車輪を再発見する人のブログ

反左翼系リベラルのブログ

カルデロン一家

2009年03月13日 | 政治

博士の独り言氏の記事より。ついでにこちらも

一般に、こうした不法滞在者の事例では、夫婦間の会話は母国語(この場合はタガログ語)であるはずだ。「のり子さん」が生まれ育ったとする課程において、その家庭環境にも「タガログ語」が存在していたはずだ。まして、カルデロン妻の弟妹が「結婚」を事由に在留許可を取得し、近郊に住んでいるとすれば、それらの“親戚つき合い”の中にもタガログ語が存在していても不自然ではない。むしろ、ネットの多くの指摘にあるように、日本語しか解らない、「タガログ語は話せない」とする“主張”こそ疑問ではないか。この1つを掘り下げても、「カルデロン一家」の言い分そのままに記すのみで、思考停止しているかのメディアのスタンスが窺えるのである。

上の指摘はもっともである。今回のカルデロン一家に関する報道を見ていて感じるのは、マスコミや左翼がいかに感情的・情緒的かということだ。勘違いしてもらうと困るのだが、餓えている人や貧しい人がいてそれを哀れみ助けようとするのは人間として当然の衝動である。しかし、日本の外国人不法労働者に関する報道は「のり子さん」というたった一人の少女に焦点を合わせ、まるでそれがすべてであるかのようにひたすら繰り返し報道する。その後ろには、不法労働者、さらには犯罪者の群れがあることに気をつけなければならない。

きっとカルデロン一家を大々的に報道している大新聞やテレビ局の社員達は高収入を得て、派遣社員をこき使っているのだろう。現在の日本にある広範な格差と貧困という事実に対しては大して目を向けず、ほんのひとりの特殊な事例にひたすら感情的に没頭する。いや、現実の多くの困っている人や低所得の労働者の痛みをまったく感じることが出来ず、自分が快感かどうかだけで判断しこの事件を欲望の赴(おもむ)くまま報道してしまうと言ったほうが近いだろうか。ジャーナリストには、公平な目で物事を判断して報道する義務があるのではないだろうか。

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丸山真男

2009年03月13日 | 文化論

池田信夫blogに丸山真男氏に関する記事が出ている。丸山真男氏の思想の中心にあったのは、西欧の確立された自己・近代的主体と日本の従属的で全体に流される日本人という、西欧の自立に対して自立できない日本人を否定し、それが日本が抱える多くの問題の根本であるとする考えだ。このような思想は、丸山氏だけでなく多くの進歩的知識人が共有するものであるし、そもそもはヨーロッパの思想家のヨーロッパ中心主義から来たものだ。

しかし、客観的な事実を見ればこのような主張はほんとに根拠の怪しいものである。ヨーロッパ人は自立している。個が確立していると言われる。では、集団に流されたり支配されたりしないかといったらそうではない。自立した個人が一つの思想に支配され他の者達を支配するということが起こり続けている。フランス革命などはその典型で一部の人間達が勝手な理想を掲げ、それに多くの市民が迎合し、それに従わない民衆や貴族達を虐殺した。ヨーロッパ人が自立していると言うのは、王には従わず、一部の人間達が勝手な考えで談合し、他の人間達を暴力で従わせる。所詮、その程度のものなのである。世界的に見ても、ヨーロッパ人は強いものに迎合し、主体的に自分の考えで行動することが出来ず、強いものによる支配に反対し自立していたのは日本人や現地人であった。

このように、客観的な事実に基づけば自立したヨーロッパ人という概念はそもそも胡散臭いものであるし、それがヨーロッパ社会の発展をもたらし他の社会との違いをもたらしたという主張も怪しいものである。そもそも、そのようなことが起こるのなら最初にそのような思想が現れたギリシャ・ローマがそのまま発展せず、世界史的に見ても特異な文化と知識の暗黒時代を6世紀から13世紀にかけて作りだしたことが不可解そのものだ。結局は、進歩的知識人の思想は結論ありきのこじ付けとも言うべきもので、ヨーロッパ中心主義者と同じで事実に基づいて理論を組み立てるではなく、そうあってほしいという願望で理論を組み立てているに過ぎないのである。

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欧米の法治主義

2009年03月13日 | 論理

欧米の市民社会の基本には法治主義があるといわれる。法治主義は財産権とも関係しており、恣意的な権力によって一方的に財産を取り上げられない権利が作られた。このような市民の基本的な権利を支配者から守る欧米社会の特徴が、東洋やイスラムなど他の社会とは違い恣意的な支配を許さない社会を作り、それが社会と経済の原動力になったというのは、昔から唱えられている説である。ここでは、欧米社会が恣意的な支配を否定した法治社会で、他の社会が恣意的な支配がまかり通る専制社会であることは当然の前提とされている。しかし、本当にそうだろうか。

高山正之氏のコラムにこんなのがある。フィリピンのアギナルド軍との戦闘で米軍司令官アーサー・マッカーサーは「彼らはもはや正規軍ではない。投降してもPOW(戦時捕虜)の特権はない」と宣言し、POWの権利である良好な給養(食事)や収容施設を否定し、拷問や処刑を行った。その息子であるダグラス・マッカーサーもまた英国の将軍と共に日本人捕虜を降伏日本軍人と呼び、軍紀、及び給養の責任を放棄した。一方で、太平洋戦争で大量の捕虜を抱えた日本軍は貧しい補給の中から、それでも何とか良好な給養を心掛けてきたが、戦後の戦犯法廷では連合軍捕虜に満足な食事を出さなかったという理由で多くの日本兵が処刑された。

上の事例からは法律や規則を守る日本人と、法律を都合のいいように捻じ曲げる欧米人の姿が浮かび上がってくる。法律は同じでも、その適用を少し変えるだけである場合は拷問や処刑が許される、別の場合には少しの不足が重大な過失となり日本軍人の処刑につながる。欧米社会の法治主義の底の浅さが透けて見える。それが優れたものであったために優れた文明が生まれた。そうだろうか。恣意的な制度が他の社会を徹底的に搾取することを可能としたからかもしれないし、関係なかったのかもしれない。とりあえず、疑ってかかる必要があるのではないだろうか。

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