一般に、こうした不法滞在者の事例では、夫婦間の会話は母国語(この場合はタガログ語)であるはずだ。「のり子さん」が生まれ育ったとする課程において、その家庭環境にも「タガログ語」が存在していたはずだ。まして、カルデロン妻の弟妹が「結婚」を事由に在留許可を取得し、近郊に住んでいるとすれば、それらの“親戚つき合い”の中にもタガログ語が存在していても不自然ではない。むしろ、ネットの多くの指摘にあるように、日本語しか解らない、「タガログ語は話せない」とする“主張”こそ疑問ではないか。この1つを掘り下げても、「カルデロン一家」の言い分そのままに記すのみで、思考停止しているかのメディアのスタンスが窺えるのである。
上の指摘はもっともである。今回のカルデロン一家に関する報道を見ていて感じるのは、マスコミや左翼がいかに感情的・情緒的かということだ。勘違いしてもらうと困るのだが、餓えている人や貧しい人がいてそれを哀れみ助けようとするのは人間として当然の衝動である。しかし、日本の外国人不法労働者に関する報道は「のり子さん」というたった一人の少女に焦点を合わせ、まるでそれがすべてであるかのようにひたすら繰り返し報道する。その後ろには、不法労働者、さらには犯罪者の群れがあることに気をつけなければならない。
きっとカルデロン一家を大々的に報道している大新聞やテレビ局の社員達は高収入を得て、派遣社員をこき使っているのだろう。現在の日本にある広範な格差と貧困という事実に対しては大して目を向けず、ほんのひとりの特殊な事例にひたすら感情的に没頭する。いや、現実の多くの困っている人や低所得の労働者の痛みをまったく感じることが出来ず、自分が快感かどうかだけで判断しこの事件を欲望の赴(おもむ)くまま報道してしまうと言ったほうが近いだろうか。ジャーナリストには、公平な目で物事を判断して報道する義務があるのではないだろうか。