車輪を再発見する人のブログ

反左翼系リベラルのブログ

成果主義の失敗

2009年03月05日 | 経済学

労働問題中心、ブログで成果主義に関する記事が出てたので便乗して一言述べてみたいと思う。まず第一に、日本の成果主義と欧米の成果主義ではそもそも全然違うという事実がある。日本の成果主義においては導入時の成り行き及び法制度の関係から、成果によって報酬を決定する制度にならなかった。日本の成果主義においては、成果によって年収の上昇速度が変化する制度として導入された。

どう違うかというと、成果によって報酬が決まる場合は成果=報酬である。当然のことながら、同じだけの成果を上げた人には同じだけの報酬を支払うのが当然である。しかし、日本においてはもうすでに昇給してしまっている中高年層の賃金水準を下げることが許されなかったため、成果によって報酬が上下するのではなく上昇率のみが変化する制度にせざるを得なかった。さらに、成果主義が導入される過程で賃金上昇に対して厳しい査定が行われたため若者の賃金上昇率は抑えられることになった。結果、おかしなことに成果主義の結果、最も高賃金でありながら成果を上げてない中高年の年収が高止まりしつつ、成果を上げている若者の収入が抑えられるということが起こった。

さらに、現在の日本においては解雇が出来ず、一度上がってしまった賃金水準を下げることが出来ないので、中高年の高年収は維持され雇用も保護されることになった。また、他の正社員も雇用は保護されることになった。成果主義の目的の第一は成果と報酬を連動させることによって生産性を上げることと同時に、雇用を流動化させることがある。しかし、日本においては雇用の流動化が行われなかったので結果として既得権を持つ階層はその地位に安住し努力しようとせず生産性が向上しなかった。逆に、下層の労働者はそのしわ寄せを受けて所得が低下することになった。

つまり、成果主義として導入された制度が解雇や減俸を認めず、昇給のみを変動することを許す制度であったために、結果として成果に対して最も報酬が多い階層が保護され、成果に対して報酬の少ない階層の収入の低下が起こった。ようするに、成果主義といいつつ、その目的とは逆のことが発生した。そのため、日本における成果主義の失敗は成果主義が失敗したというより、成果主義とはまったく異質な、ほとんど逆とも言える制度が失敗したというべきなのである。

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法人税廃止

2009年03月05日 | 経済学

この記事で経済政策について論じると共に、アゴラで池田信夫氏が法人税の減税について言及している。法人税の現在が主張されるのには、法人税には大きな問題があるからだ。主に二つ原因があって、一つは二重課税を招くということで、もう一つは投資を抑制するということだ。二重課税というのは企業が利益を上げると法人税がかかるだけでなく、それを利益を株主に配当した分にも税金がかかるために一つの利益に二度も課税されており不合理だということだ。もう一つは、法人税がかかると利益が税金として吸い上げられるので企業の投資が減ってしまうことになるということだ。投資の減少は、経済の停滞の原因にもなってしまう。

ということで、法人税の減税や法人税そもそもの廃止が提案されている。基本的な考えにおいては賛成であるが、いくつか問題があるかと思う。理想的な世界を考えれば、すべての収入を合計してその上でその額に累進的に課税するのが合理的だろう。株式の場合は配当と売却益に課税すればいい。問題は、現在の税制においては配当益や売却益等が分離課税になっており、法人税を廃止すると逆に税率が少なくなりすぎてしまう可能性もあると言うことだ。

だから、法人税の減税議論においては現在の税制全体を股に掛けた議論が必要であると共に、国民背番号制等あらゆる収入を一括的に管理できるような制度を導入する必要があるだろう。そのようなものと一緒に導入されるなら、法人税の減税は投資を増やし経済全体を活性化させることにつながるだろう。

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マスコミの小沢擁護

2009年03月05日 | 政治

反日勢力を斬る イザの記事より。


「いま自民党が批判を受けているのは必ずしもスキャンダルだけではなくて、景気対策を含めた政策の問題だ。給付金の問題、社会保障の問題などなどあって、これで民主党に逆風が吹いたからといって自民党の政策が全部免責されることはない。自民党も民主党もどういう自浄能力や説明責任の能力があるのかを競う試金石になる。あまりこれによってお互いが一喜一憂するという話ではない」

川村晃司
「虚偽記載だけで立件するのは過去には無かったのではないか。西松建設から流れてきたのではないかと疑った人が犯罪になって、疑わない人は罪にならないというならこれは気持ちの問題、認識の問題だから、それだけで罰するというのは、じゃあ与野党を問わず全て強制捜査した結果なのかどうかということでいうと、司法が国策捜査などといわれないように、あるいは金額の多寡によって政治的な配慮をしたなどといわれないように、司法当局に方こそ国民に対する説明責任がある」・・・

山本晋也
「検察は一罰百戒では困る。百罰百戒でないと」・・・

なぜ頭の悪い人が意味不明なことを言うのかがよくわかる事例だ。この人たちの頭の中では、罪の重さが明らかに違っても同じように罰せられないと納得できないのだ。しかし、現実の世界は罪の重さによって刑罰が変わるのが普通だ。少し殴ってアザが出来たのと、歯が何本も折れて血まみれになったのを同じように扱うことはない。このように他の人がまったくの無罪でない限り他の人が罰せられることを理解できない人たちであるが、一方ではこの人たちが違うと判断した罪に対しては徹底的に糾弾し人格さえ全否定するのだ。この前の中川大臣の辞任において、今回とは違ってマスコミの人たちは同じような事例がありそれも同じように罰するべきだと考えなかったので、中川氏は徹底的に糾弾された。辞任を要求された上に、さらにまだ叩かれた。

つまり、中川氏の「泥酔疑惑」は他の人もしてる可能性があるとは判断されなかったので、罪として裁くべきだとされ、徹底的に糾弾されることとなった。一方、小沢氏の汚職は他の人もしているという理由で免罪された。これは、中国や朝鮮半島との関係においても、用いられる論法だ。日本の罪は、延々と拡大解釈され徹底気的に糾弾される。一方で、向うが拉致のような犯罪行為を行ったとしても日本も昔悪いことをしたと言い出して認めようとしない。

つまり、一方ではほんのわずかな罪であれ、拡大解釈し徹底的に糾弾される。他方では、完全に片方が完璧に悪いのでない限り免罪される。すべては、その人たちがどう思うかどうかだけなのである。今回の小沢氏の裏金疑惑に対する報道はまさにそのことをよくわかる形で表していると言えるだろう。

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不況の経済学 その2

2009年03月05日 | 経済学

前回に続いて2回目だ。前回は、短期的には経済においては固定的な資源というものが存在して、すべてを自由に動かすことは出来ないので需要予測の成否によって稼働率が違ってきてしまうという話をした。前回の話は、過去の投資などの行動が現在の状況に影響を与えるという話であった。過去の投資が間違った形で行われていれば、現在のその投資の価値が減少したものとなってしまう。それが、不況の原因の一つであると。現在、アメリカで住宅バブルが弾けているが、必要異常に住宅を作りすぎてしまい価格が下落している状態である。

それに対して、過去が現在に影響を与えるだけでなく、未来も現在に影響を与えるというのが今回の話だ。事業をしているときに、投資をしようと思ったらその投資がどれだけの収益を上げるかどうか、計算してから投資するかどうか判断するだろう。その時、必然的に未来においてどれだけ需要があるかどうかが判断に影響を与えることになる。将来多くの需要が見込めるのなら投資をしても資金を回収し、利益を上げられる可能性が高くなるし、需要が見込めないのなら投資が損失を招くかもしれない。だから、未来に対する予測や期待が現在の投資の意思決定を左右することになる。

この未来に対する予測や期待は、市場や産業によって違う部分がある。しかし、それを全部集めるとそのときの全体的な景気の予測が大きな影響を与える。全体として、将来需要増が見込めそうなら、いろいろな市場や産業の予想を集めたものも、基本的に投資に意欲的だろうし、逆なら投資に消極的だろう。

そして、投資というのは経済において需要であるために、投資が活発であれば需要が当然増えるし、逆なら需要が減ることになる。つまり、未来に対する予測や期待といったものが現在の投資意欲を決定し、結果として需要を大きく左右することになる。

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