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新・臨床検査の光と影

人の命を測る臨床検査に光を!

戦争を語り継ぐ 14歳の記憶

2014-08-17 09:47:55 | 日記・エッセイ・コラム

        69年前の夏の記憶 ⑩

    中学校の講堂が軍需工場に

 ある日突然に、中学校の講堂の床板がはがされ、工員とともに多くの工作機器が搬入されました。

 飛行機の部品を作るためのものだとか。軍需産業の秘かな疎開だったようですが、学校側からは、なんの説明もなされませんでした。秘密だったのです。防諜のポスターを描くように云われたのもこの頃からで、疑心暗鬼「隣にスパイ」などの標語の募集なども行われました。

 国事警察として高等警察から分離し、国体護持のための査察、内偵などで取り締まる、特別高等警察、いわゆる“特高”の活動が活発化し、1941年、治安維持法制定をバックに、いやな時代を秘かに感じていました。

  最近施行された、武器・弾薬・防衛などに関連した、罰則を伴う特別秘密保護法案、先祖がえりか、あの時代に逆戻りしている危惧を痛切に感じています。

  上級生は軍需工場に、下級生の私たちは、出征兵士の農家の作業のため、分宿しての援農で、教室での授業は、だんだんなくなりました。

 米農家であっても、米の強制供出により、わずかな米に芋などで嵩を増やしての食事でした。


戦争を語り継ぐ 14歳の記憶

2014-08-16 10:51:54 | 日記・エッセイ・コラム

     69年前の夏の記憶 ⑨

    アッツ島、日本軍の玉砕

 戦果を上げるたびに勇ましい軍艦マーチで始まる、大本営のラジオ放送も、1943年5月29日、北太平洋アッツ島守備隊の全員突撃を期に、大本営は「死力を尽くして戦え」と打電。いわゆる玉砕です。玉が美しく砕け散るように、潔く死ぬことです。続いてレイテ島、サイパン島、テニアン島、グアム島など、南太平洋の守備隊は、弾薬も食料も尽き果て、ジャングルに立てこもり抗戦、ことごとく玉砕しました。

 臨時ニュースは「軍艦マーチ」から次第に、「海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草蒸す屍」の悲壮な曲にかわっていきました。ああ、また玉砕か!と思いました。

 駅頭に整列する学童の万歳で送られた出征兵士、八百屋のコーちゃんの戦死公報が町役場の吏員によって届きました。駅に動員された学童たちは、こんどは、深く頭を垂れて迎えました。迎えた遺骨は5~6人だったように記憶しています。コーちゃんの母親が受け取った白木の箱には、遺骨ではなく、戦死したとされる島の石が入っていました。

 どこで、どのように戦死したのかも、遺族には知らされることはありませんでした。群馬県内の戦死者・4万2千人、民間人の犠牲者・8千人。 

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戦争を語り継ぐ 14歳の記憶

2014-08-10 16:03:08 | 日記・エッセイ・コラム

Photo     69年前の夏の記憶 ⑥

 八百屋のコーちゃんに召集令状

  戦線は、いよいよ拡大し、従弟に召集令状、そして5軒隣の八百屋のコーちゃん(20歳)にも、町役場の吏員が、召集令状を届けにきました。所謂”赤紙”と云われた「徴兵令」で町内中の人々が、彼の家の前で「万歳」を繰り返し叫ぶ中、二人の幼い妹は泣き叫び、母親は何が起こったのか、おろおろすばかりで、それは悲壮なものでした。

 渋川駅に動員された学童等大勢が整列して、数名の出征兵士とともに、日の丸の旗を振るなか送り出されていきました。

 少し離れたところで、凛とした赤十字看護婦の正装をした若い女性が、1人佇んでいる姿にみとれていましたが、見送る人は1人もいませんでした。 

 ”従軍看護婦だ“と思いました。おそらく野戦病院に赴くのだろうと、この姿は今も目に焼きつき、想いだしては胸を熱くし、生涯忘れることはありません。

 あとで、赤十字看護婦に「戦時召集」というのがあることを知りました。しかし、 どの辞典にも「従軍記者」はあっても「従軍看護婦」は記載されていませんでした。

 


戦争を語り継ぐ 14歳の記憶

2014-08-06 08:30:20 | 日記・エッセイ・コラム

   69年前の夏の記憶 ④ 

    サブちゃんの69年忌Photo_3

  8月5日夜半の空爆で、渋川(町)に投下されたM69焼夷弾は48発、6角形の筒に、ねっとりした爆薬が充填され、垂直に落下するように、1.5メートルほどの帯が、何枚かついていました。

 このM69は、通常19の隔壁に38発が収納されています。

 ほとんどは 柔かな水田に突き刺さって不発でしたが、不幸にも民家5軒が全焼、死者1名、その1名が親友サブちゃん。経師屋の倅で、前橋の盲学校に通って、あんま針灸師を目指していました。 

 知らせを聞いたサブちゃんの姉のコトちゃんが、「サブローッ、サブローッ」と叫びつつ、着物の裾をひるがえしながら、裸足で走って行った声とその姿は、何年たっても耳に脳裏に焼きついています。

 投下された焼夷弾は、不発弾をはじめ警察官らによって集められ、警察署の庭に、小山のように積まれました。        


戦争を語り継ぐ 14歳の記憶

2014-08-05 10:32:19 | 日記・エッセイ・コラム

Photo_2    69年前の夏の記憶 ③

8月5日の空爆 サブちゃんの命日

 この日の夜半からマリアナ群島を飛び立った米軍B29爆撃機92機の大編隊が、1時間15分にわたって、M69焼夷弾を投下しつつ前橋市を空爆しました。

 南東の前橋市の方向には、大火災で真っ赤に焼けた空がみえました。

 そのうちの何機かが、ついでに渋川(町)を目標に飛来、50ポンド収束(親子)爆弾が300メートル上空で炸裂、M69焼夷弾48発が、ばらばらになって降り注ぎました。

  リヤカーに乗せた病気の母親と、幼い弟と3人で避難した里山から、それは花火大会のような光の尾を引いて落下するのを、ただただ呆然と眺めていました。いまでも生々しく目に焼き付いています。

 幸か不幸か、徹底した灯火管制によって、焼夷弾は、標的とした軍需工場や住宅地をそれて、そのほとんどが町外れの水田に落下し、突き刺さりました。

 その時、三つ年上の盲目の友人、サブちゃんは、町なかから離れた水田近くの親戚の家に避難していたのでした。