車輪を再発見する人のブログ

反左翼系リベラルのブログ

マルクスの失敗

2009年03月20日 | 経済学

共産主義が失敗したことは今では常識である。マルクス経済学もまた多くの点で失敗だったといえるだろう。マルクスは資本を所有する者と所有できない者との格差があるために、資本家と労働者との間に越えることの出来ない格差が発生し、それが最終的に革命をもたらすと予言した。結果的には、資本に基づく格差は資本主義社会において縮小し続けた。結果、マルクスが言うような資本に基づく延々と続く格差の拡大は起こらなかった。

マルクスは、経済において不等価交換が存在すること、資本主義社会が不等価交換による不平等の可能性を内包していると考えた点において正しかった。しかし、それはマルクスが予言したように資本ではなかった。むしろ、労働の移動の制約がもたらす格差だった。宗主国とその植民地、組合によって参入が制限された熟練労働とそれ以外の労働といった形で、労働の移動や参入が管理されることによって不等価交換が発生し、世界に大きな格差をもたらすことになった。

その意味で、マルクスは結局は社会全体の不平等を見渡すことが出来なかったといっていいだろう。マルクスはユダヤ人であり、都市の貧しい労働者を見て資本家と労働者の階級闘争を考えたが、実は労働者の中でも熟練労働から締め出された労働者や、地方に住んでいる農民、はたまた召使といったさらに下の階層の貧困を見ようとはしなかった。結局は、社会階層における真の弱者を含めた平等ではなく、上層の方だけを見た上で資本家へ敵意を抱いただけだった。そこにマルクスの限界があったと同時に共産主義の限界があった。共産主義が、社会全体の平等をもたらすことに失敗したのも、結局はより底辺の農民や召使、単純労働者といった階層を保護することが出来なかったからだろう。その意味で、中国が都市と農村との差別的な階級社会を長期間維持してきたことは印象的である。

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改めて漆間発言を考える

2009年03月20日 | 政治

産経ニュースの福島香織の記者ブログが、小沢一郎民主党代表と自民党への捜査の拡大について、物議をかもし出した漆間発言について振り返っている。

■5日夜、共同通信がこの発言をニュースとして流したのを受けて、同僚が他社から確認のためにもらったメモをみたら、「自民党に及ぶことは絶対ない。額が違う」と漆間副長官の発言として書かれていた。

■本当にこの発言をそのまま言ったのなら、高官のオフ懇発言としては失言、だろうが、翌日に各社の漆間番からよくよく話をつきあわせてみると、「『絶対』っていってないような」「漆間さんの性格だと絶対なんていわないんじゃない?」「いや絶対という言葉は記憶にのこっている」「別の発言のところで絶対っていったのが、交じったのでは」「自民党といったのは質問のなかで」「こっちにはこないと思いますよ、とかいう言い方だったか」…と記者の方も記憶があやふや。

上の内容から分かるように、漆間氏が本当にそう言ったのかわからないというのが本当のところらしい。日本のメディアが繰り広げてきた言葉狩りにも同じことが言えるが、受けての側がその発言をどう受け止めるかが重要な位置を占めすぎている。差別発言や問題発言とメディアが解釈したら、それが例え前後の文脈を切り抜いた抜き出し発言であっても、拡大解釈され徹底的に叩かれる。逆に、同じような発言であったとしてもまったくの無視を決め込むこともある。

お互いの意見を認め合うには、まずお互いを尊重し合えることが重要である。発言には出し手と受け手がいるが、分かり合うには両方が尊重される必要があるだろう。受け手だけが尊重されたり、さらには一部の受け手の印象だけが尊重されれば、発言の出し手や他の受け手の意思を尊重しないことになってしまうだろう。お互いに尊重し合うとは、まず「お互い」という部分が重要であり、それが一部の人間でしかなければ何の意味もないだろう。

今回の漆間発言においても一部の受け手が問題視し、国策捜査を示すものだとして大騒ぎした。このようにそもそもそう言ったのかさえ不確かなことを下に、あるいは不確かだからこそこのように、自分の勝手な印象を押し付けることを許せば一部の人間の恣意的な考えを押し付けることになるだろう。このことは、結局は特権的な地位にあるものに反対することを差別として弾圧し、身分制社会を絶対的な真理として強制することに繋がるだろう。

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不等価交換と利潤

2009年03月20日 | 経済学

資本主義の条件は持続的に利潤を生み出すことだが、その基盤となっている市場メカニズムは利潤を食いつぶす。マルクスもいったように、「商品経済は偉大なレヴェラー(水平主義者)」なのだ。利潤率は傾向的に低下し、国内で鞘が取り尽くされたあとは植民地から、そして植民地が独立するとグローバル資本主義による「経済植民地」から、それも限界が来ると金融資本主義によって・・・と絶えず新しい利鞘を追求する自転車操業が資本主義の宿命だ。(池田信夫blogシリコンバレーの「核の冬」より)

今回のサブプライムローのバブル崩壊に端を発した世界不況は、金融商品が生み出す利潤の急速な縮小が一つの原因だった。為替や証券の取引手数料が低下し、旧来のスワップやオプション取引からの利益が方法論の浸透と共に急速に失われた。そこで、複雑な仕組み債や異時点間のリスクとリターンの交換という形で投資家との情報の不完全性を利用して、旧来の市場から失われた利益を取り戻そうとしたのが原因である。問題は、結局は金融商品を分かりにくくすることによってリスクを隠し利潤を上げたために、現実のリスクが明らかになるにつれバブルが崩壊せざるをえなかったことだ。

このように資本主義の本質の一つは技術の広まりや新規参入によって利潤が縮小していくことである。マルクスは資本が資本家のみが所有できる生産資源として、労働と違い剰余価値を持つとして、資本家と労働者との格差の拡大を主張したが間違っていた。資本家の経済における影響力は独占が状態であった二十世紀初めには強いものがあったが、独占に対する規制や年金基金の投資等資本の価値の低下によって資本からの利益率は低下し労働分配率は向上し続けた。むしろ現在においては労働分配率が高すぎることが重要な課題となっている。

結果として、利潤は資本からではなく、むしろ労働市場や知識の伝播の不完全性によって多くもたらされている。先進国と途上国との間にある国境という障壁や、各国にある労働組合という参入障壁が労働の新規参入を制限し、一部のの労働者に高収入をもたらしている。日本においては正規社員と非正規社員との格差が問題となっている。その意味では、マルクスの言った不等価交換と搾取という関係は正しく、ただそれが資本家と労働者との間ではなかったということなのかもしれない。

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小沢包囲網狭まる

2009年03月20日 | 政治

小沢一郎民主党代表の資金管理団体「陸山会」の政治資金規正法違反事件で、西松建設が小沢氏側への献金に使ったとされる2つの政治団体が、会員名簿の管理や、献金などの事務手続きを行わず、実際には西松社員が担当していたことが19日、西松関係者の話で分かった。捜査関係者によると、東京地検特捜部は、政治団体に全く実体がなかったことを裏付ける事実とみているもようで、政治団体を西松のダミーと断定したものとみられる。(産経ニュースより)

捜査の進展と共に、西松建設から小沢一郎氏にトンネル団体を通じて多額の政治資金が流れていたことが明らかになってきている。西松建設としては、このような政治団体を使うことによって、西松建設と小沢一郎氏との親密な関係を隠すこと、及び政治献金の上限規制を逃れることを狙っていたと思える。このような複雑な仕組みを使ってでも小沢氏に政治献金をし続けたのには、当然東北地方の公共工事利権が絡んでいたと言えるだろう。東北において後発だった西松建設としては小沢氏に喰い込むことによって受注を拡大する必要があったのだろう。

地検特捜部が政治団体を西松建設のダミー組織と断定したことは、逮捕された小沢氏の公設第一秘書の起訴の可能性が高まったことを意味するだろう。小沢氏は、自分達が政権を担当するようになったら企業献金を全廃するというようなことを言ったようだが、今更何を言っているんだという感じだろう。民主党及び小沢氏は秘書に対する起訴の有無を確認した上で自らの進退を決める予定らしい。だが、当初の国策捜査・陰謀論といった言い逃れや、漆間氏や検事総長に対する証人喚問要求など、あからさまな捜査妨害をした上で秘書の起訴、さらに小沢氏自身の捜査が続けば民主党の信用が失墜する可能性もあるだろう。

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貧困ビジネス

2009年03月20日 | ニュース

貧困ビジネスが社会問題化しているが、今回保護費を徴収するために軟禁するという事件が起こった。

ホームレスら生活保護受給者を対象にした「無料低額宿泊所」と呼ばれる埼玉県の民間施設で、40代の元派遣労働者の男性が半月にわたり「軟禁」されていたことが19日、分かった。

 施設は生活保護費から利用料を徴収しており、男性は保護費が支給されるまで外出を禁じられていた。・・・

施設は定員210人で多くが元ホームレスなどの中高年男性。小部屋を板で3人分に区切ったネットカフェのようなスペースで、3食つきで月額約9万5000円。男性は生活保護申請と結核の診察で2回外出したが、いずれも施設の男性が同行した・・・

宿泊所が入所者から徴収する利用料は、多くの場合、家賃よりも取りはぐれのない税金を原資とする生活保護費だ。名称とは裏腹に無料でも低額でもなく、年末年始の「年越し派遣村」でさえ、村民らに「保護費をピンハネされるので悪質な宿泊所だけは行かないように」と呼びかけた。

日本のお粗末な福祉制度の実態がまたもや明らかになった形だ。日本以外の国においては、政府が無料宿泊所などの形でホームレスを支援することが当然のことのように行われている。住む場所がないという最も危機的な状況にあるから生活保護が支給されないという事態もまた異常である。そんな中、今回の事例のような悪質な貧困ビジネスが広がりを見せている。

日本の抱える最大の問題は、政治の世界に弱者の味方をする勢力がそもそも存在しないということだ。日本の左翼はひたすら在日朝鮮人や高収入労働者の特権を保護し拡張することを目的とした差別主義者として活動してきた。同じ傾向は欧米の左翼にも見られるが過去の差別や差別がもたらした社会的な混乱の反省から、基本的な社会福祉に対しては好意的である。対して、日本においては政府が貧困の存在自体を否定(左が反対していれば起こりようがない)しているように、貧困層や弱者に対する政策がすっぽりと欠落している状態が続いている。日本の左翼がいかに徹底的な差別主義者であるかが分かる事例だろう。

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フランチャイズ制

2009年03月20日 | 経済一般

松本さんがコンビニ会計問題を取り上げていたので無性にフランチャイズ制について書きたくなってしまった。フランチャイズ制というのは、コンビニであれ、弁当屋であれ、フランチャイズ本部がある運営形態の事業を開く権利(フランチャイズ権)を他の人に認めてロイヤリティーを取り、代わりにノウハウなどを提供する事業運営の仕方だ。一般的には、ローソンとかほっかほっか亭、おはぎの丹波屋のように店のブランドと商品を提供して、それをフランチャイジーが売るという形になる。このような形態の事業というのは、日本以外にも当然あってそれぞれ繁盛している。

問題は、日本の場合規制が緩く本部の力が強すぎるという問題を抱えている。本来は、フランチャイズ本部とフランチャイジーというのは対等の関係ということになっているが、情報量等の関係で本部は大きな力を持つことが多い。さらに、日本の場合問題なのが本部が商品をフランチャイジーに卸すことによっても利益を得ていることだ。本部はロイヤリティーから収益を上げるだけでなく、商品の卸によっても利益を上げることが出来る。さらに、卸す商品は必要なものなので価格設定によって本部がいくらでも利益を上げられる構造になっている。アメリカなどでは、規制によって予め情報を公開して勧誘しないといけないが日本の場合はそこら辺が曖昧で不適切な説明が良く行われていると言われている。

松本さんの記事のコンビニの例もその典型例で、本部としては売り上げを上げれば上げるだけ利益が上がるのに対して、店としては廃棄ロスと含めて利益水準が決まってくる。だから、コンビニ運営各社は惣菜関係の開発に熱心だが、実はそれは現場の店長の利益にはなっていなかったりする。某パン屋が運営しているコンビニチェーンでは他よりも高い価格でそのパン屋のパンが入荷して来るというえげつないことをやっているらしいが、本部と店長との利益相反は非常に大きな問題であると言えよう。

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形式論理学の限界

2009年03月20日 | 論理

昨日ネットを散策していたら、相変わらずセイフティーネットに反対する自己責任論や雇用流動化に反対するもしかしたら経営者の利益にしかならない論といったのが、いっぱいあってうんざりしたんだけど、こういう意見が出てくるのには高度に論理的な世界で考えられない人が結構いるというのがあるんだと思う。高度といっても実は単純だったりするんだが、生活保護が悪用されるかも知れないってのを取り上げると、悪用される可能性は有るんだけど実は生活保護以外のやり方の平等主義が失敗して非効率だという現実を無視しているという問題がある。当然、最も貧しい人以外を支援したら最も貧しい人を支援するのに比べたら効果は落ちる。すなわち、生活保護が悪用されたらマイナスの部分があるかも知れないけど、支出が最も貧しい人以外に行くのも同じようにマイナスであるという現実がある。

つまり、現実の世界においては外部の要因で失敗したり目的が達成できないといような形でマイナスの部分があると同時に、効果の大小って問題もある。これを総合して何が優れているかってのが重要なことだ。だから、年功序列制度は平等主義的な性質があるからどんなにその恩恵が少なくなってきていても持続すべきだが、雇用流動化は悪影響があるかもしれないから駄目だとか、在日朝鮮人やユダヤ人の気に触る発言は差別に当たるからどんなに軽微なものでも絶対許すことが出来ないが、ヨーロッパ人の植民地支配はよい面もあった筈だからヨーロッパ人を批判することは駄目だと言うのは意味不明だ。常に、複数の要因を考慮する必要もあるが、同時に同じ要因の中で影響や重大さの大小というのも考えないといけない。

現在の単純な集合論や形式論理学においては、すべてのAは何々であるという知識から結論を導いたり、AかつBという論証から結論を導いたりする。しかし、現実の世界いにおいてはAの中のものが全部同じと考えられる場合ばかりではなく、少しずつ程度が違っている場合がたくさんある。だから、民主的で衆愚政治の危険性を防いでいるからと少数の人間にのみ選挙権を与えると、少数による絶対的な専制が起こったりする。民主的であっても、全員に選挙権があたえらる状況と、3割の人間にのみ選挙権が与えられる状況では基本的な性質が違うからである。だから、複雑な世界を扱うには単純な集合論ではなく、複数の性質の影響が常に変化しつつある状況で最大の効果のあるものを見つける必要がある。これが論理的に見てかなり複雑な作業なので多くの場合に間違いが起こる理由である。

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