新・臨床検査の光と影

人の命を測る臨床検査に光を!

医療と国民皆保険の崩壊

2008-09-18 10:58:32 | 医師不足の深層探究

     県立大野病院産科事件の波紋(6

       加藤克己医師、就職先決まる 

 無罪となった加藤医師に、処分を科し、休職扱いにした福島県当局は、復職の辞令をだしましたが、県職員を辞職しました。

 加藤医師の所属する福島県立医大産婦人科佐藤教授は、「県外の病院からも誘いがあったが、県内の産婦人科医不足の現状を踏まえ県内に残ってくれるだろう」と語っていましたが、新たな技術を学びたい、という意向もあって、子宮筋腫に対する集束超音波治療(FUS)の、数少ない実施施設である、会津中央病院に10月から勤務することになったようです。

 加藤医師は記者会見で「各学会、全国地区の医師会の先生方におかれましては、医療現場が大変な状況であるにもかかわらず、様々な形で応援していただきましたことに深く感謝申し上げます。また、インターネット等でご支援くださいました皆様、有難うございました。」とコメントをされました。

 無罪判決後、加藤医師は「地域医療を精一杯やりたい」と。


喜寿雑感

2008-09-10 10:52:11 | 日記・エッセイ・コラム

           「喜寿」そして1931年の出来事

 1931年9月6日生れ、とうとう「喜寿」をむかえました。

 昨年度の統計による日本人77歳男性の平均余命は、あと10年。さて、どう生きて、どのように暮らそうか?と同時にこの年に何があったか思い返しています。

 9月1日、清水トンネル開通

 9月18日、柳条湖事件

 9月21日、満州事件勃発、ここから第2次大戦に突入し、中学生になるまで軍国主義一色のなか、特攻隊に憧れた生粋の軍国少年でした。

           蟹工船・小林多喜二が・・・・・

 いま、小林多喜二の代表作「蟹工船」が一大ブームになっているとか。

 1931年9月6日、生まれたこの日、多喜二は群馬県伊勢崎での講演のため来県、この講演を前に、地元の活動家と茶話会を催したところ、「無届集会」として伊勢崎署の公安警察によって、他の講師や地元関係者とともに拘禁されたことを、最近知りました。

 激怒した講演会の聴衆数百人が伊勢崎署を取り囲み、乱闘の末、警察官を追い出し署を占拠しました。翌7日未明に釈放。

 警察側は、占拠された失態を隠ぺいするために、民衆側に対し新聞発表しないよう」約束させたとか。

 しかし、同8日、朝日新聞夕刊が報道。結果的に多喜二らは釈放されましたが、警察権力は「講演会の中止と、思想弾圧の目的は達した」反面、逆に民衆の結束を強めたことになりました。

 ここから、公安警察の弾圧は、終戦までますます強化され続けました。

 こんな事件のさなかに生を受け、喜寿を迎えたわけでした。 


医療と国民皆保険の崩壊

2008-09-04 10:36:47 | 医師不足の深層探究

       県立大野病院産科事件の波紋(5)

        隠された県当局の「騙し」の真相

 加藤医師が産婦人科の「一人医長」に就任したのは04年4月。医師になって9年目、この年224件のお産を手掛け、そのうち41件が帝王切開手術で、ほとんど一人で行ってきました。

 そもそも03年、大野病院の移転・新築にともない、福島医大に「小児科の医師もくるから、産科の医師も派遣してほしい」から始まります

 大学側教授も「小児科医がいるのであれば」、そして加藤医師も「僕が断る理由もなくなった」と承諾。

 「産科医一人より、小児科医がいれば3人分の仕事ができる」と思ったからでした。

 しかし、県当局は小児科医の配置はしませんでした。

 医大の小児科教授は「なんで加藤医師をだしたんだ、『私はだす』なんて云った覚えはない」と産婦人科教授に苦言。

 このあたりを県当局に糺すと「当時の職員はすでにいないのでわからない」

 さらに驚いたことは、福島県医療事故調査報告書です。

 加藤医師の判断ミスと報告、医大側の「書き直せ」の抗議に対し、県当局は、「ミスを認めないと保険会社が保険金を支払わないから」さらに「当時は、刑事事件になるなんて、考えてもいなかった」 

 結局、遺族に保険金が支払われるように、そのためにつくった報告書が、刑事事件として、捜査当局が介入するきっかけとして利用されたわけです。にもかかわらず、このことは、裁判で問われることもなく結審しました。

 医大教授から「なんとか行ってくれ」と頭を下げられたのに対して加藤医師は「分かりました、医局にはお世話になったし、お礼奉公します」と。

 医大教授は「私は県に騙された」と悔恨の述懐をしています。これが隠された真相です。