車輪を再発見する人のブログ

反左翼系リベラルのブログ

格差政策の失敗

2009年01月31日 | 経済学

格差を肯定する政策、格差を容認する政策の見事なまでも失敗は印象的だ。日本においても、アメリカにおいても高所得層に対する保護政策や財政的な補助は惨憺たる結果をもたらした。現在、アメリカにおいてはベイルアウト(政府による金融危機回避のための資金援助政策)が高所得者である金融関係者の所得と雇用を保護しただけで、実際の経済に対する効果がほとんどなかったことが大きな問題となっている。日本においても、バブル崩壊後政府により銀行を間接的に支援するゼロ金利政策や、直接的な資本注入政策が取られたが、それらのものは銀行員の高所得と、銀行の非生産性を延命させただけで経済全体に対する大きな効果をもたらすことはなかった。その意味で、高所得者を保護することが経済全体に必要だして執られた政策の失敗は明らかだ。

市場主義者や自由主義者の中には、市場競争や自由競争が必要だから格差を気にしてはならない、弱肉強食による適者適存によって非生産的なものを切り捨てる必要があると主張する人がいる。問題は、自由競争が行われるということと格差が正しい・広がるということは違うし、高所得者を保護することが自由競争をもたらすというわけではもっとないということである。そもそも、市場競争においては高所得の仕事には新規参入が発生し賃金が下がり格差が是正される過程で全体の効率が高まるという原理がある。だから、市場競争が重要だということは格差を肯定する必要があるとこは意味しないのである。それどころか、むしろ高賃金でありながら保護されている産業や雇用を市場競争や、間接的な雇用圧力によって賃金水準を調節する必要があるのである。

そういう意味で、日本他多くの先進国で行われた経済のための、高所得者保護政策は本来市場原理によって賃金水準を下げる必要があるところを、保護によって高所得と非効率、他との格差を温存した結果となった。さらに、このように非効率で高所得な仕事を温存したことは、人材という資源の分配において極めて大きな悪影響を与えたといえるだろう。それはそれまで雇われていた労働者という範囲だけでなく、これから就職する労働者に関しても大きな問題である。だから、少なくとも(雇用は守ったとしても)賃金を労働者のインセンティブを損なわないようにかなりの程度下げる必要があったといえるだろう。

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感情論

2009年01月28日 | 論理

手短に、前の記事を補足。(結果として全然手短ではない記事になっているが・・・)

感情論批判、あるいは大衆は感情的だというような主張がよく行われる。その心は、物事は単純ではないから単純に起こった事件や状況に「感情的」に反応して行動したり、政策を立案したりしてはいけないというものだ。だから、多くの犠牲者が出たとしても、多くの被害者が存在したとしても、そのような人たちの痛みに「情緒的」に反応してはいけないということになる。

このような意見にも一定の真理はあるかもしれないのだが、問題は被害者や犠牲者が大量に存在したり事件の原因としてあるものが大きな要因を占めていることが明らかな場合と、広い範囲にわたってそれが問題であることが明らかではない場合があるということだ。

貸し金の問題とダガーナイフが事件に関与した場合を比較するとわかりやすいだろう。貸し金による被害が日本全国で広がっており大問題になっていることはあまりにも明らかである。だから、それを問題と捉えて対策を取ろうとすることはある意味当然のことだといえる。それに対して、ダガーナイフが関与した事件はいくつかあるかもしれないがダガーナイフがあるからといって事件が起こったという証拠はまったくないといえる。

つまり、片方は事件との関係が明らかなのに対して、もう一方はただ単に一部の人が事件に使われたとして大騒ぎしているだけである。この二つの間には、非常に大きな違いがあるといえる。

大衆が「感情的」に反応するとされて非難されるのは、前者のほうである。つまり、それが大問題であることは明らかであるが、そこから導き出される対策が必ずしも正しいとは限らない場合であろう。確かに、このような反応は不完全で間違った結果をもたらす可能性があるかもしれないが、根本的な時点においてこのような問題意識で物事を考えることは間違ってはいないのではないだろうか。

逆に、ダガーナイフにおける過剰反応のようなものは、たいていマスコミや知識人、政治家が原因となるのだが、単なる根拠のない過剰反応に過ぎず、百害あって一理なしではないだろうか。

だから、「感情的」として大衆がよく非難されるのであるが、より問題性の大きな「感情的」な反応は大衆ではなく、より上の階層において起こっているのではないだろうかと私は考えている。その意味で、知識人が「感情的」に行動した結果、問題が起こったのに、その責任を大衆になすりつけ大衆を非難するのは大きく的外れではないだろうか。

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過剰反応

2009年01月27日 | 政治

お久しぶりです。今日からまた更新していきます。今日は雑種路線より

埼玉女子中学生自殺した事件を受け、文部科学大臣がケータイについて「携帯学校への持ち込みについては近々、国として方向性を出す。特別な場合を除いて持たせないとか、学校では使わせないとか」と語ったらしい。

・・・

ケータイに限らず、製造業派遣とか、ダガーナイフとか、薬のネット通販とか、とりあえず禁止って話が多すぎて、なぜかくも即物的に政治が動くのか理解に苦しむ。ワイドショーをみて憤る年寄りに対する人気取りか、有権者馬鹿にしているか、少なくともケータイ子どもに持たせている親のことは馬鹿にしているのだろう。いっそ失業とか自殺を禁止してはどうか。

このような過剰反応は知識人の十八番である。ダガーナイフなどは典型的であるが、何か問題が起こって、知識人が嫌っているダガーナイフやオタクなどが関係しているとそれを全否定する。このような反応は、日本に限らずどこの国の知識人でもほとんど同じだ。このような脊髄反射は知識人の思考回路の基本構造に組み込まれていると言って良いだろう。

一方で、社会的な問題や、政治的・歴史的な問題が起こった場合に起こる反応としてもう一つ典型的なものがある。他にも原因や理由があるというものや、向うにも責任があるという主張だ。途上国の停滞や貧困に対しては、欧米諸国の植民地支配だけでなく、現地の政府や住民の努力にも問題がある。派遣社員や失業者にも落ち度や責任がある。だから、他のものを非難することは間違いだというものだ。

ここで面白いのは、ダガーナイフやオタクの場合にはそれらのものが問題をもたらしているという明確な相関関係はなく、逆に途上国の停滞や派遣社員の待遇格差には、欧米諸国や現在の労働市場の不平等性との相関関係が明らかにあるということだ。つまり、事件や問題と少しでも関係していれば否定される場合もあれば、明らかに相関関係があったとしてもそれ以外の要因も関わっているというだけで、相関関係自体が無視されることもある。

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日韓歴史共同研究

2009年01月23日 | 政治

あまりにもものすごい内容なのでここでも取り上げておこうかとアジアの真実より

日韓共同研究: 神戸大 朝鮮半島地域研究 木村幹教授:読売新聞
 私事で恐縮だが、一昨年からはじまった「第二期日韓歴史共同研究委員会」の研究委員なるものを引き受けてから、もう1年半以上になる。委員会には、古代史部会、中世史部会、近現代史部会、そして教科書小グループの四つの下部委員会があり、筆者はそのうちの教科書小グループの研究委員を務めている。
 そもそも日韓間で最初に本格的な国家間プロジェクトとしての歴史共同研究が始まったのは、2002年のことであった。第一期の委員会には、筆者も研究協力者(委員の下で研究に従事するもの)として参加させていただいた。
 こうして開始された「第一期日韓歴史共同研究委員会」は、2005年に報告書を提出して終了し、2007年からは第二期の委員会がはじまった。筆者も目出度く(?)研究協力者から委員へと昇格した。しかし、仕事は厄介であった。すぐにわかったのは、日韓の間では、歴史教育の目的が全く異なる、ということだった。
 日本では一般的に、日本史や世界史に関わる「事実」を教えることに重点が置かれている。だから、各種の教科書から一定の「物語」を読み取ることは難しいし、また、教育現場でもその読み取りは重視されない。
 しかし、韓国では歴史的事実よりも、歴史に関わる「物語」に重きが置かれている。そこでは、「民族」の価値が強調され、近代史でも、如何に韓国人が日本に抵抗したかが、重視される。
 日韓の教科書の違いには、「歴史観」の違いが表れている。例えば、韓国人が歴史問題などにおいてよく使う言葉に「歪曲」がある。注意すべきは、この言葉が「歪曲された事実」という形だけでなく、「歪曲された歴史観」という形でも使われることだ。そこには、「絶対無二の歴史観」が存在し、それ以外の歴史は、事実の如何に拘らず「誤り」だ、という認識が存在する。
 だとすれば、日韓の間で妥協が成立するためには、日本側の歴史観が韓国のそれに合致する形で是正されるか、韓国式の歴史観そのものが変わる他はない。
 歴史問題については、よく独仏の例が参考にされる。しかし、両者でフランスが譲歩した部分も多かったことは余り知られていない。先行する事例を正確に観察してこそ正しい解決策が見出されるのではなかろうか。

まあ、このような無茶苦茶な学問の世界が未だに存在していることが一番の驚きなのですが。これが韓国だといわれればそれまでではありますが。

歴史と事実といえば、中国や韓国は未だにこんな感じですが、80年代以降特にそうだが日本史や世界史において客観的な事実に基づくちゃんとした研究が進んだ。(新書だと講談社から出ている「講談社現代新書―新書・江戸時代」のシリーズがわかりやすくて良いかもしれない。)昔は、ヨーロッパ中心史観が中心というか、ほとんどすべてで他は無視されていたがその状況がどんどん改善されていっている。今でも、中世のイスラム社会が近代との関係でちゃんと研究されていない等問題もあるが、日本史に関しては、客観的な研究が進んできているといえるだろう。

その点、未だに東京裁判史観を貫き、中国・韓国が虚構によって作り出した「歴史観」に左右される人たちがいるのは困った問題だ。客観的な研究がこの分野でも進むことを期待する。

少し時間が取れないので、しばらく手短になりそうです。

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解雇規制緩和は有効かどうか?その2

2009年01月21日 | 経済学

本当の本題に。労働市場の状況として、正規労働者と非正規労働者とに市場が別れていて、賃金や待遇に格差がある状態と、一つの労働市場しかなく賃金や待遇の差別がない状態ではどちらが優れているか?答えは簡単である。賃金や待遇において差別がないほうが優れていることは言うまでもない。そういう意味で、結論は単純明快で、簡単なのだ。だから、解雇規制を緩和していって、現在の差別的な制度を緩めて市場を統合していくことは最終的には正しいことは明らかなのだ。

問題は、ミクロの次元で解雇規制緩和を論じると、すべての場合において解雇規制緩和が望ましい結果をもたらすとは限らないということだ。だから、解雇規制を緩和すると失業が増えるとか、解雇によって浮いた賃金が他の労働者に回らずに経営者の懐に入ってしまうとか言う議論が生まれてくる。しかし、それらのことはただ単にそういう場合もあるということに過ぎないのだ。だから、そういう場合があるといって解雇規制を緩和する政策が間違っているとは言えないし、差別的な労働市場のほうが公平な労働市場よりも望ましいということはさらに言えない。

ここがまさに今日言いたいことだが、部分的に解雇規制緩和が正しくないということは解雇規制を守ることが正しいということを意味しないし、労働市場の差別をなくす必要がないということも意味しない。議論が混乱するのはここである。つまり、どこまでいっても、現在の不平等な労働市場は問題があるし、これが問題の根本である。だから、これをどのように解決するかが重要である。その意味で、正規社員は特権階級であり、解雇規制は特権である。そして、非正社員は被害者である。これは、どこまで行っても、変わらないのである。それを、解雇規制緩和が部分的に望ましい結果をもたらさないとか、労働市場での差別以外にも問題があるとか言って、まずで解雇規制や正社員と非正社員との差別が何の問題もないかのように主張するから議論がおかしくなる。正しいものは正しい。ただそれだけのことなのだ。それを、すべてが完全ではないという理由ですべてを全否定するからおかしくなる。

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解雇規制緩和は有効かどうか?その1

2009年01月21日 | 経済学

いやほんとに、議論するのに疲れた。いつものことながら。自分の言っていることの論理的なおかしさに気づかない人がいっぱいいるのにはいつもびっくりする。と、愚痴はおいとして本題にいこうか。その前に、ブログランキングに参加していますが、応援してくれている方、どうもありがとうございます。押していただけると、励みになります。

では本題。AとBとを比べたときAのほうが有効だということがわかったどちらを選ぶべきだろうか。自然科学でも、社会科学でも二つの要因に関係があるか、二つの対策のどちらが有効かを調べるのに、相関関係というものが用いられる。現実の世界においては、複雑に要因が絡み合うので、単純に何かがすべてを説明しているとか、すべての場合において有効であるとか言うことがわかるとは限らない。そこで、二つの要因を比べて相関関係があるかどうか、AとBを比べてどちらのほうが、望んでいる結果に対する相関関係が高いかを調べて、厳密で完全ではないが現実的に有効な対策を取ろうとする。

少し難しいことを言ったが、一言で言うとすべてを一つの要因で解決できないかもしれないし、すべての場合において有効ではないかもしれないが、より有効な割合が高かったり、有効である可能性が高ければそちらのほうが、全体として優れているのではないだろうかと言うことだ。つまり、優れた方法であったとしても完全ではないかもしれないし、すべての場合に有効ではないかもしれない。完全性を求めているのではないのだ。二つを比べてどちらがまだ優れているかを考えているのだ。

本題に入っても、前振りでこんなにかかってしまったのでその2に続く。

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新自由主義が嫌われる理由

2009年01月20日 | 経済学

新自由主義や市場原理主義は相変わらずそこらじゅうで嫌われている。その理由には、市場に対する無理解や、ただ単なる市場化によって特権的な保護が奪われることに対する恐怖心というものもあるかもしれないが、それ以外にも理由があるような気がする。それは、新自由主義的な考えを主張する人たちがあまりにもあらゆる形の市場化を肯定するので逆に市場主義から遠ざかっていっていることがあるからだ。

新自由主義的な考えを主張する人たちは、保護や平等が競争を阻害し経済停滞や、逆に不平等・悪平等をもたらしていると主張する。しかし、そのような保護主義や平等主義が、経済に悪影響をもたらした非常に大きな理由はそれが一部のものだけを保護するものだったからである。本来は、すべての人を平等に保護し公正に扱わなければならないのに、恣意的に一部の者だけを保護したために経済全体が大きく歪んでしまった。にもかかわらず、新自由主義的な考えを持つ人たちは、平等や保護自体を否定しようとする。そこが、大きな問題点なのではないだろうか。

そして、その結果弱者の保護に反対し、弱者の保護をなくすことを主張する。また、特権的な保護を得ている労働者貴族の特権をそのままに、保護されていない労働者の市場をさらに自由化し市場化しようとする。これは、平等主義が一部のものの間だけの差別的な平等主義によって失敗したのと同じように、一番自由化市場化が必要なところを無視して、都合のいい部分を市場化する過ちではないだろうか?

恣意的で差別的な平等主義が失敗したから、恣意的で差別的な市場主義をすれば成功するはずだ。これはまるで、一部の人間を保護して特権的な地位を与える平等主義が失敗したから、逆に今まで保護されていなかった人たちの保護をさらに削れば市場が機能するはずだといっているようなものではないだろうか。結局は、ちゃんとした平等主義を取らずに失敗したのに、その結果間違った市場主義の正しさを確信する。結局恣意的に自分の都合のいいように物事を解釈しただけではないだろうか。このような、恣意的な発想が失敗の原因であるように思う。

恣意的な政策はいらないという方どうぞご協力を。


日中共同歴史研究

2009年01月20日 | 政治

ついつい、書くのを忘れていたこの話題を、周回遅れでどうぞ。アジアの真実の記事も合わせてお楽しみを。

日中歴史共同研究、両国の溝埋まらず:産経
 日中両国の有識者による歴史共同研究で、民主化運動を武力鎮圧した天安門事件(1989年)に関する日本側の記述を中国側が「極めて敏感」な問題として削除するよう求めていることが関係者の証言で明らかになった。中国側が「愛国主義教育」と称して“反日教育”を行っているとの日本側の見解にも、中国側は強く反発しているという。天安門事件から20年の今年は「政治的に敏感な年」(中国当局者)で、世論引き締めを強化する中、中国政府は国民を刺激しかねない記述には神経をとがらせており、研究報告書の公表が大幅に遅れる原因にもなっている。

 研究をめぐっては昨年末にまとめの報告書が発表される予定だった。当初は南京事件(1937年)などに関する記述が注目されていたが、関係筋によると、日中戦争史の部分について双方が「両論併記」の形で簡単に触れることで合意したという。

 しかし、戦後の日中関係史の部分で、双方の意見の相違が露呈。天安門事件(6月4日)については、現代中国に対する関心を高める大きな出来事として、日本側は「避けて通れない史実」として報告書に盛り込んだが、中国側は「今年は事件20周年」で敏感な問題と懸念を示したという。天安門事件の死者数は数百人とも千人以上ともいわれるが、真相は公表されていない。再評価を求める声もあるが、中国政府は「反革命暴乱」とした公式評価を変えようとしていない。
また、日本側は戦後の日中関係に関し論文で、「中国政府の青少年に対する愛国主義教育が日中戦争の歴史を過度に強調、戦後の日本を客観的に評価していないことが両国関係に悪影響を与えた」との主旨の記述をしているが、中国側はこれにも猛反発し削除を求めてきたそうだ。

 中国側の学者は報告書に対する国民感情を考慮していることを示唆しており、中国側が日本側に要請するたかちで、報告公表の時期を遅らせているとの指摘もある。

「報告書に対する国民感情を考慮して」って部分が傑作だが、中国の学者には自分たち以外の国民感情や客観的な事実というのは関係ないのだろう。中国は共産党の一党独裁国家なのでそのようなことを考えてもどうしようもないことはわかっているが、日本は地道に客観的な事実に基づく歴史を主張していく必要があるだろう。

この記事でもよくわかることは、中国や朝鮮半島や日本の左翼他、左翼的な考え方の人たちは「国民感情」や「相手がどう感じるか」といったものが判断をよく左右するということだ。問題は、その「相手の感情」がただ単なる「自分がどう感じるか」だけでしかないために、結局は事実や理論を無視して、自分たちが悲しい、自分たちがそれがほしい、相手が憎い、といった自分の欲求だけで物事を判断してしまうことだ。これについては、こっちこっちにも書いたが、知識人が一番「恣意的で感情的」ではないかと考えている。

極左の絶叫は要らないという方はどうぞご協力を。


MLBがサラリーキャップを検討?

2009年01月20日 | スポーツビジネス

MLBのオーナーの一部がサラリーキャップの導入を希望しているようだ。鈴木友也氏のブログにも記事が出ているが、いろいろと課題があるようだ。このような声が一部のオーナーから出たのには、「この不況にも関わらず既にヤンキースが5億ドル(約450億円)を超える大型補強を行っている」のが非常に大きな影響を与えているのだろう。あまりにも、ヤンキースとそれ以外との財力の差が大きく、戦力差に対する危惧が出てくるのは当然だろう。

しかし、選手会としてはサラリーキャップの導入には、オーナー側が財務内容を公開することを要求するだろう。完全に利益等すべてを公開する必要はないとしても、MLBの財務内容は、周辺ビジネスへの利益移転(一番大きいのは提携関係にある地元放送局やケーブル会社)によって大きく粉飾されているので、まずそれを公開しないと前には進まないだろう。

サラリーキャップ自体は、サラリーフロアやレベニューシェアリングと合わせれば、必ずしも年俸を抑制する制度ではないので(「サラリーキャップは年俸を抑える?」と「サラリーキャップが年俸抑制政策ではない理由」参照)、選手会としても合意できない内容ではない。しかし、高収入クラブはレベニューシェアリングに反対するだろうし、低収入ながら低コストで利益優先で運営されている球団はサラリーフロアによる利益の減少を嫌うだろう。かといって、サラリーキャップだけを導入することは選手会にとってあまりにも不利な内容なので合意を取り付けることは難しいだろう。

サラリーキャップ、サラリーフロア、レベニューシェアリングの三つが上手く組み合わせて導入されれば、リーグとしては大きな恩恵を得ることになるだろう。その恩恵を最も得るのは、選手全体か中規模の球団かと思われる。しかし、選手会が恩恵を受けるかどうかは、合意内容に大きく左右されるのでコミッショナーのリーダーシップが必要なのではないだろうか。後一つ、選手会を牛耳る一部高年俸選手がリーグや選手全体の利益を無視して、高収入クラブが高年俸を出せるようにすることを優先するのはいい加減やめてもらいたいものだ。

野球もサラリーキャップが必要だと思う方はどうぞご協力を。


感情論?どうしてもよくわからない

2009年01月20日 | 経済学

池田信夫blogより、この主張は何度も繰り返されているのだが、何度聞いても納得いかないので、何が納得いかないかを少し書いておく。

雇用問題は身近で切実なので、アクセスもコメントも多い。経済誌の記者はみんな「池田さんの話は経営者の意見と同じだが、彼らは絶対に公の場で『解雇規制を撤廃しろ』とはいわない」という。そういうことを公言したのは城繁幸氏辻広雅文氏と私ぐらいだろうが、辻広氏のコラムにも猛烈な抗議があったという。

解雇規制が労働市場を硬直化させて格差を生んでいることは、OECDもいうように経済学の常識だが、それを変えることが政治的に困難なのも常識だ。これは日本だけではなく、フランスのようにわずかな規制緩和でも暴動が起きてしまう。人々は「雇用コストが下がれば雇用が増える」という論理ではなく「労働者をクビにするのはかわいそうだ」という感情で動くからだ。

納得いかないのは、論理ではなく感情で動くという部分だ。感情で動くとすれば、解雇や失業者に対しては同じように「感情的に」可哀想だという反応があるはずだ。現実的には、そうではなくて非正規雇用の解雇や失業者に対しては、そのような同情的な反応はあまり起こらず、逆にその人たちに責任があると非難する人たちがたくさんいた。つまり、解雇や失業者に対して「感情的に」反応することが問題ではなく、守られている特定の労働者の権利に対してのみ「感情的に」反応することが問題なのである。

そして、その「感情的な」反応の中心にいるのは、大衆ではなく労働組合員や労働左派、知識人などのインテリ層ではないだろうか。つまり、労働組合や知識人等が一般民衆の痛みに対しては無関心である一方、自分たちや自分たちの仲間の痛みに対しては「感情的に」反応してしまうことがこのような自体を招いているのではないだろうか。その意味で、「感情的」であることが問題なのではなく、それが恣意的で多くの人の悲惨な痛みを無視する一方、一部の者の痛みに過剰に反応し、すべてがその過剰反応に支配されてしまうことではないだろうか。

これは、戦後のほかの部分の現象に対しても言えることだろう。第二次大戦が終わった後も多くの悲劇があったが大部分はほとんど誰も相手にしなかった。多くの途上国では植民地支配の傷跡に苦しみ、アフリカでは多くの者が飢え、ソ連・中国の横暴によって多くの人々が犠牲となった。これらのものに対してほとんど「感情的に」社会が反応しない一方で、日本の朝鮮半島に対する植民地支配や、ヨーロッパのユダヤ人差別といった一部の問題に対してのみ、異常かつ執拗な「感情的」を通り越して「激情的」、「直情的」、「狂乱的」反応が繰り広げられた。そして、9.11テロに対しても、それ以外のたくさんの事件においては起こらなかった異常な反応が起こり、ものの見方自体を変えるほどの影響を与えた。そして、これらの一部のものに対する異常な反応は常に、大衆ではなく知識人によって先導されてきた。

つまり、専門的な研究者はこれらの問題に対して、正しい理解に基づき正しい判断を下していたかもしれないが、その下の知識人やインテリ層は恣意的で異常な反応をしていたのではないだろうか。そして、そのような知識人による恣意的で異常な「感情的な」反応は、日本の歴史問題に代表されるように一般大衆の反対によって、その偽善、欺瞞が明らかにされていっている。つまり、知識人はいつもおかしいというのが正しいのではないだろうか。

これを書いていて少し前に似たようなことを書いたのを思い出したのでリンクしておく。

馬鹿な知識人はいらないって人はどうぞ。