共産主義が失敗したことは今では常識である。マルクス経済学もまた多くの点で失敗だったといえるだろう。マルクスは資本を所有する者と所有できない者との格差があるために、資本家と労働者との間に越えることの出来ない格差が発生し、それが最終的に革命をもたらすと予言した。結果的には、資本に基づく格差は資本主義社会において縮小し続けた。結果、マルクスが言うような資本に基づく延々と続く格差の拡大は起こらなかった。
マルクスは、経済において不等価交換が存在すること、資本主義社会が不等価交換による不平等の可能性を内包していると考えた点において正しかった。しかし、それはマルクスが予言したように資本ではなかった。むしろ、労働の移動の制約がもたらす格差だった。宗主国とその植民地、組合によって参入が制限された熟練労働とそれ以外の労働といった形で、労働の移動や参入が管理されることによって不等価交換が発生し、世界に大きな格差をもたらすことになった。
その意味で、マルクスは結局は社会全体の不平等を見渡すことが出来なかったといっていいだろう。マルクスはユダヤ人であり、都市の貧しい労働者を見て資本家と労働者の階級闘争を考えたが、実は労働者の中でも熟練労働から締め出された労働者や、地方に住んでいる農民、はたまた召使といったさらに下の階層の貧困を見ようとはしなかった。結局は、社会階層における真の弱者を含めた平等ではなく、上層の方だけを見た上で資本家へ敵意を抱いただけだった。そこにマルクスの限界があったと同時に共産主義の限界があった。共産主義が、社会全体の平等をもたらすことに失敗したのも、結局はより底辺の農民や召使、単純労働者といった階層を保護することが出来なかったからだろう。その意味で、中国が都市と農村との差別的な階級社会を長期間維持してきたことは印象的である。