新・臨床検査の光と影

人の命を測る臨床検査に光を!

我が街が空襲に遭った日(2)

2007-07-26 11:02:21 | 日記・エッセイ・コラム

         焼夷弾で、サブちゃんが焼死29

 終戦まじかの8月5日の深夜、県都前橋2回目の大空襲と同時に、B29爆撃機の編隊が,我が街を空襲しました。

 警戒警報発令とともに、近所の米屋さんのリヤカーを借りて、歩けなくなった母親を乗せて、弟が後押し、2キロほど先の里山に避難しました。

 街の上空で、炸裂音とともに、花火のように閃光が走り、大量の曳光をともなって、何かが落下してきました。

 程なくして、火の手が上がりました。

 M69焼夷弾、その数46発。民家5軒が全焼、死者1名。

 その1名の死者こそ親友、経師屋の「サブちゃん」でした。

 彼は、ほとんど目が見えません。盲学校に通って、鍼の勉強に勤しんでいました。

 業火の中を彷徨って焼死したのです。

 こともあろうに、3キロほど南の親戚の農家に避難していたのでした。

 徹底した灯火管制が効を奏したのか、市街地上空で投下された焼夷弾46発の多くは、南に流され、田圃に突き刺さって不発に終りましたが、不幸にも、数発の焼夷弾がこの農家を直撃したのでした。

 空爆が去って、街にたどり着いたとき、サブちゃんの姉が、着物のすそをからげながら裸足で、「サブロー、サブロー」と叫びつつ走って行った、その姿と叫び声は、一生忘れることはありません。

 これが人殺しの戦争です。非戦闘員を巻き込む情け容赦のない殺戮。

 この悲惨さ、戦争の残酷さを知らない、戦争を体験したことのない若い世代の政治家たちが、戦争をもて遊んでいるような風潮を痛感するこのご時世を、どのように変えていったらいいのでしょうか?

 ひとり一人が答えを出すのは、あと4日に迫りました。

 


我が街が空襲に遭った日(1)

2007-07-24 13:55:40 | 日記・エッセイ・コラム

Photo_27        米空軍グラマン艦載機の空襲

 この日、早朝から暑い日でした。警戒警報、すぐさま空襲警報のサイレンが、街中に鳴り響くと同時に、十数機の米軍戦闘機が飛来してきました。

 1,945年7月30日、午前5時53分。

 急降下する爆音と凄まじい機銃掃射、耳をつんざく爆弾の炸裂音と地響き。

 脊髄カリエスの母親を背負い、10才になる弟の名を叫びながら、防空壕に走りました。逃げ遅れた弟は、材木置き場の柱にしがみついて、右に左に逃げ惑っていました。

 その時、超低空で急降下してきたグラマン機の、操縦席の戦闘員と、はっきり目が合いました。

 ゴーグルの奧の目は、62年が経った今でも、脳裏に焼きついて、いつでも、はっきりと思い出すことができます。

 機銃掃射の弾痕が、我が家のトタン屋根を貫いていました。

 投下された爆弾の数は不明だが、戦闘機の数だけ投下されたものと思われました。

 利根川にかかる鉄橋が標的になったようですが、我が家のそばを走る、チンチン電車の線路や小さな鉄橋も、爆弾投下され、同級生の母親が爆死しました。 

 町内の死者10名。負傷者37名。家屋の被害47棟、被災者223名。

 こんな小さな町をなぜ?

 確かに、軍需工場もあり、吾が母校の講堂でも、先輩の中学生が戦闘機の部品をつくり、国民学校にも日本軍の部隊が分散して駐屯はしていましたが、子供心に、こんな田舎町まで敵機が襲来するのか、14才の少年の胸にも、云ってはならない「負け」戦のにおいを感じとりました。

 そして、その5日後、無数の焼夷弾が投下され、盲目の友人が焼死した大空襲がやってくるのでした。

 


花寺『上州川場村・吉祥寺』

2007-07-01 09:48:29 | 日記・エッセイ・コラム

Photo_25     梅雨の合間の花寺・吉祥寺 Photo_26

  関越高速道沼田ICから東へ、車で15分ほどで、「吉祥寺」。

 りんごのレンタルツリーの下見のついでに、ふと立ち寄った『吉祥寺』 別名“花寺”青竜山 吉祥寺(きちじょうじ)

 木々の多さと、四季折々の草花の種類の多いこと。

 4月下旬の水芭蕉、桜、つつじ、シャクナゲ、かきつばた、ユリ、そして紅葉、雪景色、・・・・・・。

 こんな近くに、大発見をした思いを味わいました。

 フォトアルバムにしましたので、ご覧ください。