マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

3月に入り

2011-03-02 22:16:32 | 教会の風景
3月に入りましたが、ここ数日、寒い日が続いています。
今日の午前中は、月に一度のワンデークラフト。
石けんを使ったデコパージュを作ったそうです。

Tea Roomと同様、婦人の方々の交わりと気分転換に役立っているようです。


さて、月報に記載した2月の礼拝説教のあらすじをアップしておきます。
前月より旧約の犠牲について学んできましたが、キリストの贖いの理解に役立っています。
私たちは、罪の赦しの確かさとその恵み深さに希望と慰めを見出します。

レビ記のいけにえの規定の4番目は、「罪のためのいけにえ」である。人は神の律法に反することで罪に定められる。罪を犯した人は、神の御前に贖いと赦しを必要とする。特にこの規定では、罪を犯した人の立場に応じて、犠牲としてささげる動物の種類が異なる。祭司もしくは民全体が罪を犯したときは雄牛、上に立つ者や民のひとりが罪を犯した時は山羊や羊であった。ただし、民の一人の場合は、その人の経済状況に応じて、鳩もしくは小麦からも選択可能という神の配慮もあった。こうした違いは、祭司の務め、また祭司の王国、聖なる国民(出エジプト記19:6)というイスラエル民族の役割の重みを示しているのだろう。彼らの罪は祭司による贖いで赦される。(4:20,26,31,35) 新しい契約において、私たちの『罪の赦し』は、偉大な大祭司イエスの、ご自身の血による贖いのゆえに、確かに実現している。

 5番目のいけにえの規定は、「罪過のためのいけにえ」である。このいけにえの特徴は、償いという要素であろう。幕屋における不適切な行為や隣人の所有物への不当な行為(6:2-6)が想定され、そのような神の御前での罪を償うことが定められている。それに対して、雄羊とその五分の一相当を償いとして祭司に渡す。他人の物品を損なったのであれば、元どおりのものと併せて同じく二割を償う。私たちは、罪の赦しが安易に扱われるべきでないことを学べるであろう。神の御前で赦される=自分の過失の責任を何も負わなくても良い、という考えは、神の恵みによる罪の赦しを誤解している。新約聖書のルカの福音書は、取税人ザアカイの回心の記事を収めている。彼は、主イエスへの信仰の表明を、自らの過失の償いの約束と併せて告白した。それは、自ら進んで、しかも律法の規定を度外視した四倍の償いであった。神の御前における『本当の赦し』は、人をその過失の償いに向かわせるものである。

最後まで読んでくださりありがとうございました。
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