車輪を再発見する人のブログ

反左翼系リベラルのブログ

規制強化か、規制否定か

2010年02月04日 | 経済学

J-castの記事より

   経済状況の悪化で「派遣切り」が問題化し、正社員のあり方が問われるなか、経済協力開発機構(OECD)の報告書で、非正規労働者と正規労働者に大きな格差がある日本の労働市場の「二重性」を問題視していることが分かった。さらに、待遇の差を縮小させるため「正規労働者の雇用保護を減少させるべきだ」とまで提言しているのだ。ところが、この報告書が提出された時期には、報告書について報じた記事は少なく、一般読者からすれば、ほぼ「封印」状態だった。

OECD加盟28か国のうち、10番目に「強く保護」

   OECDは2008年春、日本経済の動向についてまとめた「対日経済審査報告書」を公表した。同報告書では、規制緩和や女性の就業促進を急ぐように勧告。6章あるうちの1章を、「加速する二重化と高齢化に対応するための労働市場の改革」と題し、日本の労働市場について割いている。

   日本の労働力のうち、1985年には83.6%だった正規労働者の割合が、07年には66.3%にまで減少する一方、16.4%だった非正規労働者の割合は、07年には33.7%にまで増加。実に3人に1人以上が非正規労働者という計算だ。

   このような現状に対して、「企業が非正規労働者を雇う、最も重要な理由は『労働コストを減らせるから』」という調査結果を紹介。

   その背景として、

「日本はOECD加盟28か国のうち、10番目に、正規労働者に対する雇用保護が強い」と指摘している。つまり、「正規労働者が強く保護されている分、コストカットがしやすい非正規労働者が増えてきている」

という分析だ。

   報告書でも、時間(パートタイム)労働者の1時間あたりの賃金は、フルタイム労働者の4割に過ぎないし、非正規労働者を雇うことで、企業はボーナスや退職金の支払いを減らすことができる、などとしている。

正規労働者と非正規労働者との格差是正を求める

   このような現状に対して、「勧告」されている内容が、国内で議論されている内容とは一線を画したものなのだ。報告書では、「加速する『労働市場の二重化』傾向を反転させる」という見出しが付いた上、(1)雇用の柔軟性を高める目的で(企業が)非正規労働者を雇う動機を少なくするため、正規労働者に対する雇用保護を減らす(2)非正規労働者のコスト面での利点を減らすために、非正規労働者に対する社会保障の適用範囲を広げる(3)人材育成や、非正規労働者の雇用可能性を高める、ことなどを勧告している。

   さらに、OECDは、08年12月にも、日本の若年労働者(15~24歳)についての報告書を公表しており、その中でも

「日本の若者は、日本の労働市場で加速する二重化の影響を大きく受けている」
「期間労働から定職に移行するのは困難で、多くの若者が、不安定な職に『はまり込んだ』状態になっている」

と指摘。そして、この現状に対して3項目が勧告されているが、そこにはこうある。

「正規労働者と非正規労働者との保護率の差を減らし、賃金や福利厚生面での差別的措置に対応する。この措置には、期間労働者に対する社会保障の適用範囲を拡大する一方、正規労働者に対する雇用保護を緩和することも含む」

   いずれの報告書でも、正規労働者と非正規労働者との格差是正を求める内容となっているが、正規労働者側に犠牲を求めるという点が共通している。日本の労働環境にとってはショッキングとも言える内容だが、日本国内の報道と見てみても、報告書について触れた記事は多くない。正社員保護についての論点に触れているのは、せいぜい日経新聞くらいだ。日経新聞のバックナンバーを調べてみると、

「OEDD対日経済審査 女性の就業促進勧告へ」(08年1月22日)

という記事で、報告書を作成するにあたっての途中経過を報じている。このほか、報告書が発表された時には、

「日本の正社員 過保護? OECDが労働市場分析 『非正社員、処遇改善遅れ』」(08年3月5日)

という記事が掲載されている程度だ。

   引き続き雇用情勢の悪化が避けられないとみられるなか、格差問題をどう扱うのかに注目が集まりそうだ。

OECDの勧告に関する記事だ。内容的には、このブログ的には(論理的に考える限り常識的には)当たり前の内容だ。労働政策において一部の人間だけ保護することをやめる必要があることを指摘している。

一つ注目すべき点は、非正規労働者の社会保障の適用範囲の拡大を求めているところだ。非正規労働者の待遇を改善しようとすると、仕事がなくなる。海外に仕事が逃げるだけだとして、非正規労働者に対する保護を絶対的な悪だと言って、派遣法の改正などに絶対反対な人がたくさんいる。しかし、国際機関の客観的な目で見てみると違うようだ。

これは少し考えてみるとすぐわかることだ。非正規労働者は非正規労働者だけで働いているだろうか。多くの場合、役割分担しながら働いているだろう。そして、非正規労働者の賃金コストは全体のコストのごく一部でしかない。そのような状況で社会保障の拡大によってコストが上がったからといって、すぐ海外に移転するだろうか。日本の多くの仕事においては考え難いだろう。

もし、海外移転するとしたら非正規労働者だけでなく、正規労働者も大量に削減する必要が出てくるだろう。結局のところ、非正規雇用労働者に対する保護が非正規労働者だけに関係し、それの待遇を悪化させるから絶対的な悪だというのは、極めて特殊な状態を想定した屁理屈に過ぎないのだ。非正規労働者の社会保障を拡充したら、本当に困るのは正規労働者達だろう。だからこそ、非正規労働者の社会保障の拡充を絶対的な悪として否定しようとするのだ。

そういえば、欧米の奴隷や使用人の主人たちは、奴隷を解放しようとすることを奴隷から権利を奪う悪魔の所業として糾弾したが、奴隷が開放されどうなったかは歴史を見ればわかる。

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二つの労働価値説

2010年02月03日 | 経済学

経済学には労働価値説というのがあるが、意味的には二つの種類があり非常に紛らわしい。片方は、労働者にのみ価値があり、資本家や経営者には価値がないとする。もう一方は、生み出される価値の源泉は資源がどのように利用されているかに依存するとして、すべての労働には同じ価値しかないとする。

最初の方の労働価値説は勿論、共産主義の労働価値説である。共産主義においては、資本家や経営者の経済的機能が全否定され、労働にのみ価値があるとされた。しかし、ここで注意するべきなのはすべての労働者の賃金が同じであるべきであると主張された訳ではないとこである。能力や貢献によって優れた者は当然のこととして多くの報酬を貰うべきだとされた。

しかし問題は、どのようにして誰が報酬を決めるのかということだった。結果として、共産主義においては、中央の特権的な官僚機構がすべての労働者の報酬を恣意的に決めた。笑えるのは、資本主義において何の価値もないとされた資本家や経営者の機能が、共産主義において官僚に置き換わったとたん、それは普通の労働者よりも圧倒的に大きな貢献をし、特権的な待遇を正当化する対象となったことである。そして、圧倒的に優れているはずの官僚達が資本家や経営者よりも、遥かに劣っていた結果共産主義は崩壊することになった。

もう一つの労働価値説は、経済学の創成期にアダム=スミスが最初に主張したものである。スミスは、ピンの例に見られるように仕事のやり方の改善が生産量の増大をもたらすことを発見し、仕事の生産性の違いが生産量を決めると主張した。スミスは製造業に注目したのに対して、農業にも製造業と同じような仕事のやり方の改善による生産量の改善があることを主張したのがケネーで、新しい市場に投下する資本を移動させる企業家が経済成長をもたらすとしたのがセイだった。

スミスもケネーもセイも、言っていることは同じだった。結局のところ、資本家であれ、経営者であれ、企業家であれ、資源を管理するものが資源の使用方法を改善することによって生産量が増加するということだった。このような考え方の下では、労働は基本的には同じとみなされた。

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三ヶ月で三十五人の購読者

2010年01月28日 | 経済学

アメリカの新聞のNewsdayがウェブサイトを有料にしたところ購読者が三ヶ月で三十五人しかいなかったそうだ。結局のところ、お金を払ってみるだけの価値を提供できなかったということだ。ウェブの発達やコピー技術によって大きな打撃を受けた業界として音楽や日本のアニメなどもあったが、新聞の場合とは一つの点で大きく違っていた。

音楽や日本のアニメなどの場合には、作っているものには価値があったが違法な形で余りにも簡単に複製できるようになったことで、業界全体に大きな被害を及ぼした。それに対して、新聞の場合には記事の大部分は他のと大差なく、希少価値がほとんどないため縮小し続けている。

このことは、違法な複製の規制の強化やネットでの販売方法の拡充に従って、音楽などの売り上げが戻ってきているのに対して、新聞の長期低落傾向がひたすら続いていることからもわかる。結局のところ、何らかの差異化のできないものには価値はないのである。だから、誰でも書けるような記事ばかりの新聞がこれから利益を上げるのはどんどん難しくなっていくだろう。

新聞の中で、ネットの有料化によって上手くいくかも知れないのはWall Street Journalくらいである。一部の顧客にとって必要な情報を提供する内容でないと上手くはいかないだろう。

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経済成長の源泉

2010年01月16日 | 経済学

昨日の話の続きであるが、経済成長や生産性上昇の源泉は投入される資本や労働、熟練労働者、知識労働者などの資源ではなく、その資源がどのような生産や仕事に使われているのかということ、及びその仕事がどのように組織されているかによっていた。

二十世紀において、先進国の経済は一人当たりGDPで換算して百倍もの成長を遂げたが人間の能力がそれだけ上昇した訳ではない。資本や労働の投入量の増加もその一部しか説明できない。教育水準の上昇によっても説明することができない。そもそも、生産性の上昇が主として起こったのは製造業であり、教育水準が高い労働者が投入された労働ではなかった。つまり、知識労働者の増加は生産性上昇の原因ではなく、むしろ結果であった。

また、技術進歩に経済成長や生産性上昇の原因を求める向きもあるが、十九世紀までは緩やかだった経済成長が、二十世紀において急に加速したことを説明できない。そもそも、基本となる科学技術がもっとも急激に発達したのは十八世紀から十九世紀においてであった。だから、二十世紀に入って突如急激な生産性の上昇と経済成長が起こったというのは、技術進歩によって経済成長や生産性の上昇が起こったとするには矛盾した事実である。

結局のところ、投入資源によっては経済成長や生産性の上昇を説明することはできないのであるが、現在の経済学は答えを持たない。ここ四十年人的資本が経済成長に与える影響や、教育投資の与える所得や経済成長に対する影響が研究されたが、それによって多くの経済成長や生産性上昇を説明できない現実においては、それらだけによって経済を分析しようとすることは逆にミスリーディングになるだろう。

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労働価値説と限界生産性賃金説

2010年01月15日 | 経済学

現在では価値を生み出す源が労働であるとする労働価値説は否定されている。しかし、もしそうなら賃金が限界生産性によって決まると主張するのもおかしいことになる。

労働価値説が間違っているとされる根拠の一つが、どのような労働でも価値を生み出すというのはおかしい、売れないような商品、消費者が求めないような商品を作ったとしても労働が投入されているから価値があるというのはおかしいというのがある。

そうだとすると価値の根源は労働などの投入される資源ではなく、何を生産しているかということになる。さらに一般化すればどのような仕事をしているのかによって価値が生み出されるかどうかが決まってくることに成る。だが、そうだとすれば限界生産性は投入されている資源の価格を決定するものではないので、限界生産性によって賃金が決まるのはおかしいということになる。

だから、結局のところ労働価値説も限界生産性賃金説も生産によって生み出される価値が投入資源によって決まるとしている点では同じであり、またその点において間違っているということである。したがって、本当の問題は、労働が価値を生み出すかどうかということではなく、労働でも資本でも土地でもなく、教育や訓練でもない要因が生産物の価値の多くを決めており、それが経済にとって重要なのであるがそれがどのようなものなのか、どのような経済原理に従うのかということである。

これは、歴史的な事実的にも重要である。共産主義は崩壊したが、資本の投入量においてはソ連は西側に劣ってはいなかったし、教育においても劣ってはいなかった。しかしながら、何らかの理由で生産性において共産主義は資本主義に劣り、特に資本の生産性の低さゆえに、長期的には経済が崩壊してしまった。ことことから、資本主義と共産主義とを分けたものは労働でも、資本でも、教育でさえもない何かであったとしか言いようがない。

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社会保障政策の貧困

2010年01月14日 | 経済学

派遣村の現金持ち逃げ事件の話を聞いていると、なぜ世界中で社会保障政策が失敗し続けているのかがわかる。

今回の事件、はっきり言って事件とさえ言えないくらいの少ない金額で大騒ぎになっている。他方では、ほとんど社会に貢献すらせずに多額の給料を得ている公務員や、中高年社員がたくさんいる。結局のところ、対象ごとに公平で統一的な基準で判断するのではなく、恣意的に判断するためにこのようなことになる。

第二次大戦後、世界中で社会保障予算が増額され続けたが、多くの国において貧困がなくなったわけではなかった。日本でも最近貧困の拡大が問題になっている。それは、社会保障予算の多くが高所得者に使われたからだった。ヨーロッパにおいては、もともと高収入な熟練労働者に対する気前のいい失業給付が行われたため、政府の財政は圧迫されたが、貧困層に対しては大した予算が割かれなかったので弱者を救済することには見事に失敗した。日本においても、大企業正社員のような強者を保護するために多額の予算と資源が投入され、さらに公務員の肥大化によって政府予算は膨らみ続けたがそれは貧困問題の解決に何も貢献しなかった。

国際的にも、疫病対策や飢餓対策など少ない予算で多大な効果を上げることのできる国際援助があるにも関わらず、先進国が行ったのは一部の移民に対する異常なまでの援助だった。そして、紐付き援助のような劣悪な援助を行い、それが失敗すると援助が逆に悪い結果をもたらすと言い出した。明らかに成果を上げられることをあえて避けて失敗したにも関わらずである。

このように、ある者に対しては異常なまでに厳しい基準を適用し、別に者に対してはびっくりするくらい緩い基準を適用する。これでは、政策が失敗するのは当然のことである。千円のお金で貧困問題が瞬時に永久的に解消したりするとでも思っているのだろうか。

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生産性と分配に関する対立点

2010年01月12日 | 経済学

民主党の藤末健三議員の労働分配率を上げるという発言が話題になっている。典型的な左翼的な思考回路に基づく資本家から労働者へと所得を移転させるという主張でで、大部分の人はそのような政策に期待もしていないだろうが、なぜほとんどの国において分配政策が失敗したのかを理解する上で面白いスタート地点である。

まず根本的な問題として、分配に関しては二つの対立点があった。一つは、資本家や経営者と、そこで働いている労働者との間の利害対立である。生産をしてその売り上げによって得たお金をどのように分配するかという問題である。しかし、実はもう一つの対立点があり、それが社会全体で部門間、産業間、労働者間でどのように所得を分配するのかという問題である。

賃金は限界生産性によって決まるというのが近代経済学の基本的な結論である。性格に言うと限界生産性の価値によって決まる。限界生産性の価値というのは、限界的な生産量に作った商品の交換価値をかけたものである。しかし、限界生産性の価値は労働者の能力や経営者の経営能力だけではなく、どのような製品を作っていたのかということにも影響を受けるので、どのような製品を作っているのかによって限界生産の価値も変わってくることになる。

だから、保護されている産業や有力な製品を生産している企業の労働者の見かけの限界生産性の価値は、価値が低い製品しか生産させてもらえない労働者の限界生産性の価値よりも高くなってしまう。これは製造を行う労働者だけでなく、セールスマンにおいてもいい商品を扱った方が簡単に高い売り上げを上げられるだろうし、売り上げと利益の上がりやすい部門を担当すれば無能な管理職でもいい成績が上げられるというように他の形態の労働者についても同じである。

このように、部門間、産業間、労働者間の所得の分配というのがもう一つの問題である。この問題に対して、本来市場が競争的であれば労働者を含む資源の移動が起こって部門間の格差が解消するはずだから、それを行うべきだというのが一つの考え方で、このような部門間の差はすべて労働者や経営者の能力差であるに違いないからこのような格差を尊重し正当化することが経済を成長させるというのがもう一つの主張だ。

競争論者が格差の容認や、弱肉強食によって生産性を高めることを主張するのは、後者の立場を取っているからである。もし、前者であれば高すぎる賃金を新規参入によって下げることによって生産性の向上と効率化を図らないといけないことになる。スウェーデンモデルの基になっているレーン・メイドナー・モデルがまさにこちら側の考えに基づく理論である。

藤末議員の主張は、労働者間で考えると限界生産性の違いがありその分所得の違いがあるのは当然であるが、経営者や資本家は何の貢献もしていないのでその分を労働者に分配するべきであるというものである。ほとんど何の貢献もしていない年収一千五百万円の中高年社員と資本家とではどちらが経済に貢献しているのだろうか、高所得の労働者の所得を上昇させるのとそれを低所得者層に分配するのとではどちらが好ましいのだろうか。それが基本的な問題である。

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分配政策のあり方

2010年01月11日 | 経済学

相変わらず、所得の再分配を考えるよりも資源の最適化の方が先だとか、再分配のようなばら撒きはやめるべきだとか、所得再分配を否定する人が多くてうっとうしいのだが、その人たちは日本の生活保護予算が他の先進国と比べて圧倒的に少なく、もっとも脆弱な社会保障制度しかないことを理解しているのだろうか。

根本的な問題は、どのような保障政策や保護政策、所得の再分配が効果的で重要であるかという分析がないことである。だから、結果として所得再分配でなくて、資源の効率化が先だとか、市場競争で弱肉強食が起こるのは仕方がないと言った理由で、いかなる所得再分配政策も否定されてしまう。それでいて、何らかの理由付けが行われれば多くの大企業性社員や公務員のような高所得の労働者に対する手厚い保護に対しては寛容になってしまう。

結局のところどのような保護政策や保障政策、所得再分配が社会全体として、あるいは資源分配との兼ね合いで、有効なのか好ましいのかをまず考えなければ、あるところではほんのわずかの効率性のために安定性や平等性を犠牲にし、他方では一部の特権的な階層を保護するために社会全体が経済的に多大な負担をすることになる。

ここ二十年日本は先進国の中で、もっとも経済が停滞した。不思議なことに先進国の中で突出して保護されている労働者と、それ以外の保護されていない非正規雇用労働者などとの格差が大きいのも日本だった。また、男女間、企業規模間の所得格差がもっとも大きいのも日本だった。

もし、労働者を保護しないことが経済発展をもたらすのなら、また現在言われているように派遣を規制することが労働者のためにならないことで規制しないことがいいことなのであれば、きっと日本は世界に類を見ない成長をしていただろう。経済のある部分だけで以上に規制を緩めるという政策は知識人の頭の中では正しくても、客観的な事実によっては支持されていないのである。

実のところ、先進国におけるここ二十年の経済成長ともっとも大きな相関があるのは、経済内の保護のされ具合の差、特に労働政策における正規非正規、就業者失業者間の保護や保障を受けられる程度の差であった。社会保障政策の額においては大きな差があったが、もっとも大きな経済的社会的な成功を達成したのはスウェーデンとアメリカだった。そして、社会全体の社会保障は整っているが、現在の被雇用者を保護しすぎる大陸ヨーロッパが続いた。そして、もっとも保護のされ方が偏った日本が圧倒的に経済停滞した。

スウェーデンとアメリカの両方が成功していることからもわかるように、社会保障の充実度と経済成長とにはほとんど何も関係も見られない。しかし、保護や保障の程度の格差と経済成長とには大きな相関がある。これは、少し考えればわかることだが、保護の程度が強いにしろ弱いにしろ同じ程度であれば差はないので効率的な分配がされやすいのに対して、もし保護の強さに差があれば強い保護を多くの人が求めて社会全体の資源分配の効率性が大きく損なわれることになるだろう。

現在の日本において、経済停滞の結果もっとも非効率的な公務員に多くの人が群がっているようでは経済が停滞するのも当然のことである。結局のところ、社会全体で資源分配が歪むような状況になっていれば、いかに部分的に効率化の効果があるといっても全体からすればほとんどゼロと同じだろう。そして、それがもし他の部分との歪みを増幅するのであれば、逆に社会全体としては効率が大きく低下する可能性さえある。だからこそ、社会全体としてバランスのとれた社会制度を構築する必要があるのである。

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ETFの新商品

2010年01月10日 | 経済学

日興アセットマネジメントが日本以外の先進国の株式に連動するETFと、新興国の株式に連動するETFを東証に上場することを発表した。ETFというのはexchange traded fundの略で証券市場に上場されて取引されている投資信託のようなものだ。

日本の投資信託の信託手数料は現在でも世界的に見て割高である。ETFは基本的に信託手数料が割安であることが多いので、このような商品が東証に上場されるのはいいことだろう。配当課税の問題など、問題点もあるようだがこのような消費者にうれしい商品が増えて、日本の投資環境がよくなっていくといい。

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資源分配と所得分配

2010年01月09日 | 経済学

二つ前の記事の補足なのだが、現実の経済においては資源分配と所得分配は密接にリンクしている。というのも、賃金水準というのは労働者がしている労働の限界生産性の価値と強く相関しているので、資源分配が決まってしまえば、その資源分配における限界生産性の価値によって賃金水準がほぼ決まってしまうからである。

さらに言うと、現実の世界においては賃金支払い後の所得再分配の方法は予め決まっているので、結果として資源分配が決まってしまえば最終的な所得分配は決まってしまう。したがって、ある資源分配に対する所得分配は無数にあるのに対して、所得分配が決まればそれに対応する最適な資源分配は一つに決まってくるのではなくて、現実には最適な資源分配とそこでの所得分配とは一対一に対応している。

また、社会によって累進課税制度などの所得分配の仕組みには差があるが、基本的には低所得者と高所得者との差を縮める形で行われている。違いは、どの程度所得再分配によって格差を縮めるかの違いだけである。したがって、資源分配が決まってしまえば、その状態における所得分配は元の所得分配から格差を縮小した分配に基本的に限られるために、資源分配が決まってしまえばごく小数の可能性しか所得分配には残されていない。

所得再分配の制度が変わると資源分配に影響があるかも知れないが、その影響は限定的である。というのも、結局は高賃金労働者は高賃金労働者であり続けるだろうし、逆もまた然りである。たから、変わるのは賃金水準の差がどの程度かということだけで結局は基本的な賃金の分配からどれくらい最終的な所得分配がその賃金格差を縮めるかということに過ぎない。賃金上昇が労働時間に与える影響が歴史的にはマイナスであることを考えると、大きな影響があるのはよほど限界税率が高い場合だけだろう。

だから、結局は資源分配が決まってしまえば基本的な所得分配は決まってしまう。そのため、資源分配と所得分配を分けて論じること自体が不可能である。また、資源分配と所得分配との間に密接な関係があるために、資源分配を改善する政策が強力な反発を招くのである。テレビ局のような規制業種の規制を緩和して資源分配を改善することが経済全体にとって好ましいことであることは当たり前であるが、そのような資源分配の改善は必然的に所得分配に影響を与えるので特権階級は必死に反対するのである。

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