新・臨床検査の光と影

人の命を測る臨床検査に光を!

終戦記念日に想う(3)

2013-08-15 08:37:17 | 日記・エッセイ・コラム

Photo_2    1945年8月15日の出来事                         今日、終戦の日

 ラジオ放送・東部軍管区情報「房総半島ヨリ侵入セル敵ハ北上中ナリ」・「第十一軍管区・空襲警報発令」この放送の直後 世界最大の4発爆撃機B29の大編隊が夜間、前橋市街の無差別爆撃を行いました。空爆による一般市民の死者、535名。

 市街地は一面の焼野原、その向こうに利根川、そして赤城山麓です。

 その夜、「本州の中心、臍の街」と自称している渋川町を襲ったナパーム焼夷弾の無差別投下で、標的を外れた焼夷弾が民家5軒を火の海と化し、死者1名、そのたった一人の死者が、親友「三郎君」だったのでした。

 彼は経師屋の息子で、盲目のため、空襲警報とともに町外れの親戚に避難、そこで不意の業火に逃げまどい、無残にも焼死しました。

 彼の姉が、裸足のまま着物の裾を翻しつつ、夜の大通りを「サブローッ」「サブローッ」と絶叫し、泣きながら走っていきました。

 いまでも、弟思いの姉の姿が目に焼き付き、その叫び声が鮮明に耳に残っています。 

 町に投下されたナパーム焼夷弾の不発弾は、2メートルもの布切れの尾をつけて、警察署の庭に山積みされていました。

 この数日前、米軍機から大量の宣伝ビラがまかれました。警察官が、必死になって「見るなーッ」と叫びながらビラを回収していきました。各市を空爆する予告宣伝ビラで、米軍機は、そのカレンダーに示された通り、前橋・高崎・太田・伊勢崎などの空爆を実行したのでした。

  国際人道法、別名「戦時国際法」の非戦闘員保護も何もあったものではありません。広島の原爆投下の犠牲者20万人、長崎14万人、3月10日夜の東京大空襲12万人~15万人も然り!

 これが戦争なのです。どれだけの政治家・国会議員が戦争のむごたらしさを知っているのでしょうか。

 ポツダム宣言受諾の御前会議、9日前の出来事でした。 8月15日、ラジオは正午過ぎ、重大な発表があると放送、 子供たちは、言葉が難しくて、しばらくは戦争が終わったことを理解できませんでした。

 


終戦記念日に想う(2)

2013-08-09 10:49:36 | 日記・エッセイ・コラム

Photo_621945年8月5日の出来事

 この日の夜間、米軍のB29爆撃機による無差別焼夷弾投下で、県都前橋市は業火に包まれ、十数キロ離れた(旧渋川町)から、夜空が赤々と燃え上がるさまがみえました。 

 そのうちの1機?が、軍需工場のあったわが町にも飛来してきました。県都前橋市を空爆した、そのついでとしか思えません。

 空襲警報のサイレンが鳴って、病気の母親をリヤカーに乗せ、幼い弟と近くの里山に逃げました。

 灯火管制の徹底した真っ暗闇のなかに、M69ナパーム焼夷弾48発が投下されました。

 束になった焼夷弾が空中で炸裂し、ヒュルヒュルと不気味な音を響かせて、花火のように落下していくのを恐怖の眼で呆然とながめていました。

 爆撃の標的が2キロほど南にずれたのでしょうか、多くは田んぼの中に突き刺さって不発弾になりましたが、不幸にも民家5軒が焼失しました。

 この劫火の中で、生涯忘れることのできない悲しい出来事が起こっていたのです。

  8月6日 広島原爆忌

 8月9日 長崎原爆忌

  8月14日正午 ポツダム宣言受諾御前会議

 8月15日正午 終戦の詔書 

 


終戦記念日に想う(1) ここをクリック

2013-08-07 17:12:02 | 日記・エッセイ・コラム

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        1945年7月30日の出来事

 空襲警報のサイレンが町中に響き渡りました。間もなく米軍のロッキード双発双胴P-38戦闘爆撃機(左)と、グラマンF4Fー4戦闘爆撃機ワイルドキャット(右)が轟音を響かせて飛来(機数は不明) 爆弾投下と無差別機銃掃射が始まりました。14歳の私は、病気の母を背負って防空壕に避難の途中、超低空で飛来した戦闘機の、ゴーグルをかけた操縦士と、はっきり目があったことを、68年たった今も鮮明に覚えています。そのすぐ後に急旋回してきた戦闘機が再飛来し、猛烈な機銃掃射を浴びせました。10歳の弟は、逃げ遅れて物置の陰で身動きもできませんでした。あとで分かったことは、トタン屋根に大きな弾痕が残っていたのでした。この日の爆撃で(旧渋川町)死者10人、負傷者37人、被害家屋47棟、被災者223人、同級生の母親が機銃掃射で、近所のおじさんも爆弾で亡くなりました。ロッキード戦闘機の機体の異相さに呆然と見とれていました。

 小さな町の大きな出来事でした。