車輪を再発見する人のブログ

反左翼系リベラルのブログ

偏狭なる多様性がもたらすもの

2009年06月29日 | 社会

昨年からの不況の結果多くの企業が人員を抑制している。しかし、外国人だけは少し違うようだ。Diamond Onlineよりローソンが外国人の正社員の採用を急増させていることに関する記事から。

ローソンでは、大卒の新入社員も全員店頭業務からスタートするが、今年は「新入社員122人中、実に3割にも上る39人が外国人」という異例の多さとなった。

国籍は、中国が33人と大多数を占める。その他にベトナム、台湾、韓国、インドネシア、バングラデシュの出身者がいる。男女比は約半々だ。皆日本の4年制大学を卒業し、日本人の大学生と全く同じ条件でローソンの採用試験に合格して入社して来た。入社後の待遇もすべて日本人と同じだ。

これでは日本人が差別されて外国人、特に中国人が特別待遇を受けているようにしか見えないが、これを多様化として賞賛する人たちもいるのだろう。多くの女性や、フリーターが差別を受け、正社員としての道を閉ざされている一方で、外国人に対してはこのように寛大に門を開くことに違和感を覚える人も多い。トヨタ自動車は、女性や高齢者、フリーターは雇う気はないから外国人労働者を大量に入れろと要求したが、これこそが自分勝手な多元主義の見本だろう。

ヨーロッパにおいても、大量の移民を受け入れ低賃金の労働者として活用したが、結果は貧困と社会的対立の深刻化と、社会の荒廃でしかなかった。社会の中の絶対的な差別を解消しようとせずに、他所から自分勝手に人を入れてそれを多様性と呼ぶ。そのような、差別的な多様性は単なる身分制でしかない。五千万人の国民に同じ権利が与えられる社会と、二千万人の特権階級と五百万の外国人だけに特権が与えられ、残りの三千万人と三十億はいる途上国を見捨てる政策は愚かでしかない。途上国の感染症対策や栄養問題に資金を出せば、はるかに多くの人の役に経つだろう。そんなことさえ理解できない知識人は、今日も差別を絶対的な善と信じて、殺戮を繰り返すのだろう。

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犯罪の厳罰化と犯罪者の擁護

2009年06月09日 | 社会

最近犯罪に対する厳罰化の流れに対する記事を読んで思ったのだ。内容的には、安易な厳罰化を嘆いていて、それを国民の軽すぎる罰に対する反発に迎合するポピュリズムだというような内容だった。しかしながら、厳罰化の流れがいいか悪いかに関わらず、現在の日本の抱えている非常に大きな問題は知識人やマスコミが一部の犯罪者集団に対しては徹底的に擁護する一方で、軽微な罪であっても企業を吊るし上げたりしていることである。

例えば、消費者金融やノンバンクの明らかに犯罪である取立てに対しては、昔から現在に至るまで延々と徹底的な擁護が行われてきた、だけでなく借り手の責任を異常なまでに追求し、すべての責任を借り手に擦り付けてきた。一方で、雪印や赤福のようにそれほど重大な問題が起こっていなくても、激高し企業がつぶれるまで徹底的に糾弾するということも同時に行われた。分かりやすいと思うので企業の例を取り上げたが、これと同じようなことが他の状況においてもひたすら発生してきた。

軽微な罪であっても、罪を絶対視し断罪する一方で、被害者にも責任があるとなると、一転すべてがひっくり返って被害者を徹底的に断罪する。この結果戦後の日本においては少しの罪でも弾劾される一方で、知識人が擁護している在日朝鮮人が組織犯罪を起こしたときには、一転被害者の側を徹底的に糾弾し、あたかも被害者が凶悪犯罪を犯したかのような言説を繰り返した。この構図は、他の問題においても同じで日本が朝鮮半島に対して犯した罪に対しては延々と追求する一方で、北朝鮮による拉致に対しては、最初は無視を決め込み、いいわけ不可能になると、日本の戦前の責任を持ち出してきた。

つまり、厳罰化するかどうかに関わらず、一部の犯罪に対しては犯罪者をひたすら擁護する発言を繰り返し、他方では軽微な罪を徹底的に弾劾した知識人やマスコミがもたらした社会的な萎縮こそが最大の問題である。最近、池田信夫氏が出版社による高橋洋一氏外しを嘆いていたが、このように軽犯罪であっても過剰なまでに反応する一方で、組織的な犯罪を日常的に犯していることが日本全体に知られている消費者金融の広告を平気で掲載し続けるということを同じ出版社が行ってきたことを考えると、問題は日本人の責任回避や村八分ではなく、逆に厳罰化でもなく、戦後続いてきなインテリたちの変更した判断基準に本質的な問題があることが判るだろう。

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額に汗かく仕事、かかない仕事

2009年04月27日 | 社会

松本さんの額に汗かく仕事、かかない仕事という記事に笑ってしまったが、そういえばそういうこと言ってた人がたくさんいたな。このような思考回路の裏にあるのはおそらくマルクス等の労働価値説なんだろうけど、いまどき仕事の効率性や生産性を無視するような考え方に基づいているというのは面白いところだ。さらに笑えるのは、金融や投資家を否定して汗して働くことを美化していた人たちが、一部の仕事以外の価値をちゃんと認めていなかったことだ。どういう訳か、一方では利潤や効率を否定して働くことを主張していた人たちが、低賃金の人たちとの比較になると怠惰だから無能だから賃金が低くてしょうがない、怠けるなちゃんと働けと言い出した。つまり、上と比較する時は質を否定し量で比較し、下との比較ではすべてが質の違いから来るに違いないと言い出した。

このような上の層の投資や経営というものを否定しつつ、下とは努力の違いだと言い出す二重基準論法は、ヨーロッパでは昔から上層階級が使ってきたもので封建領主が使い、都市民が農民を差別しつつ使い、ヨーロッパ人がアジア・アフリカの現地人を差別的に扱った上でそれを正当化するために使ってきた。さらに言うと、マルクスが支持した労働者自体が農民や召使を排除する差別的な集団として存在したという事実があった。だから、今の日本でこのような主張が聞かれるのも全然不思議ではないだろう。

とはいえ、このような主張は結局は論理性を欠いた屁理屈の域を出ないだろう。時間当たりの効率を上げようとするものを如何わしいものとして否定しながら、他方では賃金が低いのは怠惰だからに違いない。結局は、どのような基準を使うかという恣意的な基準によって物事が判断されてしまっている。今、必要なのは公平な基準で生産性を計っていくことではないだろうか。

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