新・臨床検査の光と影

人の命を測る臨床検査に光を!

戦争を語り継ぐ ⑫ 憧れた予科練 ⑫

2014-08-29 15:28:33 | 日記・エッセイ・コラム

Photo    69年前の夏の記憶 ⑫

    あこがれた予科練 ⑫

 小学6年生、健康優良児として県表彰を受けた数日後に、日本海軍横須賀鎮守府の平出海軍中佐から「海軍は君を待っている」という趣旨の手紙が届きました

 「命惜しまぬ予科練は七つボタンに桜と錨…」に憧れた軍国少年の出来上がりです。

 目指すは海軍飛行予科練習生、霞ヶ浦の所謂「予科練」です。

 ここの少年兵となった練習生2万4千人、九州だけでも陸海含めて出撃基地は、知覧・万世・鹿屋・開聞岳・国分・喜界島など、いくつかの基地を合わせると、総勢24万1千人余、戦死者した少年兵など数千人およびました。

 出撃した神風特攻機は、およそ1,300機ともいいます。あらゆる軍用機を総動員し、離陸できるぎりぎりまで爆弾を積載し、銃器を取り除き、搭乗員を守る鉄板を剥ぎ取り、なおかつ帰還に必要な燃料を積まずに、片道飛行で敵艦に突っ込み、体当たりする命令を受けて「神風特攻隊員」となったのです。

 小学6年生は、「死ぬ」ことなど一切考えも及びませんでした。 


戦争を語り継ぐ 14歳の記憶 ⑪

2014-08-23 11:20:54 | 日記・エッセイ・コラム

Photo              69年前の夏の記憶 ⑪

          国防婦人会 竹やり訓練

 大日本国防婦人会が発足、いよいよ本土決戦とばかり戦意高揚、家庭の婦人達も駆り出され、鋭利な竹の穂先を焼いて固くした竹やりを持って広場に整列、敵兵を突き殺すというもので、在郷軍人による「竹やり剣術」の教練が始まりました。白鉢巻にもんぺにたすき姿で、それはみんな真剣で本気でした。 

 一方、焼夷弾攻撃の火災から守る、と各戸に防火用水漕が設けられ、かたわらに、竹棒の先に、30センチほどの荒縄の束を、はたきのようにしたものが立てかけてありました。穂先を濡らして、焼夷弾の炎を消す方法とか。

 町内のあちこちの庭に、すり鉢様の穴を掘り、これで敵機の襲来する爆音を、いち早く感知する、アンテナになるというものもありました。

 いま思えば、何の役にも立たないのは当然ですが、滑稽であり、悲しい笑いの種としか思えませんが、戦争というものは、こうして徐々に、大衆が洗脳されていったのかもしれません。


戦争を語り継ぐ 14歳の記憶

2014-08-17 09:47:55 | 日記・エッセイ・コラム

        69年前の夏の記憶 ⑩

    中学校の講堂が軍需工場に

 ある日突然に、中学校の講堂の床板がはがされ、工員とともに多くの工作機器が搬入されました。

 飛行機の部品を作るためのものだとか。軍需産業の秘かな疎開だったようですが、学校側からは、なんの説明もなされませんでした。秘密だったのです。防諜のポスターを描くように云われたのもこの頃からで、疑心暗鬼「隣にスパイ」などの標語の募集なども行われました。

 国事警察として高等警察から分離し、国体護持のための査察、内偵などで取り締まる、特別高等警察、いわゆる“特高”の活動が活発化し、1941年、治安維持法制定をバックに、いやな時代を秘かに感じていました。

  最近施行された、武器・弾薬・防衛などに関連した、罰則を伴う特別秘密保護法案、先祖がえりか、あの時代に逆戻りしている危惧を痛切に感じています。

  上級生は軍需工場に、下級生の私たちは、出征兵士の農家の作業のため、分宿しての援農で、教室での授業は、だんだんなくなりました。

 米農家であっても、米の強制供出により、わずかな米に芋などで嵩を増やしての食事でした。


戦争を語り継ぐ 14歳の記憶

2014-08-16 10:51:54 | 日記・エッセイ・コラム

     69年前の夏の記憶 ⑨

    アッツ島、日本軍の玉砕

 戦果を上げるたびに勇ましい軍艦マーチで始まる、大本営のラジオ放送も、1943年5月29日、北太平洋アッツ島守備隊の全員突撃を期に、大本営は「死力を尽くして戦え」と打電。いわゆる玉砕です。玉が美しく砕け散るように、潔く死ぬことです。続いてレイテ島、サイパン島、テニアン島、グアム島など、南太平洋の守備隊は、弾薬も食料も尽き果て、ジャングルに立てこもり抗戦、ことごとく玉砕しました。

 臨時ニュースは「軍艦マーチ」から次第に、「海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草蒸す屍」の悲壮な曲にかわっていきました。ああ、また玉砕か!と思いました。

 駅頭に整列する学童の万歳で送られた出征兵士、八百屋のコーちゃんの戦死公報が町役場の吏員によって届きました。駅に動員された学童たちは、こんどは、深く頭を垂れて迎えました。迎えた遺骨は5~6人だったように記憶しています。コーちゃんの母親が受け取った白木の箱には、遺骨ではなく、戦死したとされる島の石が入っていました。

 どこで、どのように戦死したのかも、遺族には知らされることはありませんでした。群馬県内の戦死者・4万2千人、民間人の犠牲者・8千人。 

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戦争を語り継ぐ 14歳の記憶 

2014-08-15 09:02:13 | インポート

        69年前の夏の記憶 ⑧

      敵性用語禁止、野球にならない

 米英と戦争しているのだから、英語はすべて使用禁止」警視庁公安課からの通達です。軍国少年ではありましたが、一方で、田んぼで三角ベースの熱狂的な野球少年でもありました。

 ストライク=「よーし1本」 ボール=「だめ」 セーフ=「安全」 アウト=「無為」 「ファール」=「圏外」 タイム=「停止」 という始末で野球にならなくなりました。

  バットやグローブ、キャッチャーミットは、なんと云ったか覚えていません。

 笑ってしまうものもあります。

 ラグビー=「闘球」 スキー=「雪滑」 スケート=「氷滑」  動物、植物、音楽や芸名も、カタカナ語は使えないばかりか、英語の授業も成り立たなくなりました。

 英語が使えなければ、休戦交渉も不可能ですし、停戦交渉も成り立ちません。

 これが「戦争」というものです。

 今日は終戦記念日。甲子園球場では「ストライク」「ボール」のコールも明るく力強く響きわたり、高校球児たちが全力で駆け回っています。