産経ニュースの福島香織の記者ブログが、小沢一郎民主党代表と自民党への捜査の拡大について、物議をかもし出した漆間発言について振り返っている。
■5日夜、共同通信がこの発言をニュースとして流したのを受けて、同僚が他社から確認のためにもらったメモをみたら、「自民党に及ぶことは絶対ない。額が違う」と漆間副長官の発言として書かれていた。
■本当にこの発言をそのまま言ったのなら、高官のオフ懇発言としては失言、だろうが、翌日に各社の漆間番からよくよく話をつきあわせてみると、「『絶対』っていってないような」「漆間さんの性格だと絶対なんていわないんじゃない?」「いや絶対という言葉は記憶にのこっている」「別の発言のところで絶対っていったのが、交じったのでは」「自民党といったのは質問のなかで」「こっちにはこないと思いますよ、とかいう言い方だったか」…と記者の方も記憶があやふや。
上の内容から分かるように、漆間氏が本当にそう言ったのかわからないというのが本当のところらしい。日本のメディアが繰り広げてきた言葉狩りにも同じことが言えるが、受けての側がその発言をどう受け止めるかが重要な位置を占めすぎている。差別発言や問題発言とメディアが解釈したら、それが例え前後の文脈を切り抜いた抜き出し発言であっても、拡大解釈され徹底的に叩かれる。逆に、同じような発言であったとしてもまったくの無視を決め込むこともある。
お互いの意見を認め合うには、まずお互いを尊重し合えることが重要である。発言には出し手と受け手がいるが、分かり合うには両方が尊重される必要があるだろう。受け手だけが尊重されたり、さらには一部の受け手の印象だけが尊重されれば、発言の出し手や他の受け手の意思を尊重しないことになってしまうだろう。お互いに尊重し合うとは、まず「お互い」という部分が重要であり、それが一部の人間でしかなければ何の意味もないだろう。
今回の漆間発言においても一部の受け手が問題視し、国策捜査を示すものだとして大騒ぎした。このようにそもそもそう言ったのかさえ不確かなことを下に、あるいは不確かだからこそこのように、自分の勝手な印象を押し付けることを許せば一部の人間の恣意的な考えを押し付けることになるだろう。このことは、結局は特権的な地位にあるものに反対することを差別として弾圧し、身分制社会を絶対的な真理として強制することに繋がるだろう。