車輪を再発見する人のブログ

反左翼系リベラルのブログ

愚民思想の意味不明

2009年06月26日 | 論理

相変わらず大衆は愚かだというような主張がそこらじゅうで見られる。その隠れた意図は大衆は馬鹿だ、合理的で賢明な知識人が先導しないといけないというものだ。しかし、歴史的に見るとここ二世紀の悲劇の大部分は知識人が愚かな理想や幻想、自己中心的な思想に支配されたことが原因だった。また、マスコミが馬鹿だ、政治家が馬鹿だ、ああこれは愚かな大衆の責任だというのもあるが、それも知識人の大部分が愚かであることを棚に上げて大衆に責任を擦り付けているだけである。

このような主張が行われるのには、大衆に対しては完全無比な合理性が要求されていると言うのがある。選挙であれ、日常の経済行動であれ、完全な合理性が認められなければ非合理的とされ大衆は愚かだとされる。しかし、問題はそのことは大衆が愚かで間違って選択を必ずするということを意味しないし、知識人が完全に合理的で正しい選択をすると言うことも意味しない。つまり、大衆に対して非常に厳しい基準で合理性を判断し、それに達していなければ知識人の愚かさの結果起こった失敗に対しても大衆がすべてを予見して合理的な判断を行わなかったという理由で責任を擦り付けているのである。

行動経済学の大衆行動の非合理性の実験結果も同じような性質を持っている。実験をする側の研究者は問題を完全に知り尽くしているために問題の設定条件での正しい答えを知っている。それに対して、被験者は限定的な情報を与えられるだけである。その条件で実験をした結果、「はい合理的には行動しませんでした」というのが結論である。それぞれの実験自体には意味があるのであるが、問題はそこからは大衆が完全には合理的に行動しないことしか明らかにならないということである。決して大衆が非合理的な行動を取るということではないし、ましてや知識人が合理的な行動を取るということでもない。

だから、愚民思想というのは実のところ根拠のない主張に過ぎないと言っていいだろう。知識人たちは昔から大衆は愚かだといい続けてきたが、現実には知識人の方が愚かであった事例で溢れかえっている。それを、特定の事例を元にに大衆の愚かさを主張し責任を擦り付けようとする非論理的な主張に過ぎない。

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知識人バイアス

2009年06月19日 | 論理

知識人というのは自分達が大衆よりも優れている、頭がいいと思っている。だから、無知蒙昧な大衆を指導しようといつもする。自分達は頭がいいと考えているので、高度な方法論によって完全な答えが導き出せると知識人は考える傾向がある。そして問題が発生する。

知識人は、素朴な政策よりも複数の要因を考慮した正しい政策を好む。現実の世界においては、相反する複数の価値観の対立や、複数の要因を考慮した答えが必要なことがよくある。だから、ただし答えを出すために、単純な政策ではなく複数の要因をちゃんと考慮した政策を採用する必要があると知識人は大抵考えることになる。

しかし、複数の要因を妥協する言は非常に難しい問題である。知識人は平等は極めて重要な問題であるとひたすら考えてきた。しかし、他方では努力を推奨することも重要であると考えた。その結果、努力していると思われる階層に対しては徹底的な保護と援助を行い、怠惰な階層に対しては徹底的な罰を与えた。結果、労働組合によって守られている労働者に対しては徹底的な補助を行い、最底辺の労働者や途上国に対しては暴力的な収奪を行うことになった。客観的に考えると一見、高所得者をひたすら保護し、低所得者から収奪しているので平等の原理に反しているようにも思えるが、努力をちゃんと考慮した高度な平等の観点からはそれが正しかったために、その政策に反対するものは差別主義者として弾圧された。社会的な影響力が高く差別されているとはとても思えないユダヤ人や在日朝鮮人に対する保護と特権が絶対的な善とされたのも同じ理由からであった。

つまり、知識人にとっては平等は非常に大事なものであるが、努力も大事かも知れないので、努力していると思われる階層に対しては最大限の平等を提供し、努力していないと思われる階層に対しては徹底的に環境を悪化させることによって努力させようとした。しかし、問題はその判断が本当に正しかったのかどうかである。さらに言うと、平等の観点からは所得の低いものほど支援の緊急度と重要度が高いはずである。そのことを考慮せずに知識人が勝手に決めた基準によって本来の原則をほとんど逆とも言える方向に捻じ曲げることが許されるのかという問題もある。

結局のところ、知識人は自分達が優れていると考えていたので、自分達が考えた複数の要因を考慮した高度な方法が優れた結果をもたらすだろうと考えた。知識人にはこのようなバイアスが常にある。しかし、問題は知識人も利害関係者に過ぎないのに、複数の要因を考慮する行為が自分達知識人の利益誘導に過ぎないのかどうかという観点からの分析がなかった。結果として、不思議なことに知識人にとって非常に都合のいい結論が複数の要因を考慮した、絶対的な善に基づく結論として出てくることになった。

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理論と事実

2009年06月13日 | 論理

理論から導き出される結論と、結果として起こっている客観的な事実が違うことはよくあることだ。そういう場合にどのように対応するかということは非常に重大な問題だ。一つの対応として、理論を信じて理論からすればこうなっていなければならないから、きっと事実が違っているのは他の要因が関与しているせいだと考えるのがある。それに対して、客観的な事実を信じて理論をそのケースにおいて捨てるのも手だ。

しかし、実はこれら以外にもう一つの選択肢がある。理論の前提や論理展開を検証することによって理論の範囲内で部分的な修正によって、客観的な事実と整合的な理論を考えることである。これが出来れば、もうすでに様々な角度から分析してきた理論であるために信頼性があると同時に、客観的な事実とも整合的であるため現実にも対応している。しかし、このような理想的に考えるといいことばかりにも思えるこのような方法が忌避されることはよくある。

例えば、日本の左翼はひたすら平等を主張してきたが、現在の大企業正社員とそれ以外との身分制社会という現実に直面しても、平等の理念を少し修正してすべての労働者に平等な待遇を求めようとはしない。それは、左翼の主要支持母体が労働組合であるために、平等というのは組合員内の平等でなければならず、それが全体としても絶対的な善である平等を意味しなければならないという全体的な真理があるためである。同じように、過去のヨーロッパや現在のアメリカにとっても、それぞれの行動が他の社会を破壊し、民主的な政治の出現を妨げていたとしても、ヨーロッパ人やアメリカ人によって行われている民主制にとっては、それはすべて現地人が悪いのであってヨーロッパとアメリカは常に民主的で善でなければならないので、他の民主主義の選択肢を受け入れることが出来ない。

このような問題は、ヨーロッパにおいてキリスト教教会が信者に聖書を見せることを禁止することによって、自らの権威を維持しようとしたことに代表されるように色々な分野において起こってきていることである。理論や理想を目指そうと上辺ではするが、集団内の政治や私利私欲が絡むことによって、特定の解釈が絶対化され、客観的な事実との妥協が阻止される。このようなことが知識人がひたすら間違い続けている理由の一つである。

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白黒はっきりつける人文科学

2009年05月09日 | 論理

白黒はっきりつける、曖昧さがない。よい意味でもよく使われる表現であるが、学問の世界においても厳密性や、曖昧でないことが重視されることはよくある。しかしながら、白黒はっきりつけるような厳密性は実は人文科学の非常に大きな特徴で、自然科学や数学の世界においてはあまり見られないものである。

人文科学の世界の議論においては、言葉の意味の定義の厳密性や、定義や意味の範囲の厳密性が、重視され何々であるか、何々でないかはっきりさせようとする。しかしながら、自然科学の世界においては人文科学の世界に比べて曖昧で範囲や意味を曖昧にしたまま議論していくことがよくある。

そうなる理由は、第一に現実の世界においては白と黒で区別できることというのは少なく、中間的なものや過渡的な性質のものがたくさんあるために白黒はっきりさせて議論できないというのがある。そのため、むしろ現象の性質を連続的に捉えて、強度や硬度、酸性値など物事を程度で表すことがよくある。また、生物の定義や、哺乳類の定義も厳密に決まっている訳ではなくてある一定の定義を決めて普段は議論しつつ、境界線上にあたる場合や厳密に議論したい場合にのみそもそもの定義から考え直すことが多い。

第二に、現実問題として最終的な答えがどのような形で与えられるかは最後までわからない。というよりも、最終的に研究対象に対して適切な定義を与えること事態が最終目的の一つであるために厳密な定義を最初に与えてしまうことは出来ないというのがある。物質の区分にしても、長い間同じ物質であると考えられてきたものが違うと判明したりする長年の過程の結果として現在の形へと近づいてきたのであって、最初から分かっていたわけではなかった。だから、自然科学の世界においては性質や定義などを連続的に変化するものとして連続的に捉えることが多い。逆に言うと、連続的に色々な性質を厳密に連続的に捉えようとしているともいえる。

数学の世界においては、厳密性の意味はまた違って、白か黒かではなく、完全に正しいかそれ以外かである。数学の世界においては厳密に証明することが重要視されて来たが、その判断基準は常に厳密に正しいかそうでないかのどちらかであった。この基準を使えば、人文科学の理論の大部分は厳密ではないという理由で一蹴されるだろうが、完全性を重視するのも一つの厳密性を追求するやり方である。

話が戻って人文科学の話になるが、人文科学の世界においてははっきりと物事を判断するために白黒はっきり付けようとする。しかし問題は現実の世界においては多くの減少が少しの違いで完全に代わってしまうということは少ない。そして、そのようにして物事を判断しようとすると基準となった境界条件があまりにも大きな意味を持ち過ぎ最終的な結論に絶対的な影響を与えてしまうことになる。

経済学の世界においては、市場において同じ財に関しては少しでも値段が違うとすべての需要が一瞬で移動するということになっている。現実問題としてはありえないし、さらに大きな問題は、別の要因として認められると全体をひっくり返すような影響が認められることだ。最近書いてきたように累進課税や福祉給付が与える労働意欲の低下などの悪影響が長年問題視されてきた。しかし、他方では資本家と対峙する必要があると言う理屈になれば資本家から労働者へと分配を移動させることが絶対化して、他の労働者や産業の生産性への影響がほとんど無視されることになる。つまり、与える影響の程度の概念が不足しているために、ほんの少しでも絶対的な影響を与えたり悪影響を心配したりするし、逆に他の要因となると前の要因をすべて吹き飛ばしてしまったりすることになる。このような議論がまかり通るのは人文科学の一つの特徴とも言えるのである。

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とりあえず欧米の発明だと言っておけば間違いない

2009年05月08日 | 論理

アゴラで池田信夫氏が株式会社制度が純粋に西洋圏の発明だと書いているのを読んで笑ってしまった。池田氏が悪いわけでは全然ないのだが、またお約束の西洋中心主義かと思ってしまった。学問の世界では最近はかなりましになって来たが、知識人層においては現在も何でも西洋が優れている、優れているものはすべて西洋発祥だというような主張がまかり通っている。

論法はこうだ。株式会社でも何でもいいが、色々な側面や要因が積み重なって新しい出来事や制度、発明は成り立っていることが多くある。そんな時、何か「特定のもの」が絶対不可欠でそれがないと株式会社ではないと定義すると、「特定のもの」が最終的に加わって初めて株式会社が発明された事になる。だから、そういう風に定義すれば株式会社が西洋で発明されたということになるが、それと似たようなものは他の文明にもあったし、特にイスラム社会においては団体や集団的なものは大いに発達していた。だから、結局のところヨーロッパにおいて何からの新しい変更点があったとしても前の時代のものとまったく違ったものであるという訳ではないだろう。

このような画期的な発明はすべて西欧起源だというような論法はたくさんあって、地動説や国際法などもそうだ。地動説の内容の多くは実はイスラム科学においてかなり前からずっと知られていたことであったし、そもそもガリレオ・ガリレイがイスラム科学の観察データを元に研究をしていたことは紛れもない事実である。これは、ガリレオの業績を否定しているのではなく、結局は多くの発見や発明は前からの知識を受け継ぐ形でなされていると言う事実を指摘しているだけだ。それを、都合のいいように解釈して、すべてが西洋から始まっているかのように考えるのは間違っているだろう。

西洋の場合は少しでも何か付け加えるとすべてが新発見とされるのに対して、日本などの場合は少しでも前の発見を参考にしていると単なる改良としか見なされないようだ。これは日本に対する非難としてよくあるものであるが、独創性がない独自の新発見ではないというものだ。しかし、現実を見てみると新しい知見や独創的な発見がちゃんとある。ただ、前から何らかの知識を受け継いでいると相手にされないので発見だとされないだけだ。

このように、少しでも西洋で新しいことが付け加わったり、違った部分があったりしたら、それが絶対的に大事なものだとされるので、優れた制度や新発見のほとんどは西洋のものであると言っておけば大概は問題ない。だが現実には、その前後に様々な発見の過程があるし、また一つ一つの発見が違う形で影響を与えている。そういうことをちゃんと理解した上で、発見や発明を語っていく必要があるだろう。

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正論は一つ

2009年04月28日 | 論理

城繁幸氏が「ラーメン特集やるならともかく、政策については正論は一つのみ」と書いてたのを読んで思わず笑ってしまったのだが、はっきり言ってまさにその通りだ。色々な価値観があるだとか、効率だけでなく他のことも考える必要があるとか言う人がいるが、効率とか平等とかを達成する方法として生産的な方法とそうでない方法があるという点で正論は一つだ。

弱者を保護しろ、平等が大事だ、だから高給取りの既得権者を保護しましょうというのは意味不明だ。弱者を保護したいんだったら、弱者に対する保護を充実させる必要があるし、平等を希望するなら賃金等の待遇をまず均等化する必要がある。何百倍も非生産的な方法でやっていて、他のところから資源を持ってくれば生産的な方法も出来るはずだというのは非論理的な屁理屈でしかない。貧困や不平等をうわべでは語りつつ、八代氏が正社員の既得権の撤廃を主張すると発狂したように非難するのは、結局は差別主義者でしかない。

資源は有限なんだから、その資源を如何に効率的に使えるかどうかで結果が変わってくる。これは何でも同じだ。だから、本来低所得層の生活改善に使える資源を、高所得の既得権者の雇用保護に使ってしまえば、貧困が深刻化し、道にホームレスが溢れることになる。そして、同時に効率を出来るかぎり損なわない方法でそれを行う必要がある。だから、競争を妨げ全体の効率性を損ないながら、不平等の温床にもなっている既得権をまず解消しようとするのは当然だ。それを新自由主義として非難するのは結局は身分制を支持しているだけだ。平等を本当に信奉するならちゃんと平等を達成できる政策を支持すべきだ。

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色々な要因を考慮すると

2009年04月23日 | 論理

今回の話は少し前の貸金法改正の話の続きでもあるのだが、いろいろな要因を考慮する必要があると言う主張はよく聞くのだが、その結果間違うということがよくある。問題は、色々な要因を考慮するのはいいのだが少ししか影響を与えない場合も有れば、答えを完全に変えてしまうほどの影響を与える場合もある。そこのところをちゃんと考えないと結局は勝手に置いた前提が答えを決めることになってしまう。

古代ギリシャ・ローマでは民主制が行われた。現在でも欧米社会では民主的な制度が社会の基本だと考えられている。しかし、一方で衆愚政治に対する危惧があった。また、民主制が議論された当時は社会に貢献したかどうかで選挙権を与えるかどうか決めるべきだという議論があった。その結果、選挙権を与える範囲が限定された。通常の解釈では、貴族制という一部の者が権力を握っている専制的な制度から、民主的な制度へと移行したとされる。しかし、現実的には底辺の選挙権を持たない層や奴隷達の待遇は劇的に低下した。だから、そういう人たちは抵抗したが、僭主を支持する専制主義者として抹殺され、民主制が絶対的な善として君臨した。

ここでも問題なのは、多くの人にとって本当に一部の者による民主制は好ましいものであったのかどうかということである。不完全かもしれないが民衆それぞれに伝統的に権利を与える王制や貴族制と、崇高な理想を掲げてはいるが現実的には一部の者にしか権利を与えない民主制ではどちらがより優れているのだろうか。また、民主制を支持しつつ、他の要因を考慮して選挙権を一部の者にだけ与えるというのは合理的なのだろうか。支持者の考えでは貴族制よりも民主制は絶対的に上回り、それをさらに衆愚政治を考慮したより上のものにしたことになっている。しかし、これでは衆愚政治に関しては民主制さえも絶対的に優越する優先順位を与えつつ、他の問題点に関しては完全に無視しているだけであるかもしれない。

この前の貸金法改正の議論で言いたかったのは、なぜ上限金利を規制することや過払い金返還の影響だけが重視され、そもそもの消費者金融による社会問題の発生という現実を超越してしまうのかというのが疑問だということだ。普段は、赤福のような些細な問題であっても大騒ぎし、雪印は廃業に追い込まれたのに、あれだけ深刻な社会問題を起こした消費者金融に対しては、対策が悪影響を与えるかも知れないというだけで非難が止み、弁護の嵐となっている。そこのところが可笑しいのではないだろうか。ほんの少しの罪でも徹底的に断罪する一方で、別の要因が考慮されれば突然重大な組織犯罪が弁護すべきものに変わってしまう。結局は、ほんの少しの別の要因がほとんどすべてをきめてしまっているのである。

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アメリカに消費者金融があったら

2009年04月17日 | 論理

昨日の貸金法改正の話の続きだ。消費者金融の問題でグレーゾーン金利や過払い金利返還の話になると、後からルールを変更するのはおかしい、法治主義で行くべきだという主張がよく聞かれる。そのような主張が本当に妥当かどうか考えてみる。

突然だが、もし消費者金融各社が営業しているのが日本ではなくてアメリカだったとしたらどんなことが起こっていたか考えてみよう。アメリカは訴訟大国だ。特に大企業が不正なやり方で広大な被害を与えたら、集団訴訟において多額の賠償金だけでなく、懲罰的な賠償金も含めてものすごい額の負担を被ることになる。だから、逆にアメリカでは訴訟による懲罰的な賠償という現実が違法行為や差別的な行為を抑止することに貢献している。

そんなアメリカだから、日本の消費者金融がやってたようなことをしていたら、違法な取立てをしたら数千万、家族関係や友人関係を破壊されたら数億、自殺に追い込まれたら十億といったような額の損害賠償訴訟が山のように起こされていただろう。消費者金融にとってはそのような犯罪行為に対して甘い日本でよかったと言えるだろう。

つまり、日本の消費者金融がやっていたことは他の国なら一瞬で会社が消えてなくなるようなことだったのだ。法治主義で過払い金訴訟に反対するというが、実は法律を守っていなかったのは消費者金融の方だ。法律を守らずに暴力によって借り手の人間関係を現金化し濡れ手に粟で儲けてきたのである。それで法律を守って消費者金融を保護しようというのは、暴力で強制した約束を、約束は約束だからといって守ることを求めるようなものだ。つまり、そもそも消費者金融の権利を守ること事態が法律的に正しいかどうかさえ怪しいものでしかないのだ。法治主義というものをちゃんと理解した上で議論していく必要がある。

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改正貸金業法を指示する-池尾和人

2009年04月16日 | 論理

つい昨日気づいたのだが、アゴラに池尾和人氏の「改正貸金業法を指示する」という投稿があった。大いに賛成できる内容だったので引用する。

上限金利規制や総量規制といった統制経済的なやり方は、非効率で副作用の大きなものですから、そうした規制の強化や導入に伴って何らかのコストが発生していることは疑いありません。しかし、「便益ばかり強調し、まるで費用が存在しないかのよう」に言うのが正しくないように、「費用ばかり強調し、まるで便益が存在しないかのよう」に述べるのも間違っています。貸金業法の改正の以前と以後で、純便益(便益-費用)がどう変化したのかを考えなければなりません。

池尾・池田本のp.224で池田さんが指摘しているように、「最近の経済学で共有されている基本的な考え方は、市場メカニズムがちゃんと動くためにもルールは必要であるというものであって、ルールもなしにマーケットだけ導入したら滅茶苦茶にな」ります。しかし、果たしてこれまでの日本の消費者金融市場は、市場機構が適正に作動する前提条件となる「ルールとか暗黙の約束事」が遵守されるような状態にあったのだろうかと考えると、否定的にならざるを得ません。

私自身は、同書のp.226で「これまでの日本の市場経済は、ルールとか制度整備が不十分で、相手を騙して儲けるような行動を抑止する仕組みが十分に備わっていない、一言で言うと質の低い市場だった」と述べましたが、中でも従来の消費者金融市場はきわめて低質な市場であったと判断しています。それゆえ、略奪的貸付(predatory lending)が広範に横行していたとみています。

略奪的貸付の概念は、サブプライムローン問題で有名になったので、ご存じの方も多いかと思いますが、要するに借り手が不利益を被るような貸付のことです。自発的交換の世界で、どうして借り手が不利益な取引に応じるのかという疑問をもつ方も少なくないでしょう。確かに、完全情報で、交渉力等の面でも対等性が確保されているなら、強制されない限り、不利益な取引に応じる者はいません。しかし、情報の非対称性が存在したり、借り手の側に行動経済学的なバイアスがみられたりすれば、略奪的貸付は起こり得ます。

改正貸金業法に批判的な人は、よく「ヤミ金が増えるだけだ」といった言い方をしますから、ヤミ金が存在することは認めているわけです。それでは、ヤミ金がなぜよくないかというと、それは略奪的貸付行為にほかならないからです。この意味で、日本の消費者金融市場に略奪的貸付が存在することを前提として議論する必要があります。問題は、ヤミ金だけが略奪的貸付で、登録貸金業者はまったく略奪的貸付と無縁だったといえるかということになります。この点は、最終的に実証の問題ですが、少なくともヤミ金融に限定されず略奪的貸付がみられるというanecdotal reportsはたくさん存在します。また、いまのところそれを否定する実証結果も出されていません。

従前から、日本の消費者金融市場に関しては、「高金利、過剰貸し付け、厳しい取り立て」という現象がみられるという指摘が繰り返しなされてきています。このうち、厳しい取り立てというのは、私は、人間関係のような通常は「譲渡不可能(non-transferable)な資産」を譲渡可能(transferable)にする技術だと捉えています。

通常の意味での金銭的な資産や所得の他に、ある個人が職場や地域あるいは親族や家族との間で維持している人間関係の良好さといったことも、その個人の厚生水準の重要な規定要因です。その意味で、いわゆる無産者であっても人は、現在の人間関係から得ている便益の金銭相当額(あるいは、その人間関係を失うことの機会費用)を現在価値化した分の資産はもっていると考えることができます。厳しい取り立ては、親族や友人から借りて返済させるというかたちで、この資産を金銭化します。しかし、金銭化される割合はかなり低く、資産の大半は破損されることになる(すなわち、二度と親類つき合いや友達つき合いしてもらえなくなる)とみられます。

「多重債務の怖さは、その生活破壊力の大きさ、早さにある。」(岩田正美『現代の貧困』ちくま新書、2007年、p.179)と指摘されていますが、これは、いま述べたような事情があるからだと考えます。こうした理解が正しいとすれば、厳しい取り立てを伴う消費者金融は、大きな死荷重(deadweight loss)を発生させるものであり、その規模拡大は、社会的余剰をむしろ減少させるものになると考えられます。今回の貸金業法改正が信用収縮をもたらすことは、このような観点から意図されたものです。収縮する信用部分が、もっぱら死荷重を発生させるタイプのものであるならば、マイナスの効果を持つものがマイナスになれば、社会の厚生水準は改善することになります。

原因は「厳しい取り立て」にあるので、本当はそれだけを禁止できればいいのですが、立証可能性等の問題を考えると、取り立て規制の実効化(enforcement)はきわめて難しいものです。それゆえ、やむなく冒頭でも述べたように副作用が大きく、乱暴な手段である上限金利規制や総量規制を導入せざるを得なかったというのが、日本の消費者金融市場の情けない現状だといえます。改正貸金業法を批判する人は、社会的にもロスを生じさせるようなタイプの略奪的貸付を横行させてもよいというのでなければ、どのような代替的な方策があるのかを提示すべきでしょう。

ということで、貸金業法の改正後、略奪的貸付は顕著に減少しており、かなりの便益がもたらされたと私は判断しています(もちろん、これも最終的には実証の問題で、現時点で確たる証拠があるわけではない)。しかし、コスト増がこの便益を上回っていたら、失敗だということになります。

コストとして、一般に指摘されているのは、(1)中小零細事業者の資金繰りが困難化していると、(2)ヤミ金が増えているというものです。これらの点については、私も懸念していますが、辻広さんも指摘しているように、いずれもデータ的に裏付けられたものではありません。前者の点については、木村剛の『ファイナンシャル ジャパン』が特集するということのようなので、どんな証拠が出てくるのかを待ちたいと思います。

後者の点は、とても気にしているのですが、ヤミ金被害が増えたという感触は幸いなことにいまのところありません。もっとも、定義的に「ヤミ」ですから、公式統計とかがあるわけではないので、印象論にしかならないところがあります。首都圏とか関西圏では、警察の取締りが強化されたことから、明らかに減少していると思われます。東京在住であれば、神田駅周辺や新橋駅前の状況をみれば、このことは分かるはずです。しかし、(仙台や福岡といったクラスの都市を含む)地方では、増加しているのではないかと懸念される兆しがないわけではありません。

ヤミ金(の検挙数ではなく、被害)が増えているといっている人はいるのですが、どのような根拠に基づいているのか是非教えてほしいと思っています。ある記事のように、「ある大手消費者金融の関係者は『(断られた人は)おそらく他社でも断られているでしょうから、ヤミ金に流れるとみるのが自然でしょう』と話している。」というのだけが示された根拠というのでは、話になりません。

結論としては、純便益は増加しているという判断です。ただし、現状が最善でないことは当然で、次善どころか三善以下でしかない可能性も高いので、繰り返しになりますが、もっといい解決法があるということでしたら、是非ご教示下さい。

結局、貸金法改正に関する議論のおかしなところは、多くの消費者金融が違法な行為をして、それが社会の便益を大きく損なっているのに、規制をしないことによって消費者金融を保護する必要があると言う主張が出てくるところだろう。本来なら、もっと前から違法な取立てなどに対して厳しい刑事罰を科すなどの対策を取っておく必要があった。また、現在においても金融業者の違法な行為に対する取締りや対策は不十分だと言えるだろう。つまり、違法な行為を規制することによって正常な市場を生み出す必要があるのである。

それを、違法な状態の改善によって社会全体の利益を改善しながら貸金業界を改革していく必要があるのに、不法な行為によって多くの収益を上げてきた現在の消費者金融の利益を保護することによって市場を保護しようとするのがおかしいのである。少し考えれば分かることであるが、違法な取立てをしてでも貸し出しを回収する業者と違法な取立てをしない業者とがあれば、違法な業者は利益を上げ、合法的にやっている業者は貸し倒れによって潰れていってしまう。つまり、現在の違法な取立てが蔓延る状況は現在の消費者金融たちがまともな業者を排除することによって作り出したのである。

つまり、本来は健全な市場を作り出さないといけなかったのに、消費者金融が法律を無視して違法なことをし、それが他の健全な業者を排除して反社会的な市場が形成されたのである。このように、消費者金融が原因となって現在の違法な取立てが横行する状況が出来上がったのに、消費者金融が違法なことをしていなければ存在したであろうよりよい金融市場の可能性を無視して、現在の反社会的な制度を守ろうという発想が無茶苦茶なのである。

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社民党の論理

2009年04月15日 | 論理

トレードオフの話が延々と続いて申し訳ないのだが、今日も続きを。現在の日本の労働における正社員と非正社員との格差問題や、政府の予算の分配の問題においての社民党や共産党の思考回路について。

例えば、非正社員の低待遇やワーキングプアが問題になっている時に、正社員の待遇の問題を持ち出すと、八代氏が徹底的な非難を受けたように非難の嵐が左派から巻き起こる。そして、非正社員の待遇改善は正社員の待遇の低下以外の方法で行うべきだと言い出す。そして、好況の時には正社員のボーナス増額とベースアップを要求する。同じように、無駄と思われる予算の削減の話が出てくると、防衛予算を削ればいいと言い出して無駄な予算の削減に反対する。結局、自分達が考える無駄な部分が完全になくならない限り、自分達が少しでも必要だと考えるものの削減に断固として反対する。

しかし、現実問題としてはそれぞれの瞬間に制約の中で限定された資源を如何に分配するかを考えなければならない。だから、他に重要度の低いものがあると言う理由で、無駄な予算や不平等な高待遇を維持すれば、結局は他の部分にしわ寄せが来ることになる。結果として、必要な予算が出せなくなりより立場の弱いものの待遇が低下することになる。結局は、社民党的な論法は正社員の待遇は非正社員の待遇よりも絶対的に優遇すべきだといっているのと同じだし、特権的な階層の保護予算は弱者に対する予算よりも絶対的に優先されるべきだといっているのと同じだ。

だから、現実の世界において効率的に予算を使い、色々なニーズや価値観を満たしつつバランスを取っていくためには非効率な使い方をため効率的に資源を使っていく必要がある。効率性を求めるときに効率を求めることは当然だろうが、公平性や平等性を追求する場合においても、高待遇の組合員を保護するというような非効率な方法を取らずに、貧困層への支援を増やすというような効率性を考えた政策を取っていく必要がある。そのような考えに基づいて政策を考えていくことが結局は効率で平等な社会を築くことに繋がっていくだろう。

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