心の旅

やわらぎ住宅(株)の社長によるブログ。

質の生成と物質の運動

2011年03月01日 | 哲学
 2月16日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、8名でした。
 教材は、「自然の哲学」(上)田中 一著で第十一話「質の生成と物質の運動」です。

雑感
 日本の教育(子ども)について

 社会をよくするためには、教育からしなければならないとよく言いますが、どのような教育をすればよいのでしょうか?

 少なくとも偏差値重視の知識教育だけではないことは、何となくみんなが感じています。

 わたしは、こう考えます。

 わたしたちが、一人で暮らすのでなければ、社会を形成する一員として、人類や国、地域で、安全で安心な住みやすい社会に積極的にすることは義務であると考えられています。

 今はほとんど、国民の自由の権利だけが、行使され、義務が果たされていないような気がします。

 しかし、今住んでいる社会をよくしようとしても、その歴史的背景や、宗教や文化の違い、イデオロギーの違いなどを理解しないととても精神論だけでは、この義務は果たせないと思います。

 ですから、子どもには、小さいときから社会のことを教えていかなければならないと思っています。



・民主主義とは何か? 歴史的背景とその長所と短所
・資本主義の本質は何か? 歴史的背景とその長所と短所
・社会主義・共産主義とは何か? 歴史的背景とその長所と短所
・そもそも人間とは何か? 意識と精神の働き 自然の頂点に立つ
・人間と自然との関係 西洋と日本の違い
・自由と秩序
・「学ぶこと」の意味 
・人間が社会で生きるには何を大切にしなければならないか 
・理念がなぜ必要なのか?
・目的をもつ意味は何?
・善悪の判断 価値観
・何のために勉強するのか
・正しいものの見方・考え方
・世界の「正義」について
などなどです。





本日の学び
 本話より抜粋 「質の生成と物質の運動」

 外界の大きな特徴は、たえず質的に新しいものが生成して消滅していることである。このことが、物質の運動の大きな特徴であり、これを正しくとらえることが世界観にとってきわめて大切な基本的なことである。それでは質の生成とはどのようなことをいうのであろうか。

 絵や写真が黒い点の集まりでつくられていることは確かであるが、黒い点をただ単に集めただけでは、絵や写真にはけっしてならない。絵や写真になるためには、黒いインクの各点が都合よく集まっていなければならない。
 
 黒インクの点の相互の位置関係が、一個の黒インクの点に内在するものでなく、二個以上存在してはじめて生成するものである点に注目すれば、絵や写真は黒インクの点が多数集まることによってはじめて生成した新しい質であると考えられよう。

 松本清張氏の名作『点と線』というのがあるが、断片的な事実がやがて一つの事件として構成していく経過が見事に描きだされている。
 事実は事実として存在しながら質的に新しいもの、「事件」を生成する。事件のなかでは個々の断片的事実が互いに密接な関係をもっている。






生物の発生・進化は大規模な質の発生
 たとえば、わたしたちの周りにある物質は、すべて原子や分子でできていて、たえず変化し、分解し、生成している。
 これらは、質の生成であり、一つの質から他の質への移行であり、また質の消滅である。
 物質とはこのような意味ではたえず質的変化を重ねている存在である。

 さて、自然に見られる大規模な質の生成の一つに、生物の発生と進化をあげることができる。
 生きているという存在が、いかに不思議な、独特な質であるかはよく知られているところである。
 それは何種類かの莫大な数の原子、分子が互いにきわめて密接な、生物に特有な関係におかれていて、その結果はじめて生きるという質が生成したのだと考えられている。

 違う立場に立つ考え方もある。
 それは、生物といえども、原子、分子の集合が、物理的および化学的変化をひきおこしているにすぎないのであって、生きるという質も見かけだけにすぎない。
 そこにあるものはたんなる物理的変化、化学的変化の連続以上のなにものでもないという考え方である。
 これを機械的な考え方という。

 たしかに、生物の体内では、無数の物理的化学的変化が進行しているが、これらの無数の要素的な変化が、互いに無関係に進行しているのではない。生物に特有な一定の関係におかれて進行している。
 このような進行の仕方に生物としての特有な質があらわれている。そして、その結果、生きているという新しい物質の存在様式が可能になったのである。
 生物は原子、分子の集合体でありながら、新しい質を獲得した存在である。




自然は質的に発展する

 生物の発生は、自然における大きな事件であった。

 アミノ酸や糖類などの多量の有機化合物(炭素の化合物)が、この地上でつくられていなければ、生物は発生しなかったであろう。
 一方、地上の簡単な有機化合物は太陽からの紫外線の照射や落雷などのいろいろな作用をうけて、複雑な化合物にかわると共に、これらがしだいに濃縮され、さらに複雑な有機化合物であるタンパク質を形成していった。
 このような変化が、くり返されつみ重ねられて、やがて生物が発生したのであろう。

 いうまでもないことであるが、このときの生物もまた原子、分子の集まりである。
 生物を構成している原子、分子は通常の原子、分子であって特別あつらえの原子、分子ではない。
 ただ、その集まり方が独特であるため、原子、分子の集団が集団としての新しい質を獲得したのである。
 意識の発生もまた、生物の発生と同じような意味で、新しい質の生成である。

 自然はきわめて長い時間を経て、しだいに新しい質を獲得していているのであって、いったん獲得された質はその後の自然のありかたにそれぞれ役割を演じて新しい質として位置をしめながら、自然の発展に大きな影響を与えている。

 このような過程は、まさしく自然の歴史的過程である。
 自然は、歴史的に発展してきている。それは新しい質の生成と発展の歴史である。
 そして、現在における最高の発展として、社会をつくり意識をもった存在としての人間が立っているのである。






静かに浮かんでいるように見える銀河だが・・・

 アンドロメダ星雲の外側は渦巻状になっているが、この部分では、たえず星がつくられている。
 銀河の内部には、宇宙塵が漂っているが、宇宙塵は、いわば銀河をみたすガス体である。

 宇宙ガスは、銀河を回っているが、渋滞部分は存在しつづけて、ここでガスが濃くなり、宇宙塵が、しだいに集まって星が生成するようになる。この渋滞部分がゆっくりと銀河のまわりを回りながら、しだいに星をつくっていく。

 一方、銀河の中心では、星の密度が高くなって、何百年かに一度は、爆発を生じている。
 わたしたちの銀河系にも、ここ一〇〇〇万年の間に、三回の爆発が起こった模様で、爆発によって生じたリング状の雲が幾重にも観測されている。

 銀河を構成する一つひとつの星が、いつも同じ状態をしめているのではなく、誕生から消滅へと、あるいは一〇〇万年程度、あるいは何十億年という長さの一生をもつことはよく話題にのぼることであるが、星の集団としての銀河もまたきわめてダイナミックな運動をしているといわねばならない。






生命発生と生物進化の必然性

 現在の生物をつくりあげている物質、すなわちタンパク質をはじめとする多くの生体物質は、きわめて複雑なもので、原始地球上に生じた化合物間の反応で、これらの生体物質自身はつぎつぎとつくられていったように思われる。
 ただ生物体内における生物物質のひじょうに秩序だった、互いに有機的な結びつきと大気中の化学変化によって生じた物質の単なる集合との間には、大きな距離感があって、生物の誕生までにはかなりの時間を要したようである。

 生物の進化のなかで、意識の発生の過程に関連して、たとえば、生物は、外界からの刺激に即応して、この刺激に反応する器官をしだいにつくりあげていくことをのべた。事実はこのとおりであって、これを見れば見るほど、このような器官が、どうしても自然に生ずるにいたったのであろうかと、不思議な気持ちになるのを禁ずることができない。

 無生物から生物への発生の各ステップの変化を物理的変化と化学的変化との組み合わせに還元したということであれば、生命の発生、生物の進化についての認識には、まだ大切なものが残っていることになる。
 それは自然が、あるいは無生物が、生物を創造しないではすまない必然性である。この生命発生の必然性、生物進化の必然性こそ、生命の発生、生物の進化に関して最初からなげかけられている大問題である。





運動は物資の本質であるということ


 さて、この必然性を、他の何らかの一般的原理から導かれた結果として理解しようとするのは、一見もっとものようだが、結局、観念論におちいってしまう危険性がある。
 このような必然性を、他の原理から導くのではなく、物質それ自身を深く認識していく契機としてとらえるべきものである。

 すなわち、このような必然性を物質そのものの本質としてとらえることが重要である。

 物質は生物にあって、はじめて進化発展するのではない。
 生命の発生するはるか以前から、銀河系のダイナミックな姿があった。
 宇宙が静かと見えたのは、見る視野の問題であって、宇宙は星の絶え間ない誕生と消滅、銀河系の回転、中心部の爆発現象などが端的に物語るように、みごとなまでに動的状態である。

 このような銀河系、すなわち銀河系という存在様式をとっている物質にたいして、どうして静的な状態になっていないのかと問うことはできる。この問いは、生物の発生と進化の必然性にたいする場合と同様な問いである。
 そして答えは一つである。
 すなわち運動は物質の本質であって、運動と切り離した物質は存在しないのである、と。

 ここで運動とよんでいるのは、きわめてひろい意味である。
 それはさきにのべた自然の歴史的発展過程に見られるような、質の生成と消滅、変化、発展などいっさいをふくんだものである。そしてそのような意味での運動が、物資の本質であるとすれば、以後の問題は、その物質の運動がいかなる特徴をもっているかをあきらかにしていくこととなるであろう。

 その特徴はきわめて簡単に表現することができる。それは弁証法的である。

と筆者は言っています。


 物質の本質は、運動であること。長い時間をかけて物質(=運動)が、質的変化をとげてきた集大成が現時点であるということです。そこには無生物から生物を創造した必然性があり、その頂点に立つのが人間です。そしてその特徴は、意識の先行性と精神の能動性です。この二つの特徴が意味するものは、これから先の世界は、人間が主体となって自然とともに進化発展していくのだということです。

このように、われわれ人類は、自然から人間を含めた自然の発展をなんらかの必然性により託されたのだと考えることが妥当であろうと思います。

 運動こそ、物質の本質であり、人間の本質であることは、われわれは、生物であることから現実として、莫大なじっとしていられない生命エネルギーを有しており、それをコントロールできる意識や精神までも獲得してしまっているので、しっかりとした生き方(宗教)をもたないと自滅してしまうかもしれません。
 反対に、しっかりとした考え(秩序維持と進化発展)をもってすれば、たいへんすみ良い世界にもなるということです。

われわれは、自分の偏見を正すため、他者を理解するため、世界を知るために、懸命に学び、自然のよりよい進化発展のために、貢献しなければならない存在だということを、特に日本のように社会が成熟している国の国民であるならば、外界に対して責任をもたなければいけないと思います。




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