車輪を再発見する人のブログ

反左翼系リベラルのブログ

エコについて

2009年05月31日 | ニュース

オーストラリアでの山火事の話から、エコの話題が盛り上がって、松本さんのところの記事のコメント欄も盛り上がっているが、いつもながらにインテリというのは頭が悪いなということを証明するような話だ。階級闘争であれ、平和であれ、現在のエコロジーであれ、結局はどのようなトレードオフが必要かを議論しようとせずに、自分達の都合を絶対的なものとして他人に押し付けようとするから全体の資源分配を損ね一部の人間以外にとっては何の利益にもならないことに資源の大部分を投入してしまう。

移民問題を取り上げると分かりやすいが、共生社会だ、移民にも同じ権利をだと主張して移民の権利を絶対的なものとして知識人達は社会に移民を強制してきた。その一方で、途上国の貧困の議論になると途上国にも責任があると言う主張がどこかから沸き起こってきて、途上国の飢餓や貧困に対する援助は停滞してしまう。移民に対しては絶対的な権利を主張する一方で、それより酷い状態にある人たちに対しては向うにも責任があると言う論理によってすべてがひっくり返ってしまい、いつまでも途上国が貧しいのはちゃんと必要なことをしていないからだという話になってしまう。移民に対しては国民以上の特権的な待遇を与える一方で、少しの資金で多くの命を救える途上国に対する援助を減らせば理想的な社会が訪れるのだろうか。ほんとに馬鹿馬鹿しい話だ。

つまり、ほんの少しでも環境に関係していて、一部の人間が気になればエコとして絶対的な力を持つ。他方では、重要な環境問題が他の要因によってひっくり返されて無視される。現在の環境問題における最大の問題は中国における環境破壊である。そして、他の途上国においても経済発展の過程において、さらには経済発展が起こってもいないのに環境破壊が進んでることである。このような問題の本質を見ようとしないで、オーストラリアの森林の間伐に環境団体が反対していたというのは、笑える話である。

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タテ社会とヨコ社会

2009年05月30日 | 文化論

日本をタテ社会、欧米をヨコ社会として対比的に論じるのは、中根千枝の『タテ社会の人間関係』だけでなく、ルース・ベネディクトの『菊と刀』にも共通する主題で、日本文化論における定番のテーマである。しかし、客観的にはこれほどまでに事実と合致しない主張もないと言えるほどに実際の事実とは違っている。

江戸時代の終わりから明治時代の始めにかけてアメリカに行った日本人が、アメリカでは初代大統領ワシントンの子孫が何をしているか知らないで、それが日本の天皇制や徳川幕府の世襲制と対極的で、日本の身分制とアメリカの自由との格差に驚いたという話は有名である。しかし、現実にはそのころのアメリカは奴隷制を採用しており日本とは比べ物にならないほどの格差と差別が支配する身分制社会であった。これは、ヨーロッパにおいてはさらに酷く、植民地の労働者と本国、そして本国内での身分的な格差が社会を支配していた。

実は、欧米がヨコ社会で日本がタテ社会であるというのは、欧米というのは支配階級と被支配階級に別れ、一定数の支配階級には同じように選挙権のような権利が与えられ、その支配階級が被支配階級を絶対的に支配するということを意味しているに過ぎない。つまり、欧米においては一番上の天皇家や徳川家の権力は強くはないが、階級間の差は日本よりもはるかに大きな社会である。こう考えると、なぜアメリカに行った日本人がアメリカを絶賛し、日本を否定したかが分かる。貧しい武士階級の出身者にとっては、市民に同じ権利を与え、奴隷を絶対的に支配する権利を与える社会に憧れを抱き、そのような権利を支配階級の武士に与えない江戸幕府を憎悪したのだ。

このような思考回路の最大の問題点は、一般の庶民を比べれば日本の方がちゃんとした権利を与えられたヨコ社会であり、欧米の方がはるかに酷いタテ社会であったということである。だから、このような思考回路の結果として江戸時代暗黒史観というものが生まれてきたのだが、最近の研究によって完全に否定されている。同じように天皇制と日本のタテ社会を結ぶつける議論もあるが、当然のことんがらナンセンスであるとしか、言いようがない。このような客観的な事実に基づいた文化論がそろそろ必要なのではないだろうか。

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限界生産性と労働価値説

2009年05月29日 | 経済学

二十世紀の価値の議論と分配の議論の最大の問題は、行っている仕事による生産性の違いを軽視したことである。労働価値説を主張した社会主義や共産主義においては、資本家や経営者と対決し資本家や経営者の取り分を奪い取ることを善とした。それに対して、近代経済学においては限界生産性によって賃金が決まるとして、賃金は生産性の差、つまり労働者の能力の差であるとして、自由競争によって決まっている現在の賃金格差を肯定し、自由競争を続けることによって経済が成長するとした。つまり、どちらの理論も現在ある労働者間の賃金格差を肯定し、賃金が高いものは優秀で勤勉で、賃金が低いものは怠惰で無能であると結論つけた。これは、国家間においても当然のこととされ、植民地が経済発展しない原因は現地人にあると結論付けられた。

しかしながら、現実には生産性の違いを生じさせるのは労働者の能力だけではなかった。労働者の能力以外に、仕事のやり方の優劣による生産性の違いや、生産している商品の違いによる価格差があった。二十世紀の初めから二十一世紀までに、製造業の生産性は百倍向上したといわれている。この原因は、技術進歩や資本の増加だけではとても説明できず、マネジメントによって継続的に生産性が向上してきたことがこの結果をもたらしていると考えられる。だから、現在の労働者は同じ労働者であるにも関わらず、昔の労働者よりもはるかに高い生産性を達成し、昔の労働者には想像することさえ出来ないような生活水準を得ている。

また、生産している商品の違いも所得を決める要因であることが過去や現在の経済から知ることが出来る。十八世紀から十九世紀にかけて、白人植民地が経済成長する一方で、非白人がヨーロッパ人に支配された社会においては経済停滞が起こった。その原因は、アメリカ植民地などは、交易上高く売れる農産物を生産していたのに対して、機能の違う亜熱帯の植民地では他の強制労働による農産物との競争から低価格にしかならない商品を生産していたために経済成長しようがなかった。現在においても、日本でも産業によって賃金が違うが、テレビ局のような保護されている産業であれば低品質であっても高賃金が約束され、介護などにおいては劣悪な労働条件で低賃金であることが知られている。

つまり、現実の世界においては労働者の能力以外が大きく生産性に影響している。だから、もし経済を最も効率的に運用したいのであれば、その部分も含めて資源を最適なように分配できるような仕組みを作っていく必要があるだろう。そのようなことをしないで、非生産的な保護された労働者が自己責任といっても何の説得力もないだろう。

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労働価値説の続き

2009年05月28日 | 経済学

前の記事の労働価値説の話の続きであるが、資本家や経営者の貢献を否定して、労働者の労働から価値が生まれているとしつつ、他の労働者との間には絶対的な差を主張するような話はかなり昔からあった。ヨーロッパの都市国家における都市民の主張がまさにそうだし、その意味でその時代から次の工業化した時代の労働者貴族に受け継がれ、現在の日本の労働組合の主張へと受け継がれてきたといえるだろう。問題は、このような主張には客観的な根拠がないということだ。

歴史的に見れば、時代が経つにつれて、特に二十世紀においては生産量が急激に拡大した。この生産量の増加と所得の向上は生産性の上昇の結果であるとしか言いようがない。人間の能力が短期間にこれだけ伸びるとは考えられないからだ。そうすると、行っている仕事自体の生産性というものは非常に重要なものであることが分かる。どのような製品を生産するか、どのように作業を管理するかによって生産性が大きく変わってくるし、それが最終的には社会全体の所得を決定することになるだろう。

こう考えると、むしろ労働というのは他の労働者との間で交換が容易なものであるような気がしてくる。新古典派の限界生産性においては、労働者の賃金が限界生産性によって決まるという議論がされるのだが、ミクロで見てみると労働者の違いというものはそれほど大きくないのかもしれない。この前の、スウェーデンモデルの理論的支柱となっているレーン=メイドナー=モデルにおいては、むしろ労働者は同じようなものと考えられ、だから賃金を平均化して生産性の高い企業を成長させ、生産性の低い企業を退出させることが平等と経済成長をもたらすという考えに立っている。だから、生産性の違いが労働者の能力の差であるという主張には懐疑的にならざるを得ない気がする。

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労働価値説

2009年05月26日 | 経済学

労働価値説というのがある。みんな知っていると思うが、生産物の価値はそれに投入された労働の量によって決まるという考えだ。一般的には、共産主義は労働価値説に基づいて国家を運営し、共産主義思想の流れを汲む政党や労働組合はこの思想に基づいて資本家と対決していることになっている。

しかし、実はそのように考えると辻褄が合わない。というのも、もし生産物の価値が投入された労働の量によって決まり、それゆえ労働者にすべてが分配されなければならないのであれば、当然すべての人の時給は同じにならなければならない。しかしながら、現在資本家と対決し労働者の権利を追及している労働組合の組合員や、さらには十九世紀の工場労働者も実は他の労働者と比べて賃金が高く、もし労働価値説に基づいて所得を分配するのであればむしろそのような労働者から他の者へと所得を移転する必要がある。つまり、労働価値説によっては共産主義的な行動を説明することができない。

ここで、もしそのような労働者が労働価値説に基づいているのではなく、生産物が労働者の労働の価値だけから出来ており経営者や資本家は何も貢献していないという考えに基づいているのであれば辻褄が合う。つまり、経営者や資本家は何も貢献していないはずだから、少しでも取るのは搾取だ。それに対して、生産物の価値は労働者の労働から来るはずだから高価格で売れている製品を作っている労働者は優秀で勤勉な筈だ。賃金の低い無能で怠惰な労働者とは全然違う。そのような考えに基づいていると考えるのだ。つまり、経営者は資本家は何も貢献していないし、経営者や資本家の事業選択や製品選択などの質的な違いが最終的な価値に影響を与えるなんてありえないが、労働者の労働の質的な違いは厳然とあり、それがすべてを決めているに違いない。だから、賃金の高い労働者は優秀で勤勉であるに違いないし、賃金の低い労働者は無能で怠惰であるに違いない。

このように考えると、共産主義者や現在の労働組合の行動が合理的に説明できる。資本家は何も貢献していないのだから何も与えないのは当たり前だ。当然、重要な仕事をしている幹部に高い報酬を払うのは当然だから自分達の賃金は庶民の百倍にしておこう。労働組合にとっては、仕事の価値は労働者の労働から来るのだから経営者や株主には一銭もやらない。うちの労働者が高賃金を得るのは優れた仕事をしたからだから当然のことだ。というようなもんだろう。

このような論法の問題点は、経営者や資本家による質的に違う貢献を否定し、額に汗して働く労働者が生産を行っているといいながら、他の労働者との間においてはいくらでも質的な違いがありそれが結果の差に繋がっていると言う主張が論理的に意味不明だということだ。普通に考えれば、経営の仕事の方が質的な違いが絶対的な差を生みそうなのに、質的な差というのは高品質なものが疎らに散らばっていそうなのに、ある労働者の集団が全員他の集団より優れていてそれが決定的な要素となっていると言うのは実際問題としてあまりありそうにない。結局は、自分達に都合のいい屁理屈に過ぎないのだろう。

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日本の人事制度はやはりおかしい

2009年05月25日 | 経済一般

今日はかなり爆笑な記事を見つけてしまった。

社員ではナンバーワン」と言われるほど優秀な人物で、仕事ぶりが完璧だったからである。
 そこで、経営者が本人を呼び出して理由を問いただしたところ、彼女は泣きながら答えた。
「仕事がないんです」。

 実は、彼女は仕事が早く終わってしまうので、「もっと仕事を与えてください」と上司に訴えたことが今までに何度もあったという。上司が彼女の優秀さに見合った適正な仕事量を与えていなかったのだ。ちなみに、件の女性が立ち上げていたオークションサイトのシステムのレベルは相当高かったようだ。このように優秀な社員が、女性だからといった理由で十分に仕事を与えられず、時間を持て余してPCの私的利用を行っているケースも多いのである。
「IT化によって、今まで100人で行っていた作業が数人で済むようになった。だが、『管理職の評価は部下の人数』という考えをいまだに持っている人がいる。多くの部下を置きたがるのに、彼らに十分な仕事を回さない。それが非効率の元凶だ」と酒巻氏は断言する。・・・

オチがものすごいが、これが日本の組織の管理職の実態でもあるのだろう。本来なら社員の能力によって昇進などを決めていく必要があるのに、それをせずに年功序列でやってきた。このことによる組織の疲弊が現在の日本の経済停滞を生んでいる。優秀な人間により能力が必要な仕事を任せなかった結果、その部下の生産性さえ低下させ組織の活力が失われていく。まったくもって犯罪的な愚かさである。

よく自己責任論でフリーターなどが怠惰で働いていないという人がいるが、このような現実を見ると高所得者がその所得に見合った分働いていないことが本当の問題だろう。自由競争によって賃金に違いをつけるのはいいが、そのためにはまず公平な基準で評価され、同じ成果に対しては平等な対価が支払われることが保障される必要があるだろう。そのような公平な実力主義があって初めて、経済に活力が戻ってくるはずだ。

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携帯電話の販売奨励金はやっぱりすごいな

2009年05月23日 | 経済一般

携帯電話の新規契約や販売には携帯電話会社から販売店に多額の販売奨励金が支払われていたのはみんな知ってると思うが、この記事を読んで改めてすごい金額だったんだということに気づいた。

ケータイの販売が振るわない。新規契約数から解約数を差し引いた2008年度の契約純増数は、過去最低を記録した。ソフトバンクモバイルが約204万増と2年連続で首位となり、NTTドコモが約121万増で続く。3位には約99万増のイー・モバイルが入り、前年度は2位だったKDDIは約50万増で4位に凋落した。ドコモは、かろうじて契約数シェア50%超を死守した。30%を割ったKDDIも、依然として退潮傾向に歯止めがかからない。KDDIは、09年3月期の第3四半期決算で、端末の販売台数を前年同期比331万台(29.2%)減の801万台と公表したうえで、通期での予想販売台数を、期初の1440万台から1090万台へと下方修正した。端末在庫数も、210万台と、前年同期の130万台より1.6倍の増加となった。予想外に売れていないのである。

だが、利益は稼ぎ出している。先の第3四半期決算で、KDDIの携帯電話事業の営業収入は2兆495億円で前年同期比2.4%減だが、営業利益は同7.6%増の4426億円と減収ながら過去最高益を記録した。野村総合研究所の上級コンサルタント北俊一氏は、「携帯電話会社(キャリア)は端末が売れないほうが利益が上がる形になってしまっている」と解説する。

こうした矛盾が生じる背景に、キャリア各社が導入した新料金システム「分離プラン」がある。従来は、携帯電話の販売店にキャリアが1台あたり平均約4万円の販売奨励金を支払うことで、店頭での端末価格を低く抑えていた。そのかわり、ユーザーが支払う月々の料金には、基本料や通信料とともに販売奨励金に相当する額がいわば分割式で上積みされるグレーゾーンが存在していた。やがて、総務省が開くモバイルビジネス研究会の提言もあり、端末代金と通信料を明確に区分するために分離プランが導入された。一昨年秋ごろから、店頭の端末価格が上がり、一括または分割払いが主流になったのも、そのためである。

1億総ケータイ時代を迎え、市場が飽和しつつある。分離プランの導入によって端末の店頭価格が上がり、消費不況も重なって売れ行きが低迷する。そのため、キャリアが販売店に販売奨励金を支払って端末のセールスを後押しするという独特の商慣行も大きくは変わらなかった。販売不振によって売上高が減る。加えて、分離プランでの端末購入者が増えているために、ユーザーから月々吸い上げていた前述のグレーゾーンの上積み分が漸減してARPU(契約者一人あたりの月間支払額)が低下し、減収に拍車をかける。ところが、予算として計上した販売奨励金を使い切らずに済んでいるために支出が減り、むしろ増益になるという皮肉な結果となっているのである。

KDDIの営業マンは、「小野寺社長が社内で『端末が売れないから利益が出る。危機的な状況だ』と訓示しています」と打ち明ける。また、auの宣伝キャラクターにジャニーズ事務所のアイドルグループ嵐を起用したことにふれ、「街中で盗まれるほどポスターの人気はあるのに、端末の人気はない」と苦笑した。野村総研の北氏がいう。「あと1年から1年半ぐらいで、大半のユーザーが分離プランに移行して、端末が売れないほうが利益が上がるということはなくなる。ARPUも目に見えて落ちていくので、決算に影響が出てくるかもしれません」

販売奨励金やリベート自体には問題はないと思うのだが、こういうものを使うとインセンティブが歪んでしまうことがあるので使い方に注意しないといけないだろう。携帯電話の場合には、端末の値引き分を通話料から長期にわたって回収するというモデルが余りにも長期契約者にとって不利だったことが市場を歪め大きな問題になったといえるだろう。また、市場が急拡大する局面においてはそのような方策にも利があったかも知れないが、市場が成熟するにしたがって無理が出てきたといえる。

大手小売販売業と食品メーカーの間のリベートのやり取りの仕方などにおいても、全体の合理性を考えると疑問を抱いてしまうようなのが多いのだが、やはり本当に値下げしてしまうことに対しては抵抗感があるのだろうかと思ってしまう。確かに、リベートとして支払うと一見すべての業者に同じ値段で販売しているように見えるので、そういう意味では上手く問題を生じさせない仕組みなのかも知れないが、それがインセンティブを歪めるなどの形で問題を生じさせるのであれば本末転倒だろう。

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派遣規制の是非

2009年05月22日 | 経済学

今日は派遣規制の問題を他の話と絡めてしてみたいと思う。派遣規制の議論は、十九世紀の自由貿易に関する議論に似ているところがあるとよく感じる。自由貿易者たちは、政府が介入して貿易を規制したり、関税を勝手にかけたりすることによって貿易から生じる両国の利益が損なわれることに徹底的に反対した。その論法は、こうだ。貿易を行われるのは、その貿易が両国に取って利益になるからだ。だから、貿易を政府が規制することを許せば貿易の利益が失われる。だから、貿易に対する介入は許せない。そのような理屈で、アジアやラテンアメリカ諸国による貿易に対する介入に徹底的に反対しつつ、欧米諸国は暴力によって現地の産業を破壊したり、プランテーション経営者が現地民を奴隷化することを続けた。

しかしこの主張の問題は、両国が最大限の恩恵を貿易から受けるにはどうすればいいかという議論が抜け落ちていることである。貿易は何らかの利益をもたらすかも知れない。しかし、欧米諸国が恣意的に経済に介入したり、暴力によって産業を破壊したり、さらには条約によって都合のいい条件を強制することを許した状態は理想からはかけ離れているのではないだろうか。つまり、現地社会の介入に対しては貿易が損なわれて双方の利益が損なわれるから駄目だと言いながら、欧米諸国の介入によって貿易から得られるであろう、あるいは産業が現地にもららしたであろう利益の減少は無視するというのは本当に長期的に考えて効率的なのだろうか。

このような理由で、現地政府による介入の場合は貿易から得られる利益の減少を危惧して貿易からの利益を損なうようなことはしてはならないとされ、逆に欧米諸国が行ってきたことに対しては長期的な影響が無視された。結果、他の要因を考慮すると欧米諸国が現地に介入することに対しては徹底的に寛容にしておき、現地政府が介入することを徹底的に否定すれば貿易からの利益によって双方が潤うだろうということになった。結果としては、アフリカやラテンアメリカはひたすら貧しくなり、欧米諸国は発展したのだが、これは現在の途上国が無知蒙昧で怠惰で、欧米諸国が知的・精神的に優れていた結果なのだろうかと思う。

話を戻すと、派遣規制や貸金法改正についてもそうであるが、派遣がなくなるということや、貸し出しが減る、あるいは借りにくくなることが経済的な不利益をもたらすだろうが、それらの質という面を考えなくてもいいのだろうか。現在の日本の派遣制度は世界的に見ても必要な規制がされておらず、労働者がほとんど保護されておらず中間搾取が非常に多い状態にある。少し前の消費者金融に関しても違法な取立てや脅迫を平気で行う犯罪者集団であったことは多くの人が知っていることである。このような質が劣悪で多大な悪影響を社会に与えている状態にあったとしても、規制すると供給が減って不利益を受ける人がいるから絶対規制するべきではないという主張が正しいのだろうか。規制しないで野放しにしたら、質がさらに悪化しそのことによる悪影響がどんどん増すのではないだろうか。逆に、規制によって質が改善したり、劣悪なものが排除されるのであれば一旦規制することによって長期的にはより良い状態へと移行していけるのではないだろうか。

結局のところ、十九世紀の欧米諸国による自由貿易論や、現在の派遣規制や貸金法改正反対の議論というのは、貿易や派遣、貸し出しが減ることに対しては絶対的な影響があることを前提とし、それ以外のことに対してはまるで何の変化もないかのような前提を置いているからそのような結論が必然的に出てくるといっていいと思う。そのような前提を置いているのだからそのような結論が出るのは当然のことなのであるが、問題はそのような前提自体が本当に適切なのかどうかということだ。どのようなものであっても貿易や派遣、貸し出しがないよりはあったほうがいいのだから、内容の悪化は一切考えないでおこうという態度で望ましい結果にたどり着けるようには思えないのだが。

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経営とエージェンシー問題

2009年05月21日 | 経済学

少し前の記事になるが、読売新聞の山崎元さんのコラムが面白かったので紹介と少しコメントをしたい。内容的には、山崎氏が日頃主張していることの繰り返しが多いのだが、現在の企業の問題を考える場合に、資本家と労働者という対立軸よりも、株主と経営者・従業員とのエージェンシー問題という視点から考えた方が有用な場合が多いのではないかと思う。

金融危機を巡る情勢は目まぐるしく変化しているが、最近の動きの中で、筆者が大いに「あきれた」のは、米国の複数の大手金融機関が公的資金を早期に返済したい意向を示したことだ。

これまでに報じられていて、筆者が知っている限りで、ゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレー、それに先年メリル・リンチを吸収したバンク・オブ・アメリカが、こうした意向を示している。お気づきになると思うが、いずれも、かつては投資銀行であったか、かつての投資銀行を現在抱えている金融機関だ。

サブプライム問題のダメージが相対的に軽かったといわれているゴールドマン・サックスが公的資金を返済したいというのはいくらか分かるが、三菱東京UFJから出資を仰いだモルガン・スタンレーや、米政府から巨額の資本注入と不良資産の損失保証という救済を受けたバンク・オブ・アメリカまでが「公的資金返済」というのには、驚くしかない。彼らは、損失とリスクに耐えるための資本が不足していたのではなかったのか。

彼ら自身がこのような理由説明をしているわけではないから、以下は、筆者の推測だとお断りしておくが、割合自信のある推測だ。

彼らが公的資金を早期に返済したい理由は、経営者も含めてだが、社員に対するボーナス(ストック・オプションなどによるものも含む)や退職金を自由に支払いたいからだろう。

先般、AIGの幹部社員に対する巨額のボーナス支払いが、アメリカで大きな社会問題となり、オバマ大統領にまで痛罵される事態になったことに対して、彼の国の金融マンたちは一種の恐怖を抱いたに違いない。彼らにとって「命の次に大切なボーナス」を十分もらうことができないのではないか、という恐怖だ。

AIGのケースを先例として見ると、公的資金が入っている金融機関が社員に大きな額のボーナスを支払おうとしていることが世間に露見すると、政府から指導が入ったり、世間から強烈な反発を受けたりして(AIGはこのケースだった)、結局ボーナスが支払えなくなったり、これを返上しなければならなくなったりする公算が大きい。

アメリカの大手金融機関の個々の金融マンの心情を(推測によって)代弁すると、彼らは、近い将来会社が潰れることがあっても構わないから、当面の自分へのボーナス支払いを自由にして欲しい、と思っているだろう(下品ではあるが、経済合理的だ!)。

一般にウォール街のボーナスが巨額であり、そこで働く金融マンにとってボーナスが重要であるということは分かる。

しかし、今回彼らが言っているような公的資金返済に問題があるとすれば、一つには、金融機関が公的資金を返上し、しかも将来、公的資金を入れられずに済ませようと行動する結果、彼らがリスクを取れなくなって、「アメリカ版の貸し渋り」的な状況が起こる可能性があることだ。

あるいは別の可能性として、最後は政府に救済されればいいと考えて、薄い資本を顧みずにできるだけ大きなリスクを取ろうとする行動も考え得る。どちらも金融システムにとって好ましいことではない。

振り返ってみると、今回の金融危機が生じた背景には、成功報酬型の巨額ボーナスを原動力とする彼の国の金融マン達の過剰なリスク・テイクがあった。成功報酬型のボーナスは個人の「稼ぎ」を原資産とする一種のコール・オプションだが、あらゆる金融派生商品の中で、「金融マンのボーナス」ほど恐ろしいものはなかった、というのが筆者の実感だ。

彼の国の金融マン達が、この仕組みの旨みを「全然諦めていない」ことは確実だ。

相変わらずよく聞く主張に労働分配率を上げることによって労働者の取り分を増やすべきだというのがあるが、現実問題としてはほとんど不可能だ。資本分配率には個人事業主の収入や、企業の税金等の分が含まれている他、最低限の資本のコスト(つまり銀行などから借りた場合などとの比較でのコスト)、株主に占める年金基金等の機関投資家の存在を考えると、資本家はほとんど存在していないも同然である。日本の場合、上位0、1パーセントの富裕層が所得に占める割合は2パーセントなので金持ちの取り分とはその程度の額である。つまり、資本家が搾取しているから貧困層がいたりするのではないのである。

だから、結局のところ資本家ではなく、労働者間の問題が議論の中心になるべきだろう。そのとき重要になってくるのが、企業におけるエージェンシー問題である。企業は株主が所有していることになっているが、実際の経営は経営陣が行っている。また、従業員がステークホルダーとして影響力を持ってもいる。日本においても、アメリカにおいても、このような現実の結果従業員や経営者が株主から有利すぎる条件を引き出し富を得ているという現実がある。

アメリカでは、山崎氏のコラムにもあるように経営者や経営幹部がボーナスなどによって多額の報酬を得ている。しかし、報酬が高いからといって成果も伴っている訳ではない。日本と、ヨーロッパ、アメリカを比べても報酬に見合った形で企業の成長率が違う訳ではない。また、アメリカ国内でも報酬が高いほど企業運営が上手くいっている訳ではない。こうなるのは、報酬が高くなる理由の一つがお手盛りで従順な取締役がいる結果であることがある。つまり、監視が緩く経営がちゃんと監督されていない方が報酬が高くなりやすいという問題がある。

日本においては、年功序列制度の結果能力や成果の低い中高年正社員の賃金が異常に高くなっているという現実がある。これもまた従業員が力を持ち、株主から有利すぎる条件を引き出している事例である。そしてこのことが現在の日本の経済停滞の重要な要因になっていることは明らかだろう。

つまり、現実問題としては力の強い経営者や労働組合が過剰な待遇を手にすることによって株主から搾取しているという現実がある。そして、そのような現実の方が資本家などよりもはるかに大きな比重を占めていることがわかる。日本においては金持ちの所得に占める割合が2パーセントで、正社員と非正社員との賃金格差の平均が2倍以上という現実を考えるとどこが本当の問題であるかは明らかだろう。アメリカにおいては経営幹部の高収入が格差拡大の一因になっているが、経営陣も資本家ではないので、資本家や資本主義が格差を拡大していると言うのは意味不明な主張だろう。現実には、高所得の既得権層が、低所得者層から搾取しているのである。

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効率性と平等

2009年05月20日 | 経済学

昨日の、レーン=メイドナー=モデルの面白いところは、平等が効率性を高める点を指摘しているところだ。こうなるのは、労働者自身の能力による生産性の違いだけでなく、企業や組織の仕事のやり方の違いによる生産性の違いも存在しているからだ。また、能力の高い労働者が高い賃金を貰っている訳ではないという現実にも基づいている。

だから、経済全体の生産性を考える場合には、第一に社会に存在している仕事自体の生産性をいかにして最大限高めるのか、第二にその上で労働者をいかにして最終的な生産性を最大にするように仕事に割り当てるかを考える必要がある。この中で、同じ仕事間の賃金格差をなくすことによって、生産性の低い企業を退出させ、生産性の高い企業を成長させることによって社会に存在している仕事自体の生産性を高めようというのがレーン=メイドナー=モデルの考え方である。

このことから分かるように、例えその労働者の行っている仕事からの限界生産量が高かったとしても、その労働者の賃金を高くすることが必ずしも経済的ではないことが分かる。それは、その労働者の能力が高い結果限界生産量が増えている場合もあるが、ただ単にやっている仕事の違いによる生産性の違いがその労働者の限界生産性を上げているだけかもしれない。後者であるならば、その労働者は本当の意味で経済に貢献している訳ではなく、ただ単に他より優れた資源を利用しているから限界生産性が高くなっているだけである。

このことは、非常に重要で現在の日本においてテレビ局や大手出版会社、大手新聞などの賃金は基本的に非常に高額であるが、国際競争力があり日本の他の産業より経済に貢献している訳では全然ない。ただ単に、規制などによって保護され特権的な地位を獲得しているために、より高い値段で商品を売ることが出来ているだけである。つまり、経済全体から見ると不完全な競走という形で作っているものの価値が上がっているために労働者の賃金が高いのであって、仕事自体の生産性が高い訳でもなく労働者の能力が高い訳でもないのである。

このことから分かるように、経済全体の生産性を高めるには存在する仕事の生産性を高め、次に労働者をその仕事に出来る限り効率的に配分する必要がある。しかしながら、それは格差を容認すればいいということではないし、限界生産性の違いによって賃金を決めるべきであるということでさえない。資源配分が二つの段階を踏んでいるために、見かけの違いに惑わされないように資源を効率的に分配する方法を考えていく必要があるのである。

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