車輪を再発見する人のブログ

反左翼系リベラルのブログ

朝日新聞の経済学

2009年02月28日 | 経済学

H-yamaguchiで2009年2月24日付朝日新聞のアマーティア・セン米ハーバード大教授のインタビューを論評していたので、これに便乗して少し。

・・・「今の問題のほとんどはグローバル化自体よりも、ほかの事情による。政治力、所有物、経済集団などの巨大な不平等が世界に非対称性を生み出しているのだ」・・・、「グローバル化の何かが間違っていたのでしょうか」と聞いてる。これに対してセンは「グローバル化は多くの国にとって利益の源泉だ」とはっきり言い切っている。危機の原因もグローバル化そのものではない、と。「米国の経済管理の誤り」と。いってみれば強欲な人々が作り出す「不平等」。・・・「新自由主義という用語にはきちんとした定義がないが、もし市場経済に基礎を置くことを意味するだけなら、結構なことだ。市場経済はどこでも繁栄のもとなのだから」

朝日新聞らしいインタビュー内容だったようだ。経済学者の中では市場を悪として批判する人は少数派で、市場の限界(特に不完全な市場の場合)や市場をいかにして自由で機能するものにするとという点から、市場ならすべて大丈夫というような主張がよく批判される。だから、国際貿易の問題においてはグローバリズムに批判的なスティグリッツも自由貿易主義者も、第一の問題は先進国の農業保護でそれをどうにかするという点で一致している。その点で、朝日新聞の主張は全然違う。

むしろ、朝日新聞のような主張が存在したことが日本の市場を競争的にすることを阻害してきたといえる。労働組合が強い力を握っていると、その既得権を脅かす雇用制度の改革は難しい。だから、そのような既得権を脅かさずに市場っぽい感じをもたらす市場原理主義者がもてはやされたと言える。つまり、ちゃんとした市場主義が抑圧されたために結果として歪んだ市場主義が蔓延った。だから、それをもって市場主義を批判するのは的外れだといって良いだろう。

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不等価交換と等価交換

2009年02月28日 | 経済学

池田信夫blogの資本主義と市民社会より

よく「資本主義」と「市場経済」を同じ意味に使う人がいるが、両者は別の概念である。ブローデルもいうように、資本主義の核にあるのは不等価交換によって利潤を追求するシステムであり、それは等価交換を原則とする市場と対立する。資本主義は、等価交換によって利潤(不等価交換)を生み出すシステムであり、この矛盾がさまざまな軋轢を生んできた。

市場についてもう少し説明すると、市場というのは不等価交換が等価交換をもたらすシステムとして捉えることが出来る。企業家は利潤を上げるために事業を営んだり取引をしたりするのでそれ自体は不等価交換である。しかし、その不等価交換という行為は不足している財を供給したり、資本を生産性の低い場所から生産性の高い場所へと移動させたりするので、結果として市場を等価交換のシステムへと近づける。つまり、市場は部分的には利潤動機という不等価交換に基づく行為が、結果として資源の歪みを解消し等価交換のシステムである市場を機能させるというシステムである。

だから、利益や利潤というものが正しいという主張や、不等価交換自体を正しいとするのは間違いで、その不等価交換が等価交換をもたらすかどうかが重要である。極端な例を考えればすぐにわかることだが、独占は不等価交換をもたらすが社会的・経済的に好ましいものではない。同じように、不等価交換が結果として等価交換を長期的にもたらすのであれば良いが、ずっと不等価交換が続くのであればただ単にっ不平等が延々と続くだけだ。これは、市場が一部の産業家によって寡占的に支配されている場合も、労働組合が労働市場を制限している場合も同じである。

まさにここが問題なのであるが、不等価交換が等価交換をもたらすというのが市場を支持する根拠ではあるのだが、一部の参加者にとってはそれが最も好ましいものではなかった。産業家にとっては不等価交換を延々と続けることが出来ることが望ましかったので、市場の有用性を主張しつつ植民地支配という形で市場に介入したり、カルテルによって市場を支配したりしてより都合のいい不等価交換を維持しようとしてきた。19世紀において起こった資本主義を、「資本家が私的所有によって資本を独占する生産様式は、市民社会に寄生して本源的な価値の源泉である労働を搾取するシステム」として捉えたのがマルクスで、マルクスはそれに基づいて資本主義を批判した。

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公務員の高待遇

2009年02月28日 | 経済一般

公務員の高待遇について資料1

日本の国家公務員の平均年収は662.7万円、地方公務員の平均年収は728.2万円。日本と世界の公務員民間の平均年収に比べるとずいぶんたくさんもらっていますね。主要先進国と比較してみると 


公務員の平均年収はドイツ 355万円、イギリス 410万円、カナダ 320万円、フランス 310万円、アメリカ340万円になります。国によって公務員の仕事の違いがありますが、それでも日本の公務員の平均年収はほかの国々よりほぼ2倍とは多すぎですね。

次は、官民比較のデータ

国家公務員 662、7万円
地方公務員 728,8万円
独立行政法人 732、6万円
上場企業平均589、3万円
民間平均 434,9万円
統計元:「特別職の職員の給与に関する法律」、人事院「平成19年国家公務員給与等の実態調査の結果」、総務省「平成18年地方公務員給与の実態」、独立行政法人:総務省「独立行政法人の役職員の給与等の水準(概要)」、総務省「期末・勤勉手当 昭和40年以降の支給月数の変化」、国税庁「平成18年 民間給与実態統計調査」

データからわかるように日本の公務員の給料は世界的に見て異常な高さである。他の国と比べて約2倍である。このようなことが起こる最大の原因は年功序列制度で、どんなに無能であっても、仕事が単純作業であっても賃金が年齢とともにどんどん上がっていくことにある。日本以外においてはそのようなことはないので結果として信じがたい平均給与の差となる。

公務員の給与は民間平均よりも高いだけでなく、上場企業平均と比べてさえ高い。さらに、地方公務員の給与はさらに高く、これに高額の退職金が付くのだからびっくりするほどの格差があることがわかる。こうなることの原因は、公務員全員が年功序列制度によって守られ給与が一定の割合で上がっていってしまうことにある。このため、民間では出産のため一度退職した女性やちゃんとした仕事に就けなかった労働者が低賃金によって平均の下げる中、高賃金となる。さらに、公務員は失業の危険性もないために、さらに長期で考えると失業による民間労働者の賃金減少を受けない分、結果として給与水準が高くなる。

ぱっと見ですらわかるように、公務員の給与は高すぎこれが日本の経済停滞の大きな原因となっていることがわかる。さらに、優秀な人材が無意味な仕事に配分されることによる不利益も考えると、さらに大きな経済的な負担となっているといえるだろう。この公務員の異常な高待遇を解消することは日本にとって至急の課題だといえるだろう。

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NFLフリーエージェント解禁

2009年02月27日 | スポーツビジネス

アメリカの2月27日にNFLの新たにフリーエージェントとなる選手との交渉と契約が解禁される。フリーエージェントというのは、昔は球団が保留権によって永遠に選手の権利を保有し続けることが制度を改革して、選手に移籍の自由を認めたものだ。アメリカでは、フリーエージェント制度によって多くの選手がこの時期移籍していくので毎年ファンの注目を浴びる。

日本のプロ野球においてもフリーエージェント制度が導入されているが、内容は少し違う。アメリカでは、MLB・NBAもそうであるが球団の保留権が消滅し移籍が自由になる制度である。しかし、日本の場合はむしろ権利を行使することによって移籍が許される制度と考えるほうが適当である。アメリカの場合は、保留権が消滅するのでそれ以後は契約が切れれば常にフリーエージェントとなるが日本の場合は一度行使すると移籍が出来るが、移籍先の球団が毎年保留権を持ち続けることになる。そのため、日本ではフリーエージェントの権利を行使せずに取っておく選手のほうが多い。

このように、日本とアメリカでは少し内容が異なるフリーエージェント制度であるが、これが生み出される原因となったのは保留権による選手の権利の低さだった。保留権による独占的な交渉権が与えられると、球団は自分達の要求を容易に飲ませることが可能だった。特に年俸を見てみるとフリーエージェント導入後選手年俸が上昇し、リーグの総収入に対して選手が受け取る割合も増加してきた。

こうしてフリーエージェント制度は選手の権利を拡充し、選手年俸を増加させるのに役立ったのだが、別の不均衡をもたらしてもいる。フリーエージェント選手とそれ以外の選手である。フリーエージェント選手が複数球団の競争によって年俸が決まるのに対して、まだフリーエージェントの権利を取得していない選手は球団が独占的に権利を所有して年俸を抑えることになった。結果として、フリーエージェント選手とそれ以外との格差は逆に拡大することになった。フリーエージェントの権利を持っていない選手は登録年数が少ない選手なので必然的に若手選手の年俸が安く、ベテラン選手の年俸が高く、若手がベテランに搾取されるという構造が出来上がった。

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ブログ開設3ヶ月

2009年02月27日 | その他

ブログを開設して早3ヵ月になる。かなり適当に書いてきたので最初のころ何を書いたかあまり覚えていなかったりもするのだが、どうぜ文章が微妙なのでどうでもいいだろう。ブログを書き始めて3ヶ月しか経っていないが、随分と書くのが上手くなった気がする。というよりも、速くちゃんとまとまった文章を書けるようになった。内容が優れているかは不明だ。

と、ここで読んでくれている方、コメントくださった方、人気ブログランキング押していただいた方に御礼を言いたいです。どうも、ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします。

人気ブログランキングです。押していただけると、うれしいです。とりあえずがんばってます。これからもよろしくお願いします。120位くらいまで上がって来ました。ここから先、すごい勢いで必要ポイントが増えていきます。ご協力お願いします。

と、話は代わって、最近気づいたのだがgooのアクセス数はかなりおかしい。調べたところ、普通の閲覧だけでなく検索サイトの巡回ほかがカウントされているらしい。それで、かなり数字が水増しされてるっぽい。騙された。まあ、最初から不自然だとは思っていたのだが。だから、本当のアクセス数はいくつなのかは正確には不明なのだが、最近少し増えてきたようだ。

ということで、これからもよろしくお願いします。


理論の逆が正しい

2009年02月27日 | 論理

片山さつき氏竹中平蔵氏の発言を取り上げて思うことに、理論の逆が正しいとい意味不明な主張をする人がたくさんいるということだ。市場競争が正しい。そこまではいい。問題は、市場競争の中のどれを政策として実行するかである。市場競争の基本はより成果を上げたものに多くの報酬を与えるということだ。これは格差が広がる可能性もあるが、同時に障壁が取り払われることによって平等化が進むという可能性もある。

それを、竹中平蔵氏は富の集中に反対してはならないという。問題は、富が集中する理由として成果を上げた人間が報酬を多く貰うという可能性以外に、寡占や障壁や不公正によって富が集中する可能性もあると言うことである。だから、富が集中することを認めるかどうかは、市場競争とはあまり関係ない。問題なのは、富んでいるものが本当に成果を上げたのかどうかということである。片山氏の発言のほうは、さらに笑えるのだが、労働者を恣意的に分けて一方の労働者には低賃金を甘受することを要求する。それも、外国人労働者というほかの労働者とは違う基準を突然持ち出してそう主張する。

両方に言えることであるが、本来の市場競争から自分の考えに基づいて範囲を拡張していく、そしてある考えが市場競争ともいえるから正しいはずだと主張する。問題は、市場競争の原理からまったく逆の結論も導き出せるということだ。正規労働者と非正規労働者の格差は市場競争を否定するものである。だから、本来の市場競争の考え方からすれば駄目なはずだ。それを、それが市場競争の一部とも考えられるという論理で押し付けようとする。

このようなことを許せばある理論から論理を展開していって、逆と言ってもいいような結論に行き着いたら元の理論の逆が正しいということになる。実際、上のような主張はそういうことを意味する。そうすると、一部のものがそう考えれば理論の逆が正しく、それに反対することが許されないということになる。このような理論の逆が正しいという主張を許すことは論理と社会を破壊することになるだろう。

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合理的な経済学者

2009年02月27日 | 経済学

大竹文雄氏のブログ対談から。この前の最低賃金に関する記事で紹介した部分以降で気になった部分を少し。

消費者金融の上限金利規制の議論というのは今の最低賃金の議論と全く同じです。上と下は逆ですが。金利を低くすると, きちんと返済できる人も少しでもリスクがあればお金を貸してもらえなくなる可能性が高いので, 上限金利規制はよくないと。つまり,ほんとうに貸してもらいたい人たちが, 貸してもらえなくなるからというのが, 上限金利規制に反対する経済学者の議論なんです。先ほどの, 本人は雇われたいのに, 最低賃金があるために雇われない人たちが出て
くるという通説と全く一緒です。もし, 需要独占的な状況であるとして, 上限金利の引き下げや最低賃金の引き上げで状況が改善されるというストーリーならば, どうなるか。金利を引き下げると貸出額が増える。独占ではなくなるから貸出額が増える。雇用についていえば, 最低賃金を引き上げると雇用量が増える。独占ではなくなるから, 雇用量が増えると。そういう意味で改善につながるというのが,独占の状況を使って説明する場合の議論ですね。ところが, 実際今回の金利の引き下げで何が起こったかというと, 貸出量が減ったのです。それはちょうど雇用が減るのと同じ話です。ただ, 私はそれでもいいかもしれないと思っています。つまり, 消費者金融は, 借りてはいけない人たちが借りている可能性がある。にもかかわらず, 高い金利で貸すことが許されていると, 消費者金融会社も貸してしまいますので, 結局借り手側が後で苦しむということが起きる。上限金利が下げられると, 会社側は少しでも危なそうな人には貸さなくなるので, 後で苦しむ人たちが減るという効果があるのではないかと。それはいいことかもしれません。一方, 高い金利でも借りることができた方が幸せだったという人もいると思います。このどちらが多いかが重要な問題です。

この内容に補足すると、今ではかなりまともになってきたらしいが、歴史的には消費者金融は借り手から貸した金を返させるために脅しなどの方法を用いてきていた。これは、大手であっても同じだった。つまり、貸し金の世界においては後から貸し手が暴力によって市場を歪めるような行動を取ることが常時行われてきた。また、一部で行われるそのような行為がもたらす恐怖によって市場を歪めてきた。そのことも考える必要があるだろう。

経済学的に考えると、当然のことながら新古典派的な完全競争が望まれるのだろう。しかし、いつも疑問に思うのだが貸し金のような市場は暴力による威嚇が行われており、自由な市場からはもっともかけ離れているものである。にも拘わらず多くの自由競争を支持する人たちが貸し金業者の側に付くのには驚いてしまう。競争的ということがどのようなものなのかを定義することが難しいのかもしれない。

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国民にも責任がある

2009年02月27日 | 政治

政治の議論をしていて、政治家や官僚、あるいは知識人や評論家、マスコミの偏向や愚かさを非難していると、横から突然「こうなったのは国民にも責任がある。」あるいは「政治は国民を映すものだから国民も悪い」というようなことを言われることがよくある。このような考えの背景には、たいてい愚民思想があり、大衆は愚かで未熟だから間違った判断をしてしまう。ちゃんと論理的に物事を考慮して判断しないで、感情や流れに任されてしまうという考えが控えている。

問題は、「国民にも責任がある」という発言は信じがたいほどピントがずれて的外れな発言になってしまっているということだ。政治家や官僚の無能や汚職、知識人や評論家、マスコミの変更や恣意的な報道を非難する場合、その意図は大衆とは対極の知的エリートの愚かさを指摘している。言うなら、大衆に比べて知的エリートはそれほど優秀で花井のではないか、さらにはもしかしたら逆に無能なのではないかということを示唆している。しかし、愚民思想というのは知的エリートに比べて大衆が愚かで指導しなければならないという主張だ。つまり、話が逆になってしまっている。

つまり、知的エリートを非難する内容だったはずが、一言「国民にも責任がある」といった瞬間話が逆になってしまっている。知的エリートが愚かである証拠を元に議論しているのに、それを間接的に大衆も愚かな面があるといった結果、知的エリートの愚かさを示す証拠から逆の結論が導き出されてしまっている。その意味で、「国民にも責任がある」という発言は物事の本質をはずした的外れな発言であるとしかいえない。

このような発言の更なる問題は、責任を知的エリートから大衆に転載するだけでなく、欧米社会の政治介入の責任を転載することにも繋がっているということである。欧米社会は長年多くのアジア・アフリカ・南アメリカの国々に政治的に介入してきた。しかし、その介入の結果現地の国が停滞すると「民主主義が根付いていない。これは国民の愚かさが原因だ」とかなんかいって責任を現地に転載した。このような論法を使えば、介入によって現地の政治経済が停滞すれば、それによって逆に自分達の正しさが証明されさらなる恣意的な介入が正当化されることになる。介入によって疲弊した国に比べて、介入した国は民主的に成熟しているといえるのだろうか?

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グーグルデータベース

2009年02月26日 | ニュース

グーグルデータベースに関する判決のgooニュースから(こちらにさらに詳しい説あり)、雑種路線でも記事が出ている。

 検索大手グーグルが進めている書籍全文のデータベース化を巡って、同社と米国の著作者らが争っていた集団訴訟が和解に達し、その効力が日本の著作者にも及ぶとする「法定通知」が24日の読売新聞などに広告として掲載された。・・・

 合意の対象は、今年1月5日以前に出版された書籍で、同社は、〈1〉著作権保護のために設立される非営利機関の費用3450万ドル(約32億円)〈2〉無断でデジタル化された書籍などの著作権者に対しての補償金総額4500万ドル(約42億円)以上をそれぞれ支払う。見返りとして同社は、絶版などで米国内で流通していないと判断した書籍のデジタル化を継続し、書籍データベースアクセス権の販売や、広告掲載などの権利を取得することが定められた。また、対象書籍に関連して同社が今後得る総収入の63%を著作者らに分配することも決まった。

著作権・特許権等の権利をどう扱うかは現在の経済において大きな問題である。元々はそれらの権利を一定期間保護することによって創作活動や研究活動(及びその公開)を促進しようという意図で導入された。しかし、現在においては逆にそれらの権利が障害となって、新しい表現や新製品の開発が阻害されるという問題も起こっている。

今回の判決は絶版本を対象にしているようで、基本的には大きな恩恵をもたらしそうである。アメリカで流通していない日本の本がどのような扱いを受けるかという部分に危惧を抱いている人もいるようだが、その部分が解決すれば大いに推進していくべきなのではないだろうか。

著作権や特許権の問題においては、日本のアニメが違法ダウンロードの激増によってアメリカ市場で壊滅したり、レンタルCDとMDの影響でCD売り上げが大きく減少する等権利の侵害が負の影響をもたらすこともある。しかし、明らかに複製品が市場を破壊するような場合以外においては、権利の利用を認めていくことが経済全体を活性化していくのではないだろうか。

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歪められる事実中川辞任に想う

2009年02月26日 | 政治

博士の独り言氏のブログから

 先稿で、G7後の中川昭一氏の会見動画(ノーカット版)を紹介させていただいた。35分余りの会見全体の中に、当時の中川昭一氏の状態の悪さは観られるが、報道で「酩酊会見」とするほどの苛烈な状態ではなく、全般的に、一応の質疑応答をこなしている。ただし、ごく一部の取り違え、応答の鈍さは観られた。だが、そのシーンは時間的にごく僅(わず)かであり、全体からすれば、0.1パーセントにも満たない。

 この事実からすれば、ここ数日の、「中川氏に体調を質問しなかった会見場の記者責任」(要旨)を問うメディアの論調には、中川氏の「酩酊会見」を“事実化”するための意図性を見せながらも、むしろ、会見全般が、メディアが「酩酊会見」と大報道するほどのものではなかったことを逆証している。

 大報道された各局の「ニュース動画」では、共通して、上記の「部分」を切り出して編集し、「酩酊会見」と報じている。中には、同じシーンを繰り返して挿入し、字幕を付けて言葉の食い違いを強調する傾向ものも複数観られる。同時に、G7本会議での中川氏の職務については触れていない。いわば、「情報操作」と指摘できる制作段階からの「意図」が明らかであり、ニュース動画それ自体に明白である。

中川昭一氏の辞任、前にも述べたがその原因はほとんど捏造である。もし、テープを編集して都合のいいものを作って、それを事実だということが許されるなら事実は無限にたくさんあるか、誰が言ったかによって決まると言う事だろう。そのような特定のものが作り出した事実を認めることは、結局は客観的な事実や公平な分析を封殺し、特定の考え以外のものを抑圧することになるだろう。

相変わらず、マスコミの捏造・歪曲は酷くなるばかりであるが、このような自分達に都合のいい事実を編集によって作り出すことを許せば本当の事実が次々と葬り去られていくことになるだろう。言論の自由と称してそのような偏向を隠すのではなく、多角的な見方を認めるメディアが必要だろう。インターネットの重要性は益々高まっていきそうである。

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