当ブログイチオシ!ローカル番組の「ええじゃないか。」ですが、、、
昨日は三重県鈴鹿市をFeature。
先日、緒方拳氏逝去に寄せた日記で取り上げた、「おろしや国酔夢譚」の主人公、大黒屋光太夫についても取り上げていました。
このときの日記で、”赤い悪魔”さんも「地元です」と仰るコメントをいただきましたが、光太夫はいまの鈴鹿市、細かく言うと伊勢若松の出身。
そこに大黒屋光太夫記念館という博物館もあり、番組でも氏の軌跡を紹介していました。
例によって、白子の浜で撮ったであろう寸劇つき(笑)。
天明2(1782)年12月
江戸に商売をしていた廻船の船乗りだったの光太夫の一行は、地元伊勢や紀州から仕入れたお正月用品を持って江戸に向かう途中、遠州灘沖で嵐に遭い漂流します。
およそ7ヵ月の漂流ののち、
ロシア東方のアリューシャン列島の孤島・アムチトカ島に漂着しました。
ここは、
ラッコ漁をしているロシア人猟師の拠点。
しかし、
ロシアの領土からも離れており、4年に一回の定期船しか連絡がないため、ラッコ猟師とともに4年間生活。
ここで、映画でも覚えています。
寒さに耐え、言葉を覚えたり、当時の日本人にとってはタブーであった獣の肉を食べることを余儀なくされ、厳しい生活環境の変貌に耐えながら迎えの船を待ちました。
4年経ち、迎えの船が来たものの、その定期船も島で座礁し船が故障。
光太夫も新しい船の造船を手伝い、やっとの思いでユーラシア大陸、オホーツクに到着する。
そこから、
帰国を懇願する光太夫たちを、ラクスマンというロシアの学者さんが面倒を見てくれることになり、オホーツクから内陸のイルクーツク、そして、最終的にはサンクトペテルブルグで女王エカテリーナ2世に直訴が許され、帰国の許可が下りることになったわけです。
ここで、
光太夫がいままでの旅の苦労話や帰国を懇願する願いを女王に直接説いたことは、映画でもクライマックスでした。
光太夫の想いに打たれたエカテリーナ女帝が、直接帰国の許可を得たんですね。
当時、
ロシアと日本は国交がないうえに、ご周知のとおり日本は「鎖国」をとっていましたから、ロシア側としても日本は未知の国。
光太夫の帰国を簡単に認めるわけにはいかなかったんですね。
そこにきて、
漂流した身元も分からない日本人を助け、最後は国のトップのところまで謁見でき、帰国の許しを出すことまでこぎ着けられた光太夫の幸運と、光太夫たちを助けたロシアの理解者の人たちの懐には、とても感動しますね。
ロシアも日本と国交を行い、アジアの情報拠点を起きたかった背景もあったことでしょう。
じっさい、光太夫が帰国するためのロシアの使節が日本に訪れたことから、その50年後には日本とロシアには国交が結ばれます。
ロシアにとっては、日本と接触し、日本に恩を売る絶好のチャンスだったという、政治的な目論みがあっただろうことも忘れてはいけませんがね。
漂流から10年後の、寛政4(1792)年5月
光太夫はふたたび日本の地を踏むことが出来、江戸に住まいをもらって暮らし、伊勢にも一度帰郷することが出来たのだそうです。
番組の中の説明では、学者に呼ばれてロシアの情報や学問を伝えたり、帰郷も許されるなど、比較的自由な生活が出来たようですね。
もともとは、江戸に住まいを持たされて”謹慎”されていたと聞いていました。
異国から帰り、異国の情報を知って帰ってきた光太夫は、情報や知識を国内で悪用するかもしれない。
情報や知識を流布して国を混乱させるかもしれない。
と、
考えられても仕方ない世の中だったはずですからね。
処刑されたっておかしくなかったと思います。
しかし、
時は幕末にも近づいてきている江戸時代末期だったという、その時代背景もまた、光太夫にとっては幸運だったと思います。
日本もまた、外国の事情を知るようになり、外国の技術や文化を受け入れやすい世の中になっていた頃ですからね。
漂流から10年。
17人で海に出た一行も、最後に帰国できたのは光太夫ともうひとりだけだったそうで、幸運であるばかりではなく、丁重に扱われ、余生も過ごすことが出来た光太夫の人柄もあらためて感じることが出来ましたね。
そしてなにより!光太夫に感動するのは、その光太夫の”力強さ”です。
オホーツクからペテルブルグまで。
長ぇよ~~
ユーラシア大陸横断ですからね。
その間の、極寒極める大陸を犬ぞりで渡るシーン。
そして、
仲間が凍傷に遭い、足を切断するシーン。
光太夫の厳しい旅の模様は、やはり映画でもよく覚えています。
光太夫の意志の強さ、身体の強さ。
16人の部下を引き連れて船を出す船頭だったんですから。
さぞ正義感と責任感の強い人間だったんでしょう。
厳しい状況におかれても、力強く生きて信じた結果、見知らぬ国を横断し、女王に直訴までできて、念願かなって帰国。
ほんとうに、光太夫だからなし得た功績でしょう。
よかったねぇ~。
そして、
番組でも取り上げられていたのは、
光太夫の帰国の一行は、”ペリーよりも60年早かった黒船”だった。
ねー
すごいですね。
たしかに、いまの時代でも、こういうことがあれば国をあげての一大事でしょうが、光太夫一人の帰国への行動が、両国はもとより、その後の歴史をも大きく影響を与えたわけですからねー。
いい方向へ誘われたことがなによりの”軌跡”です。
てことは、
光太夫は60年早かった”ジョン万次郎”でもありますよね。
そういうことを考え、思いを深めることが、日本史の醍醐味です。
そして、
最近になって、帰郷した光太夫が書いたとされるロシア文字が書かれた袱紗が発見されたそうで!
その展示も行われているそうですよ!!
ロシア語…
てことは、、
顔文字の(*゜∀゜)や(´Д`)とかの、、
「∀」とか「Д」を始めて伝えた日本人でもあったのか、、、
かもね(笑)?
寺子屋にも行けない環境で育ったまま、子供のうちに漂流したジョン万次郎と違い、大人になって読み書きや計算も出来た光太夫の方が、勉学や言葉を正確に伝えていたのかもしれません。
「ええじゃないか。」
まだ、今日以降の放送が予定されている地域もありますので、ぜひ番組ホームページをチェックしてみてくださいね。
昨日は三重県鈴鹿市をFeature。
先日、緒方拳氏逝去に寄せた日記で取り上げた、「おろしや国酔夢譚」の主人公、大黒屋光太夫についても取り上げていました。
このときの日記で、”赤い悪魔”さんも「地元です」と仰るコメントをいただきましたが、光太夫はいまの鈴鹿市、細かく言うと伊勢若松の出身。
そこに大黒屋光太夫記念館という博物館もあり、番組でも氏の軌跡を紹介していました。
例によって、白子の浜で撮ったであろう寸劇つき(笑)。
天明2(1782)年12月
江戸に商売をしていた廻船の船乗りだったの光太夫の一行は、地元伊勢や紀州から仕入れたお正月用品を持って江戸に向かう途中、遠州灘沖で嵐に遭い漂流します。
およそ7ヵ月の漂流ののち、
ロシア東方のアリューシャン列島の孤島・アムチトカ島に漂着しました。
ここは、
ラッコ漁をしているロシア人猟師の拠点。
しかし、
ロシアの領土からも離れており、4年に一回の定期船しか連絡がないため、ラッコ猟師とともに4年間生活。
ここで、映画でも覚えています。
寒さに耐え、言葉を覚えたり、当時の日本人にとってはタブーであった獣の肉を食べることを余儀なくされ、厳しい生活環境の変貌に耐えながら迎えの船を待ちました。
4年経ち、迎えの船が来たものの、その定期船も島で座礁し船が故障。
光太夫も新しい船の造船を手伝い、やっとの思いでユーラシア大陸、オホーツクに到着する。
そこから、
帰国を懇願する光太夫たちを、ラクスマンというロシアの学者さんが面倒を見てくれることになり、オホーツクから内陸のイルクーツク、そして、最終的にはサンクトペテルブルグで女王エカテリーナ2世に直訴が許され、帰国の許可が下りることになったわけです。
ここで、
光太夫がいままでの旅の苦労話や帰国を懇願する願いを女王に直接説いたことは、映画でもクライマックスでした。
光太夫の想いに打たれたエカテリーナ女帝が、直接帰国の許可を得たんですね。
当時、
ロシアと日本は国交がないうえに、ご周知のとおり日本は「鎖国」をとっていましたから、ロシア側としても日本は未知の国。
光太夫の帰国を簡単に認めるわけにはいかなかったんですね。
そこにきて、
漂流した身元も分からない日本人を助け、最後は国のトップのところまで謁見でき、帰国の許しを出すことまでこぎ着けられた光太夫の幸運と、光太夫たちを助けたロシアの理解者の人たちの懐には、とても感動しますね。
ロシアも日本と国交を行い、アジアの情報拠点を起きたかった背景もあったことでしょう。
じっさい、光太夫が帰国するためのロシアの使節が日本に訪れたことから、その50年後には日本とロシアには国交が結ばれます。
ロシアにとっては、日本と接触し、日本に恩を売る絶好のチャンスだったという、政治的な目論みがあっただろうことも忘れてはいけませんがね。
漂流から10年後の、寛政4(1792)年5月
光太夫はふたたび日本の地を踏むことが出来、江戸に住まいをもらって暮らし、伊勢にも一度帰郷することが出来たのだそうです。
番組の中の説明では、学者に呼ばれてロシアの情報や学問を伝えたり、帰郷も許されるなど、比較的自由な生活が出来たようですね。
もともとは、江戸に住まいを持たされて”謹慎”されていたと聞いていました。
異国から帰り、異国の情報を知って帰ってきた光太夫は、情報や知識を国内で悪用するかもしれない。
情報や知識を流布して国を混乱させるかもしれない。
と、
考えられても仕方ない世の中だったはずですからね。
処刑されたっておかしくなかったと思います。
しかし、
時は幕末にも近づいてきている江戸時代末期だったという、その時代背景もまた、光太夫にとっては幸運だったと思います。
日本もまた、外国の事情を知るようになり、外国の技術や文化を受け入れやすい世の中になっていた頃ですからね。
漂流から10年。
17人で海に出た一行も、最後に帰国できたのは光太夫ともうひとりだけだったそうで、幸運であるばかりではなく、丁重に扱われ、余生も過ごすことが出来た光太夫の人柄もあらためて感じることが出来ましたね。
そしてなにより!光太夫に感動するのは、その光太夫の”力強さ”です。
オホーツクからペテルブルグまで。
長ぇよ~~
ユーラシア大陸横断ですからね。
その間の、極寒極める大陸を犬ぞりで渡るシーン。
そして、
仲間が凍傷に遭い、足を切断するシーン。
光太夫の厳しい旅の模様は、やはり映画でもよく覚えています。
光太夫の意志の強さ、身体の強さ。
16人の部下を引き連れて船を出す船頭だったんですから。
さぞ正義感と責任感の強い人間だったんでしょう。
厳しい状況におかれても、力強く生きて信じた結果、見知らぬ国を横断し、女王に直訴までできて、念願かなって帰国。
ほんとうに、光太夫だからなし得た功績でしょう。
よかったねぇ~。
そして、
番組でも取り上げられていたのは、
光太夫の帰国の一行は、”ペリーよりも60年早かった黒船”だった。
ねー
すごいですね。
たしかに、いまの時代でも、こういうことがあれば国をあげての一大事でしょうが、光太夫一人の帰国への行動が、両国はもとより、その後の歴史をも大きく影響を与えたわけですからねー。
いい方向へ誘われたことがなによりの”軌跡”です。
てことは、
光太夫は60年早かった”ジョン万次郎”でもありますよね。
そういうことを考え、思いを深めることが、日本史の醍醐味です。
そして、
最近になって、帰郷した光太夫が書いたとされるロシア文字が書かれた袱紗が発見されたそうで!
その展示も行われているそうですよ!!
ロシア語…
てことは、、
顔文字の(*゜∀゜)や(´Д`)とかの、、
「∀」とか「Д」を始めて伝えた日本人でもあったのか、、、
かもね(笑)?
寺子屋にも行けない環境で育ったまま、子供のうちに漂流したジョン万次郎と違い、大人になって読み書きや計算も出来た光太夫の方が、勉学や言葉を正確に伝えていたのかもしれません。
「ええじゃないか。」
まだ、今日以降の放送が予定されている地域もありますので、ぜひ番組ホームページをチェックしてみてくださいね。
光太夫記念館は歩いてでも行ける距離ですが、行ったことないですね。また暇だったら行ってみます。
そうですね。
解釈が変わるというか、新たな物証や文章が発見されれば、明確になってきますし、それにより新たに新説も立てられますからね。
だから、昔はそうだったのだと思いますよ。
「おろしや国~」の頃はやはり「謹慎させられていた」ような話しか聞きませんでしたもん。
今回発見されたという書入りの袱紗ってのも、地元で発見されたということで、こまもまた光太夫が伊勢に帰ってきていたということを裏付ける新たな物証だというわけですね。
歴史って、年号や出来事を覚えることだけじゃなくって、その人物や事象の背景や経緯を考察したり、人間性を究明したり、、そんなことが楽しいんですよね。
ぜひ行ってみてください。
今週は久しぶりに東海道の宿場町の紹介もあって大変満足できる内容でした。現在の石薬師宿・庄野宿は、当時の面影を強く残しているわけでなく、観光地的な派手さも全くありませんが、落ち着いた町並みが個人的にはお気に入りです。一般公開されていない「小沢本陣」の映像は大変貴重でした。
番組的にはぶっちゃけネタ切れの感がありますが、何とか3年目に突入できるようこれからも盛り上げていきましょう。
そうですね。
今回は前シリーズを彷彿させる番組展開でしたね。
やはり地元の会長どの的にはなかなか見応えのある内容だったんですね。
三重県内のテーマだけだとネタ的にはキツくなりますか…??
でも、県外ロケではまだまだうまく伊勢と結びつけるネタが発見できたり、もう少し期待できそうな気がしますけどね。
それに、
弥次喜多がやっぱいいんです!!
あの2人のおもしろさも人気を支えていると思います。
応援していきましょう!!