどうなんんだろうかという疑問を常々感じる。
よく、中国共産党が明確に反日教育を推進したのは、天安門広場でデモ隊を武力鎮圧したことがきっかけだといわれている。
反日の名のもとに民衆の注意を外敵に向けさせ、国内の問題を隠ぺいすることが狙いだ。
これと同じような構図がこの生活保護バッシングから感じられる。
日本政府は中国共産党より巧妙かつ隠密に、低賃金労働者の不平不満が生活保護受給者に向くように仕向けている。
本来なら労働者の派遣労働等を大幅に緩和した当時の政府に現在のワーキングプア増加の責任があるはずなのだが、そういう制度の構築とは無縁の生活保護受給者が非難の対象になる。
もう一つ厚生労働省が生活保護支給費を下げるために意図的に生活保護生活者が国民から反感を買うように誘導していることも考えられる。
初めに書いた通り今の制度が国民が納得できる制度であるとは私自身も思っていない。
しかし、生活保護の支給に対して不平不満をネット上で愚痴るより、拡大する一方の社会格差を生む社会構造の本質はどこにあるのかにもっと注視し、それを改める手法を模索し実行するべきなのではないだろうか。