慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

『東方見聞録』15(世の中の仕組みを俯瞰する)

2020年12月06日 | 歴史
🌸『東方見聞録』15(世の中の仕組みを俯瞰する)

 ☆日本人を「人食い人種」としてレポートしている
 *西洋人の偏った日本人観がうかがえる
 ☆『東方見聞録』は、”世界の記述”の「不都合な真実」である
 ☆著者、マルコ・ポーロ

⛳『東方見聞録』著者マルコポーロのプロフィール
 ☆「ジパング島は黄金の国」と描いたことで有名な旅行記
 ☆「世界の記述」と呼ばれる「東方見聞録」
 ☆欧州諸国にとり、当時アジア未開の地であった
 *アジアが紹介され、人々の探求心を大いにくすぐった
 ☆ヴェネツィアの商人の子として生まれたマルコ・ポーロ
 ☆家族に従い長い旅に出て、中央アジアを経て北京に到着する
 ☆中国はモンゴル王朝「元」の支配下にあった
 ☆マルコ・ポーロは約17年皇帝フビライに仕える
 ☆元の使節で、ビルマ、スリランカ、ベトナムなどの国を訪れた
 ☆ヴェネツィア帰国後、著述家としたしくなる
 *アシアで得た見聞を口述した内容が『東方見聞録』
 *多分に誇張も含まれていると考えらる

⛳『東方見聞録』概要
 ☆商人のマルコ・ポーロは、金の国日本を何故訪れなかった理由
 *日本では、金が大量に採掘されているとも記述した
 *建物の屋根全体が金で覆われているとも記述した
 ☆その理由が「東方見聞録」に記述されている
 *日本では誘拐ビジネスが横行している
 *日本人は「人食い人種」である
 ☆元王朝は、日本に2度「元寇」を強行したが失敗に終わった
 *巨大な元軍を「神風」で追い返した日本人
 *元の人々の間でも、日本人の不可思議さが語り継がれていた
 *西洋人の、マルコ・ポーロには一層奇異なものに映った
 ☆「東方見聞録」での諸外国の記述内容
 *イスラム社会や元社会に対して偏見な内容は少ない
 *日本に対しては、偏った日本人観で記述している


⛳『東方見聞録』に記載されている日本人への偏見
 ☆現在の日本人の『東方見聞録』の認識
 *日本を西欧に紹介した書との一側面しか知らない
 ☆『東方見聞録』日本が記述された内容
 *日本人に不都合で不愉快な記述が削除されている
 *マルコ・ポーロが紹介した日本像
 (ロシア人・イギリス人など正確に知っている)
 ☆「東方見聞録」は、西洋人が日本人に対して抱いてきた偏見記述内容
 *それを知るうえでも必読の書である
 ☆人間が、未知のものにどのように向き合うのかも参考になる
                      (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
⛳出典、『世界の古典』




『東方見聞録』15(世の中の仕組みを俯瞰する)
(ネットより画像引用)
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平清盛のマネー革命

2020年08月15日 | 歴史
🌸平清盛のマネー革命~銭の力で新時代へ

 ☆平清盛、武力と巧みな政治手腕で権力の座につく
 *権力に溺れて自滅したとも語られてきたが
 ☆平清盛は、先見性溢れるグローバルな改革者だった
 *経済大国・宋から大量の銭を輸入
 *日本で宋銭を新たな通貨に定めようとした
 ☆改革により、有力貴族や寺社勢力が猛反発にあう

⛳平清盛のプロフィール
 ☆伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれた
 ☆保元の乱で後白河天皇の信頼を得る
 *平治の乱で勝利し、太政大臣に任じられる
 ☆日宋貿易で、財政基盤の開拓を行う
 *宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築く
 ☆日本初の武家政権を打ち立てた
 ☆平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立
 *治承三年の政変で法皇を幽閉
 ☆清盛の孫、安徳天皇を擁し政治の実権を握る
 ☆平氏の独裁は、公家・寺社・武士などから反発を受けた
 ☆源氏による平氏打倒の兵が挙がる中熱病で没した

⛳平清盛は「宋銭」に目をつけた理由
 ☆太宰府の長官時代、清盛は宋銭に目をつけた
 ☆権力の座につき、清盛は宋銭を本格的に輸入し始めた
 ☆結果、初めて日本に貨幣経済が根づいた
 ☆実際使用された日本の貨幣
 *和同開珎がその始まりではない
 *日本初の流通貨幣は「宋銭」
 ☆何故、清盛が宋銭を輸入できたのか?
 *中国では、宋銭が不要になった
 (宋銭以外に紙幣ができた)
 *宋の後のモンゴル世界帝国
 (貨幣体系を「銀」と「紙幣」に置き換えた)
 *中国で、宋銭(銅銭)がいらなくなった
 ☆中国は、日本やベトナムに宋銭の販売を考えた
 *日本が喜んだので、宋銭を輸出し始めた
 ☆宋銭が輸入でき、わが国に貨幣経済が成立した

⛳平清盛死後
 ☆清盛の死後、嫡男の重盛はすでに病死
 *次男の基盛も早世していた
 ☆平氏の棟梁の座は、三男の宗盛が継いた
 ☆全国各地で相次ぐ反乱に対処できず
 *宗盛は、後白河法皇の奇謀に翻弄された
 *院政方も勢力を盛り返す
 *平氏は次第に追いつめられた
 ☆平氏軍に対する、木曽義仲軍の攻勢
 *倶利伽羅峠の戦いで平氏軍壊滅
 ☆壇ノ浦の戦いに敗れて平氏は滅亡した
                  (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
⛳出典、『英雄たちの選択』、WIKIPEDIA他












平清盛のマネー革命
『英雄たちの選択』テレビ画面より画像引用)

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謎の屏風が語る 〜復元推理 大坂冬の陣図屏風〜

2020年07月24日 | 歴史
大坂冬の陣を伝える屏風が復元された

 ☆豊臣滅亡後に描かれたのに、屏風には豊臣優勢の場面ばかり描かれている
 ☆大坂冬の陣図屏風
 ☆誰が何のために描かせたのか?

復元された大坂冬の陣の屏風
 ☆豊臣滅亡後に描かれたのに何故豊臣優勢の場面ばかり描かれている
 ☆真田信繁(幸村)の活躍で知られる大坂冬の陣
 ☆最大の謎は、誰が何のために作成したのか? その発注者は誰か?
屏風の特徴
 ☆武士だけでなく、町人、商人まで描かれている
 *風俗図屏風のような印象
 *堀の中を人が歩いており、堀の中に築山も築かれている
 ☆徳川方が淀川の上流をせき止めた結果
 *堀の水が下がった結果をリアルに描写している
 ☆堀の中に夜間照明の提灯も描かれている
屏風発注者の条件
 ☆豊臣方が奮戦た、徳川方がやられている場面も描かれている
 ☆豊臣家にシンパシーを持つ人物が描かせたと考えられる
 ☆描かれている大坂城が綺麗すぎる
 *大阪城、大砲で塀などはボロボロにされたのに
 *徳川方寄りの人物の描かせ方ではない
 ☆大坂城の描写が正確で、豊臣大阪城を知る人物が描かせた
 ☆屏風を作らせる発注者の条件は3つ
 *豊臣家にシンパシーを持つ
 *豊臣大坂城をよく知る
 *屏風を作らせる財力がある
真田信之(発注者)
 ☆真田丸が大きく描かれている
 *真田丸の攻防戦を称える意図がある場合
 *発注者として、真田信之が考えられる
 ☆財力はあるが、豊臣家にシンパシーを感じていたかは疑問
伊達政宗(発注者)
 ☆屏風の右下には九曜紋を掲げた巨大な陣小屋が描かれている
 ☆九曜紋といえば細川家
 *伊達政宗が細川忠興から使用の許可を得ている
 ☆大坂の陣では片倉重綱が使用していた
 ☆自軍の活躍を記録として残すために伊達政宗が考えられる
 ☆伊達政宗には豊臣家にシンパシーを持っていたエピソードもある
 ☆伊達軍は、冬の陣では活躍してないので、描かせる動機に乏しい
徳川秀忠(発注者)
 ☆屏風の右上には徳川秀忠の陣が大きく描かれている
 *家康の陣は半分程度しか描かれていない
 *家康が建てた大阪城西の丸天守が描かれていない
 *秀忠の功績を高めたいという意図が見受けられる
 ☆徳川秀忠が発注者ならば、徳川家で本物を持っていいるはず
 ☆残っていないということは、秀忠が発注者でない
蜂須賀至鎮(発注者)
 ☆豊臣大坂城を後世に残すという強い意図が感じられる
 ☆豊臣恩顧の大名だが、徳川につき、図の真ん中に描かれている
 ☆蜂須賀至鎮が発注者として考えられる
 ☆蜂須賀家は、大坂の陣の活躍が認められ淡路国を加増された
 ☆屏風に、蜂須賀家が負けている場面が描かれている
 *蜂須賀家が発注者なら、活躍している場面を描かせる
千姫(発注者)
 ☆千姫は徳川秀忠の長女で、豊臣秀頼の正室
 ☆千姫は化粧料10万石あり、財力は申し分ない
 ☆3つの条件を千姫はすべて備えている
 ☆千姫の後ろには徳川秀忠がいる
 *徳川秀忠の協力の下作成した
 ☆千姫とした場合
 *豊臣家にシンパシーを持つから発注したのと違う
 *千姫が強いシンパシーを持っていたならば
 *仏門に入って秀頼の菩提を弔っていた
 *本多忠刻とも再婚しなかったはず
千姫が屏風を発注したのは、千姫の不幸が原因なのでは
 ☆本多忠刻との間に生まれた長男・幸千代が3歳で亡くなる
 ☆本多忠刻も31歳で、母江も同じ年に亡くなるという不幸が続く
 ☆占ったところ秀頼の祟りが原因と
 *千姫は秀頼の怨念を鎮めるために仏像を奉納した
 *その一環で、豊臣家が活躍している大阪冬の陣図屏風を作った
 ☆大坂冬の陣図屏風が後世に残らなかったのは
 *千姫の個人的思いで作成したから
 *千姫の死後、それを守る人がいなくなった
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、テレビ朝日『戦国巡礼絵巻』、NHK『英雄たちの選択』












謎の屏風が語る 〜復元推理 大坂冬の陣図屏風〜
(『英雄たちの選択』テレビ番組画面より画像引用)


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松平忠輝(徳川家康の六男)

2020年07月18日 | 歴史
松平忠輝(徳川家康の六男、大名)

 ☆豊臣家を滅ぼした徳川家康が、世を去るのはわずか一年後
 ☆一年の間に家康は、大名や朝廷、宗教勢力を統制する基本法を定めた
 *お家騒動を防ぐ将軍位継承のルールも決めた
 *徳川幕府を永続させる制度をすべて作り上げていた
 ☆それが、戦国の世を終わらせ太平の世を築く家康の終活だった
 ☆家康を最後まで悩ませる問題
 *将軍秀忠を軽んじ、伊達政宗と結びついた六男・忠輝の存在
 ☆松平忠輝は海外との交易に興味を示し、武術を好む
 *茶道、絵画、薬学に通じた文化人

松平忠輝誕生
 ☆徳川家康の六男(庶子)として江戸城で誕生した
 ☆生母の身分が低かった
 *家康は誕生した忠輝を喜ばず捨て子とする
 *家康の側近・本多正信に拾わせ、大名皆川広照に預けられた
松平忠輝成長
 ☆家康の七男早世し、弟の名跡を継ぐ形で長沢松平氏の家督を相続
 ☆下総国佐倉5万石に加増移封され、元服して上総介忠輝を名乗る
 ☆大久保長安の仲介で、伊達政宗の長女・五郎八姫と結婚した
 ☆高田藩30万石を加封された
 *川中島14万石と併合して合計45万石
松平忠輝築城
 ☆当初の忠輝は、堀氏が築いた福島城を居城とした
 ☆忠輝は、高田城を築城し高田城に移った
 ☆高田城は幕命で、加賀藩を牽制する新城建設
松平忠輝の改易・配流
 ☆父・家康との距離は縮められずじまい
 *大坂冬の陣では江戸の留守居役を命じられる
 *大坂夏の陣で大坂に出陣
 (遅参により軍功を挙げることはできなかった)
 ☆家康は今際の際に秀忠・義直・頼宣・頼房らを呼ぶ
 *忠輝だけは呼ばなかった
 *家康は最後まで面会を許さなかった
 ☆忠輝は兄・秀忠から改易を命じられた
 *伊勢国朝熊に流罪とされ、金剛證寺に入った
 ☆その後、信濃国諏訪の諏訪頼水に預け替え
 *諏訪の配流屋敷で長年を過ごした
 ☆享年92歳の長命
野風の笛の逸話
 ☆家康との仲は、悪くはなかったとする説もある
 ☆野風の笛は、織田信長→豊臣秀吉→家康と渡り歩いた物
 ☆天下人の象徴である笛を、家康は忠輝に渡した
松平忠輝が父に嫌われた理由
 ☆忠輝は、父親から生涯を通じて嫌われた
 *理由は、母親の身分が低かった
 ☆家康は、忠輝の容貌を嫌ったという記録が多い
 *家康は、長男・信康の面影を忠輝に見いだしていた
松平忠輝改易の理由
 ☆家康没後兄の秀忠は忠輝に改易を命じた
 ☆大坂夏の陣、大坂に攻め入る総大将を命じられていたが遅参した
 ☆道明寺の戦いにも遅参
 ☆キリスト教ときわめて親しい関係にあった
 ☆妻の五郎八姫はキリシタンだった
                (敬称略)
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、NHKBS『英雄たちの選択』『WIKIPEDIA』






松平忠輝(徳川家康の六男)
(『英雄たちの選択』テレビ画面より画像引用)


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アヤソフィアを博物館からモスクへ変更

2020年07月13日 | 歴史
トルコのアヤソフィア博物館モスクへ変更

 ☆博物館として開放していた建築物アヤソフィアをモスクへ変更する
 ☆アヤソフィアの歴史
 *約1500年前キリスト教・東方正教会の教会として建設された
 *オスマン帝国の侵略によりモスクに改修された
 *その後宗教的に中立な博物館となる
 ☆ユネスコの世界遺産に指定された

アヤソフィアは、宗教的・政治的にも重要な建造物
 ☆トルコのイスラム原理主義者、モスクに転換するよう求める
 *中立派の野党などが反対していた
 ☆モスクへの転換案
 *世界各国の首脳や宗教的指導者から批判されてきた
 ☆エルドアン大統領
 *トルコは国家主権で、アヤソフィアをモスクに戻したと裁判所擁護
アヤソフィアの歴史
 ☆東ローマ帝国のユスティニアヌス帝が建設した教会
 *巨大なドームのあるアヤソフィア
 *教会として、建築物として、世界最大級の規模
 ☆オスマン帝国がコンスタンティノープルを占領
 *アヤソフィアで盛大なイスラム教の金曜礼拝を行った
 *オスマン帝国はアヤソフィアをモスクに改修した
 *数世紀アヤソフィアはオスマン帝国の中心だった
 ☆トルコ共和国が成立
 *世俗化政策の一環として博物館に指定された
 ☆現在のアヤソフィアは、有名な観光地で、370万人が訪れる
アヤソフィアの内部、アラビア文字の装飾が施されてる
 ☆東方正教会最大のロシア正教会ステートメント発表
 *トルコの裁判所が正教会を考慮に入れてなかったことが遺憾
 *今回の決定がさらなる分裂を招く可能性がある
 ☆アヤソフィアのモスクへの転換の裁判所の判断
 *宗教的保守派のエルドアン大統領支持者は指示
アヤソフィアのモスク転換
 ☆自らを現代の征服者を呼ぶエルドアン大統領は、まったく悪びれていない
 *決定が気に入らない者は、トルコの主権を攻撃しているのだと反発
 *実際には、国外でも大勢が反対している
 ☆アヤソフィアの「奪還」
 *大統領支持層の宗教的保守派、そしてトルコの国粋主義者は歓迎
 ☆国際社会では大勢
 *アヤソフィアはトルコではなく人類に属するものだと主張
 *そのままにしておくべきだと訴えている
 *アヤソフィアは、キリスト教とイスラム教の架け橋であり、共存のシンボルだと
                      (敬称略)
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 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、NEWS JAPAN(BBCニュース)








トルコのアヤソフィア博物館モスクへ変更
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曜変天目茶碗

2020年04月04日 | 歴史
曜変天目茶碗(ようへんてんもくちゃわん)

 ☆天目茶碗のうち、最上級とされる、曜変天目茶碗
 ☆漆黒の器で内側には星のようにもみえる大小の斑文が散らばる
 ☆斑文の周囲は暈状の青や青紫で、角度により玉虫色に光彩が輝き移動する
 ☆「器の中に宇宙が見える」とも評される
 ☆曜変天目茶碗は、現在の中国福建省南平市建陽区にあった建窯で作られた
 ☆現存するものは世界でわずか3点(または4点)そのすべてが日本にある
 ☆3点が国宝、1点が重要文化財に指定されている
 ☆南宋時代の作とされるが、作者は不詳である
 ☆日本では、室町時代から唐物の天目茶碗の最高峰として位置付けられている

曜変と呼ばれる条件
 ☆「曜変」とは「天目」という言葉は、日本で作られた言葉
 ☆曜変とは、内側の黒い釉薬の上に大小の星と呼ばれる斑点が群れをなして浮かぶ
 *周囲に暈天のように、虹色の光彩が取り巻いているものを言う
 ☆茶碗の内側に光を当てると、七色の虹の輝きとなって跳ね返ってくる
 ☆これが曜変天目茶碗にそなわっていなければならない
 ☆この紋様が意図的か、偶然によるものかは議論がわかれている
現存する曜変天目茶碗
 ☆静嘉堂文庫蔵(国宝)
 *稲葉天目の通称で知られ、現存する曜変天目茶碗の中でも最高の物とされる
 *徳川家光が病に伏せる春日局に下賜した、その子孫淀藩主稲葉家に伝わった
 *そのため「稲葉天目」と呼ばれる
 *三菱財閥総帥の岩崎小弥太が購入し現在は静嘉堂文庫所蔵
 ☆藤田美術館蔵曜変天目茶碗(国宝)
 *水戸徳川家に伝えられたもので、曜変の斑紋が外側にも現れている
 *藤田財閥の藤田平太郎が入手し、現在は藤田美術館所蔵
 ☆龍光院蔵(国宝)
 *筑前黒田家の菩提寺、大徳寺の塔頭龍光院に初世住侍江月宗玩以来伝わったもの
 *黒田長政が筑前博多の豪商、島井宗室の縁でこの院に帰した説もある
 *国宝とされる三椀の曜変天目茶碗のうち、最も地味なもの
 ☆MIHO MUSEUM蔵(重要文化財)
 *加賀藩主前田家に伝えられ、かつて大佛次郎が所蔵していたもの
 *国宝3点とは異なり、曜変は内面の一部に限られている
 *この天目茶碗を「曜変」と呼ぶかどうかは議論がある
失われた曜変天目茶碗
 ☆現在、世界で3点(4点)しか現存しない曜変天目茶碗
 ☆記録によればもう1碗あったと考えられる
 ☆足利義政から織田信長、信長がこれを愛用していた
 ☆持ち歩いたため本能寺の変で他の多くの名物と共に焼失してしまった
 ☆歴史秘話ヒストリア「謎の茶碗はなにを語る」は、この茶碗ではないかとのストーリー
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出典、『歴史秘話ヒストリア』、WIKIPEDIA








曜変天目茶碗(『歴史秘話ヒストリア』、WIKIPEDIAより画像引用)
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「日本書紀」のポイント1(1巻~5巻)

2020年02月23日 | 歴史
『日本書紀』の概略ポイント(1)

1巻、神代(上)
 ☆天地のはじまり
 ☆伊邪那岐命と伊弉冉尊の国生み
 ☆三貴子の誕生
 *黄泉の国から帰った伊邪那岐命から、最後に生まれ落ちた三柱の神々
 ☆天照大神と須佐之男命の誓約
 ☆天岩屋戸神話
 ☆八岐大蛇退治
2巻、神代(下)
 ☆天孫降臨
 *天孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)が、天照大御神の神勅を受ける
 *葦原の中つ国を治めるため、高天原から筑紫の日向に天降った
 ☆海幸彦と山幸彦
 *日本神話で、天孫族と隼人族との闘争を神話化したもの
 ☆神武天皇の誕生
 *紀元前711年2月13日に誕生
3巻、神武天皇
 ☆東征出発
 ☆長髄彦(ながすね)との戦い(兄を失う)
 ☆頭八咫烏の導き
 ☆大和平定し橿原に宮殿を造営
 ☆初代天皇の即位宮を造営して即位した
4巻、綏靖(すいぜい)~開花天皇
 ☆欠史8代、系譜のみが記され、実績や詳細が記されてない
5巻、崇神天皇
 ☆崇神天皇の即位
 ☆大物主神を祀る
 ☆四道将軍の派遣
 *即位後、疫言が大流行して人口の約半分が失われた
 *崇神天皇は、大物主神を祀ることでこれを終息させた
 *4人の将軍を各地に派遣した
 *戸口を調査し、初めて役を課した
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出典、『「日本書紀」と天皇126代』






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(『「日本書紀」と天皇126代』記事より画像引用)
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信長を導いた戦国革命児斎藤道三

2020年02月04日 | 歴史
斎藤 道三プロフィール

 ☆戦国時代の武将、美濃の戦国大名、道三流斎藤氏初代当主
 ☆名としては、長井規秀・長井秀龍・斎藤利政・道三などが伝わる
 ☆娘に、姉小路頼綱正室、帰蝶(濃姫、織田信長正室)などがいる
 ☆下克上大名の典型
 *名もない境遇から僧侶、油商人を経て戦国大名にまで成り上がった
 *権謀術数を用い、道三は美濃の戦国領主として君臨した
 *子供義龍へ家督を譲ったが、長良川河畔で義龍軍に敗れ討ち死にした
 ☆信長を導いた戦国革命児、斎藤道三
 *斎藤道三、明智光秀の主君
 *娘婿である織田信長は、道三の性格を受け継ぎ天下布武を掲げた男

斎藤道三、長井家乗っ取っる
 ☆道三油売りに従事しながら行商の旅にも出てる
 *美濃でかつての弟弟子・日護房に再会
 *彼の紹介で美濃守護・土岐氏の老臣長井長弘へ仕える
 ☆長井長弘は、道三の才能と武技を気に入る
 *守護である土岐政房の長男・土岐政頼、兄弟(頼芸・政頼)等に目通りさせた
 *土岐氏では、家督争いが勃発し、土岐政頼が勝ち美濃守護の座を得た
 *頼芸に気に入られていた道三は、政頼を追い出して頼芸を守護にした
 ☆土岐家の実務は長井長弘らが請け負っていた
 *道三は、長井長弘夫妻を殺害し、同家を乗っ取る
斎藤道三、美濃の大名に
 ☆長井家を乗っ取った道三は、本拠を稲葉山城に移動
 ☆守護代が亡くなると、道三がその名跡を継いで斎藤氏を名乗る
 ☆斎藤道三美濃を奪い取ろうと立ち上がる
 *相手は、土岐頼芸で、自身の主君で、守護をぶっ叩きに行く
 *土岐頼芸のいる大桑城に道三が攻め込み、クーデターは成功
 ☆斎藤氏と織田氏の和睦が成立した時点で、道三による美濃の支配が確定した
斎藤道三は、家督を譲った子供、斎藤義龍と戦い死亡
 ☆道三は、義龍を毛嫌いしていた
 ☆斎藤義龍が道三を追い込んだ合戦、長良川の戦い
 *信長が自ら援軍に急行したが、道三は既に死亡していた
 ☆道三の死亡により、信長は、美濃とも対決モードで挑まなければならなくなった
 *信長にとり幸運にも斎藤義龍が急死した
 ☆信長は、後を継いだ斎藤義龍息子の斎藤龍興と戦い、信長が勝利した
 ☆最終的に美濃国は織田信長の氏のものとなる
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出典、BUSHOO!JAPAN(武将日本)、NHK歴史秘話ヒストリア
















信長を導いた戦国革命児斎藤道三
(NHK歴史秘話ヒストリアテレビ画面より画像引用)




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大谷光瑞氏、河口慧海氏、白瀬矗氏

2020年01月18日 | 歴史
20世紀探検家列伝

 ☆20世紀に入って、死と隣り合わせの大冒険を成し遂げた3人の探検家
 ☆彼らを探検に駆り立てたものはなにか?明治人の気概に迫る
 ☆探検家を突き動かしたのは、3つのGのどれかとの見方もある
 *グローリー(名誉)、ゴスペル(宗教的情熱)、ゴールド(経済)

大谷光瑞(こうずい)氏
 ☆宗教家(僧)、探検家
 ☆浄土真宗本願寺派第22世法主、伯爵、国営競馬馬主
 ☆シルクロードの仏教遺跡を探検した
河口慧海(えいかい)氏
 ☆黄檗宗の僧侶、仏教学者にして探検家
 ☆中国や日本に伝承し漢語に翻訳された仏典に疑問をおぼえた
 ☆仏陀本来の教えが解る、梵語の原典とチベット語訳の仏典入手を決意
 *日本人として初めてチベットへの入国
 ☆単身、秘境チベットで仏教の原典をもとめた
白瀬矗(のぶ)氏
 ☆日本の探検家で陸軍中尉
 ☆千島列島の探検を行い,千島列島から北極に到達することを計画し果せなかった
 ☆その後,探検を南極探検に転換、南極点到達を計画したが、南極点には到達は果たせなかった
 ☆しかし、南極大陸に到達し銅柱を雪中に埋め,その付近を「大和雪原」と命名した
 ☆民間人として、南極探検に乗り出した
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、NHKBS『英雄たちの選択』、『WIKIPEDIA』他








大谷光瑞氏、河口慧海氏、白瀬矗氏
(『英雄たちの選択』テレビ画面より画像引用)

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つぐない~BC級戦犯の遺言~

2019年12月11日 | 歴史
BC級戦犯

 ☆第二次世界大戦中に犯した罪を問われ戦争犯罪人とされた人々
 ☆戦犯は3つの基準で区別された
 *Aは、平和に対する罪、戦争を計画・主導したとされる人々
 (7人がA級戦犯として死刑判決を受けた)
 *Bは通例の戦争犯罪、Cは人道に対する罪
 *BC級戦犯は捕虜の処刑や虐待などを行った者を指す
 *被告は約5,700人、約1,000人が死刑判決を受けた
 *世界各地で行われた軍事裁判で、920人が処刑された
 ☆巣鴨プリズンには最多時期で1,800人を超える戦犯が収容された
 ☆巣鴨プリズンで処刑された人とされなかった人の違いは何か?

巣鴨プリズン
 ☆A級戦犯28人が起訴され、7人が巣鴨プリズンで処刑された
 ☆死刑囚が通った巣鴨プリズンの13号扉
 *法務省矯正研修所に残されている
死刑判決を受け、処刑された人、免れた人
 ☆処刑された人
 *藤中さんは終戦間際の沖縄県石垣島の部隊にいた
 *落とした爆撃機の3人の米兵を数十人の日本兵で殺害した
 (その中に、藤中さんもいた)
 *藤中さんら7人には絞首刑が言い渡された
 *1950年4月刑が執行された
 ☆処刑を免れた人
 *冬至さんは旧陸軍主計大尉だった
 *空襲の翌日に捕虜となっていた米兵8人が処刑された
 *冬至さんは、米兵1人を処刑、上官の命令で続けて3人を処刑した
 *冬至さんは、死刑判決を受けたが、刑が執行されなかった
米軍が処刑を実行しなくなった理由
 ☆朝鮮政争が勃発し、米軍は、日本人の理解・協力・援助を必要とした
 ☆戦争戦犯の刑執行により、日本人に反米感情が起こるのを避けた
 ☆1950年5月の朝鮮戦争勃発後、日本人戦犯の処刑皆無となった
碓井平和祈念館
 ☆戦犯として裁かれた人が家族に宛てた遺書が展示されている
 ☆遺書を纏めた本「世紀の遺書」
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私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
NNNドキュメント「つぐない~BC級戦犯の遺言~」














つぐない~BC級戦犯の遺言~
(NNNドキュメント「つぐない~BC級戦犯の遺言~」テレビ画面より画像引用)




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月山富田城、悲劇の山城

2019年10月29日 | 歴史
中国地方の山城・月山富田城(がっさんとだじょう)

 ☆尼子氏の居城・月山富田城
 *名だたる武将が挑み、武力で攻め落とすことが出来なかった戦国時代の山城
 *巧みな守りの仕掛けによって難攻不落の山城として恐れられた
 *島根県に所在し、戦国時代に、山陰の覇者尼子氏が本拠を構えた城
 ☆170年間の尼子氏六代の盛衰の舞台となった

月山富田城の概要
 ☆歴代の出雲国守護職の居城
 *大名尼子氏の本拠地となり、山陰の要衝の地となった
 ☆尼子氏は、中国地方の覇権を巡って周辺諸国と争う
 *尼子経久の時期に出雲に基盤を造り上げる
 *嫡孫尼子晴久の代に、山陰・山陽八ヶ国守護の大大名となった
 ☆天然の地形を利用した、最も難攻不落の要塞城
 *「天空の城」とも呼ばれていた
 ☆城を巡っても度々攻防戦が行われた
 *尼子氏は毛利氏により滅ぼされ、城も毛利領となった
月山富田城の戦い
 ☆第一次月山富田城の戦い(大内義隆が毛利氏などの諸勢力を引き連れて攻め込んだ)
 *大内義隆が、1万5千の大軍で攻めたが、はねつけられる
 ☆第二次月山富田城の戦い(大内氏滅亡後に毛利元就が行った戦い)
 *毛利元就が、3万の大軍で、月山富田城を包囲し史上最大の籠城戦が始まった
 *第二次の合戦により尼子氏は滅亡した
 ☆尼子氏の再興を目指す勢力が起こした戦い
 *悲劇の忠臣・山中鹿介が尼子氏再興をかけて、月山富田城に迫る
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私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、NHK『英雄たちの選択』、WIKIPEDIA










月山富田城、悲劇の山城
(NHK『英雄たちの選択』、ネットより画像引用)

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世界史のウソと真実の名作6(笛吹き男、アサー王)

2019年10月26日 | 歴史
世界史のウソと真実の名作6

 ☆グリム童話『ハーメルンの笛吹き男』は何を伝えたかったのか
 ☆アーサー王伝説―モデルとなったのは、アジア人だった
 ☆「世界史の謎がおもしろいほどわかる本」最終回
 *真相は別にして、面白い本でした

グリム童話『ハーメルンの笛吹き男』は何を伝えたかったのか
 ☆ドイツのハーメルンにひとりの男があらわれた
 *当時のハーメルンは、ネズミの被害に困っていた
 *男はお金を払えばネズミを退治すると申しでて、町は男にネズミ退治を依頼
 *男が笛を吹くと、家々からネズミが出てきた
 *ネズミは、男が歩く方向についていき、ネズミは町から去っていった
 *ハーメルンの人たちは約束を破り、男にお金を払わなかった
 *男は怒って、町を出ていった
 *男がふたたびハーメルンにあらわれ笛を吹く
 *子供たちが、男とともに町を出て行って、戻ってくることはなかった
 ☆実際にこれと似た事件が過去に起こっている
 *フランスで、少年が「十字軍に行くようにと神のお告げがあった」といい出した
 *少年は、数千人の少年少女を導いて、マルセイユから船に乗って出ていってしまった
 *子供たちは、アフリカヘ連れていかれ、奴隷として売られたのでは
 ☆子供たちの集団家出の要因は、当時の社会的状況にあった
 *子供といえども、過酷な労働を強いられる時代
 ☆「笛吹き男」の話、史実に基づいているのだろうか
 *東方への植民活動が盛んだった時代
 *「笛吹き男」は、植民活動の応募者を募ったのではないか
 ☆グリム童話の物語になんらかのメッセージがある
 *この物語では何を伝えたかったのだろうか、解明されていない
アーサー王伝説―モデルとなったのは、アジア人だった
 ☆ブリトン人(ケルト人の一派)の王・アーサーと騎士達の活躍
 *さまざまな物語は、中世の人々を魅了した
 *ブリトン人の子孫であるウェールズ人
 *アーサーは民族を象徴する英雄だった
 *彼らは「必要なときにはアーサー王が助けにきてくれる」と信じていた
 ☆ヨーロッパでは、有名なアーサー王
 *歴史記録のどこにも彼の名は見あたらない
 *アーサー王は、架空の人物である可能性が高い
 ☆アサー王のモデルとなる人物
 *候補者の一人は、西ローマ帝国の軍人
 *候補者の二人目は、ゲルマン民族と戦って戦功を上げたブリトン人がいた
 (名前は残されていない)
 ☆近年では、アーサー王として、サルマート人説が有力視されている
 *サルマート人とは、イラン系の遊牧騎馬民族
 *サルマート人に伝わる伝説は、アーサー王伝説と似ているものが多い
 *サルマート人の伝説が、アーサー王伝説のルーツではないか
 ☆アーサー王のモデルが、サルマート人だった場合
 *ヨーロッパを代表する英雄が、アジア人だったということになる
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出典、『世界史の謎がおもしろいほどわかる本』




世界史のウソと真実の名作6(笛吹き男、アサー王)
(ネットより画像引用)






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世界史のウソと真実の名作5(アガサ・クリステイ、ロビン・フツド)

2019年10月25日 | 歴史
世界史のウソと真実の名作5

 ☆アガサ・クリステイ失踪事件の真相
 ☆ロビン・フツドは実在の人物だったのか

アガサ・クリステイ失踪事件の真相
 ☆ミステリーの女王として現代でも人気を博しているのが、アガサ・クリステイ
 *アガサは、デビュー作を発表しすぐに人気作家になった
 ☆アガサは、外出したまま行方不明になった
 *夫との不仲説が流れていたことから、夫に殺されたと噂する者
 *アガサの自殺説
 *彼女の車が見つかった近くの湖の湖底まで捜索する事件に発展した
 ☆アガサは、保養地のホテルに滞在していた
 *理由に関し彼女は、「記憶がない」と告げたのみ
 *以後この件に関して一切口を開いていない
 ☆ミステリー作家が失踪した約10日間
 *アガサの本心は誰も知ることができなかった
 ☆アガサが、愛人を持つ夫への自作自演の失踪劇とも
 ☆発見後の彼女を診察した医者の発表
 *ヒステリーによる記憶喪失を公式見解
ロビン・フツドは実在の人物だったのか
 ☆ロビン・フツドは、イングランドの森に住む弓の達人として知られている
 *その物語の中で、教会や王権などの時代背景が非常に細かく設定されている
 *その為、実在の人物がモデルとなっているといわれている
 ☆ロビン・フツドが登場する有名な物語
 *国王のために侵略してきたノルマン人と戦うサクソン人の英雄となっている
 ☆ロビン・フツドが実在の人物をモデルした人物なのか
 *活躍した期間が余りのも長すぎ、本当に実在した人物なのだろうか
 *ロビンのモデルが誰だったのかわかっていない
 ☆想像上の人物だったのではないかとする意見が根強い
 ☆イングランドの支配者とキリスト教の関係
 *イングランドでは、荘園主は教会に属していた
 *イングランド国王もローマ法王には屈伏せざるをえない状況
 ☆こうした欲求不満の情勢が
 *窮屈な貴族の身分から自由の身である山賊となったロビン像を生み出したのでは
 *ロビンは森を通る金持ちからは財産を奪う
 *貧民や女性にはけっして危害を加えない
 ☆15世紀の歴史書には、実在の人物として登場しているのである
 ☆ロビン・フツドとは誰なのか、疑問はイングランドの森をかけめぐる
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出典、『世界史の謎がおもしろいほどわかる本』






世界史のウソと真実の名作5(アガサ・クリステイ、ロビン・フツド)
(ネットより画像引用)




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世界史のウソと真実の名作4(東方見聞録、ミロのヴィーナス、キリスト)

2019年10月24日 | 歴史
世界史のウソと真実の名作4

 ☆『東方見聞録』は全部ウソだった
 ☆「ミロのヴィーナス」の両腕はどうなっていたのか
 ☆「復活劇」の謎、十字架にかけられたのはキリストではなかった

『東方見聞録』は全部ウソだった
 ☆マルコ・ポーロによって書かれたとされる『東方見聞録』
 *日本を「黄金の国ジパング」と紹介
 *後世のコロンブス始め冒険家好奇心をかき立てたとされてる
 ☆マルコはヴエネチア商人の子供
 ☆マルコの東方でのエピソードとされていること
 *父と叔とともに、元へ出かけ、フビライ・ハーンに厚過されている
 *フビライからは、ローマ法王への要請を伝える使節団員にも任命された
 ☆重要な働きをしたにもかかわらず、マルコに関する記述はどこにもない
 *マルコは、フビライに17年にもわたつて仕えているとされている
 *元朝の正史『元史』と『新元史』のどちらにも、マルコの名はない
 ☆『東方見聞録』内の記述には、当時では知ることのできない情報がある
 ☆マルコが『東方見聞録』を記したことさえ疑問視する声もある
 ☆『東方見聞録』は、マルコが書いたものではない
 *ルスティケロという人物がマルコの話を聞いてまとめたもので、口述筆記
 *マルコは以前から「うそつきマルコ」と呼ばれていたという
 ☆巧みな話術で、人々はマルコの語る愉快な話に夢中になった
 *『東方見聞録』は、マルコが創造したフィクションだった説も出てきている
 ☆マルコがフビライに仕えたのはウソだったのでは
 *コロンブスたちはウソを信じて航海に出たことになる
 ☆最近では、マルコそのものが存在していなかったと主張する人もいる
「ミロのヴィーナス」の両腕はどうなっていたのか
 ☆ルーヴル美術館に所蔵されている「ミロのヴイーナス」には、両腕がない
 *「ミロのヴイーナス」は、紀元前2世紀ごろ制作された
 *発掘される19世紀まで、地中に埋もれていた
 *エーゲ海のミロ島で、農民が地中に埋もれた彫像を発見した
 *発見当初から、ヴイーナスの両腕はなかった
 ☆ヴイーナスの両手は、どんなポーズだったのか
 *右手は左腰にあて、左手は石柱の上のリンゴのようなものを持っていた説
 *ルーヴル美術館の元館長は、両手に楯を持っていたとの説
 ☆左腕は付け根から折れ、右腕は二の腕から先がない
 *腕があったのはたしかなのだが、いったいどんな姿をしていたのだろうか
「復活劇」の謎、十字架にかけられたのはキリストではなかった
 ☆イエス・キリストは、十字架にはりつけられて最期を迎えた
 ☆キリストの「復活」
 *遺体はいったん埋葬されたが、息を吹き返したとされている
 *キリストは、弟子たちの前にふたたび姿をあらわす
 ☆死者が蘇ることは現実的に考えられない
 *痛みと出血で失神状態で、埋められたのなら
 *仮死状態めに生き返ったとも考えられる
 *キリストの場合は槍で胸を突かれてとどめを刺されている
 *執行人だけでなく、見物していた大衆からも死亡は確認されていたはず
 *だからこそ復活は奇跡と崇められることになつたのである
 ☆いわれるようになったのが、キリストの身代わり説
 (2世紀に、異端の教父バシレイデスが唱えていた説)
 *刑が確定したキリストは、刑場のゴルゴタの丘まで十字架をかついで歩いたとされてる
 *クレネ人のシモンという人物がキリストになりすまして十字架をかついだ
 *シモンが、キリストの代わりにはりつけになる
 *キリストは、処刑を見守る群衆にまぎれて逃走
 *三日後の復活劇が演じられた
 ☆「十字架では死んでいない」とする受け止め方は、多くのキリスト伝承を生む
 *復活はしたものの体に傷が残ったので、伝道は弟子たちにまかせて隠棲した説
 *その後、インドヘ渡った説
 *さらに発展した形が、日本へ渡来して亡くなった説
 (青森県三戸郡新郷村の戸来にはキリストの墓まで存在している)
 ☆はりつけという、残酷だが確実に死に至るわけではない処刑の形式
 *その後のキリスト伝承を拡大させていった要因のひとつといえるだろう
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世界史のウソと真実の名作4(東方見聞録、ミロのヴィーナス、キリスト)
(WIKIPEDIA、ネットより画像引用)



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世界史のウソと真実の名作3(モーセ、テル、モナ・リザ)

2019年10月23日 | 歴史
世界史のウソと真実の名作3

 ☆モーセの奇跡は誰でも起こせる
 ☆ウィリアム・テル伝説はスイス以外にも存在していた
 ☆謎の微笑み『モナ・リザ』のモデルは誰

モーセの奇跡は誰でも起こせる
 ☆『旧約聖書』には「出エジプト記」として
 *エジプトで奴隷になって苦しむイスラエル人を、モーセが導いて助ける場面
 *エジプト軍から逃れるため、モーセが海に向かって手をさしのべる
 *突然、海は二つに割れて、真ん中に道があらわれた
 *イスラエル人たちは、安心して海を渡ることができた
 *追ってきたエジプト軍が海を渡ろうとすると、海の道は突然消える
 *エジプト軍は海に飲まれてしまう
 *モーセたちは、無事にエジプトを脱出することができた物語
 ☆伝説だと思っている人が多い
 ☆この奇跡は、本当の出来事のようだ
 *現代では、じつに簡単に起こすことができる
 *モーセは、風や満ち潮を計算し、もつとも水位が低い時間を正確に読みとる
 *湿地帯のなかでも乾いていて歩きやすいところを渡ったと思われる
 *追っ手のエジプト軍は、重装備の戦車に乗っていた
 *湿地帯のなかで身動きがとれなくなった
 *そのうち、満ち潮になり、海のもくずと消えた
 ☆モーセの地質学の知識は、その後も役立つ
 *湧き水の場所を探し当てている
 *モーセは、その場所に地震があったことを知っていた
 *地震で、湧水が起き上がるのをモーセは知っていた
ウィリアム・テル伝説はスイス以外にも存在していた
 ☆スイスを支配していた、ハプスブルク家の代官ゲスラー
 *スイスの中央公園へ、ポールを立てて自分の帽子をかけ、これに敬礼するように強制した
 *弓の名手であるスイス人のウィリアム・テルは敬礼をしなかった
 *腹を立てたゲスラーは、テルを逮捕し、罰を受けさせることにした
 *その罰とは、テルの子供の頭上にリンゴを乗せ、それを射させるもの
 ☆テルは、見事に射抜いてスイス人の気概を見せた
 *これをきつかけにスイスでは独立の気運が高まったとされている
 ☆有名なこの伝説
 *ハプスブルク家の支配に苦しんだスイス人権力に屈しないテルの態度
 *独立運動の精神を象徴するものとして愛されてきた
 ☆テルは架空の人物だ
 ☆世界に目を向けると、テルのような物語は、スイス独自のものではない
 *同じような伝説が世界のいくつかの場所で存在している
 ☆テルの物語が世界中に知られるようになったのは、戯曲や歌劇に仕立てられたか
謎の微笑み『モナ・リザ』のモデルは誰
 ☆レオナルド・ダ・ヴインチは、イタリアのルネサンス期を代表する人物
 *ダビンチは、画家、彫刻家、建築家、科学者
 ☆画家としてのダ・ヴィンチの作品の『モナ・リザ』
 ☆『モナ・リザ』のモデルはいったい誰なのだろうか
 ☆有力な説は、フィレンツェの裕福な商人ジョコンダ氏の妻
 *愁いを含んだ微笑みは、子供を亡くした母の深い悲しみだった
 *娘を思うジョコンダ夫人の思いが傑作を生んだ
 *ダ・ヴインチの母性への憧れは強い
 ☆『モナ・リザ』のモデル
 *ミラノ公妃イザベラ・ダラゴーナがモデルだという説
 *フイレンツエ大公ジュリアーノ・デ・メディチの寵妾説
 ☆珍説ともいえるのが、ダ・ヴインチの自画像説
 *ダ・ヴィンチが女性嫌いで、モデルにも女性を使わないとの理由より
 ☆他にもモデル候補はいるが、どれも確固たる証拠はない
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
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世界史のウソと真実の名作3(モーセ、テル、モナ・リザ)
(ネットより画像引用)




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